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予兆

「まだ休まれないのですか?」


 居室からまだ明かりが漏れているのを見つけたメルヴィがハッセに声をかけた。


「やっと試験の採点が終わったところだ。生徒に教えることを舐めていたね。なかなか大変だったよ」


 そう言うと、ハッセは解答用紙の束をメルヴィに差し出した。そこにはほとんど空白の解答に対して、ハッセが細かな字で、その解答に対する見解らしきものをびっしりと書き込んでいる。


「どうだろう。これで生徒達には理解してもらえるだろうか?」


 そう告げると、ハッセは解答用紙の束を受け取ったメルヴィに対して、何かを期待するような表情をしてみせた。メルヴィはうんざりした表情を浮かべると、ハッセの見解文に目を落とす。だがすぐに顔を上げると、ハッセに向かって口を開いた。


「専門的すぎます。おそらく生徒からしてみれば、何の事を言っているのか、全く理解できないと思います」


 メルヴィの回答に、ハッセは面くらった様な顔をする。


「えっ!ちゃんと参照すべき基礎理論から説明しているつもりなのだけど」


「基礎理論って、誰にとっての基礎ですか? ここに居るのはぬくぬくと暖かい部屋で育った坊ちゃん、お嬢さんたちで、研究所の職員ではないですよ」


「演繹的な思考に、育ちは関係ないと思うのだけどね」


「絶対に伝わりません。理解不能だと思います」


「そうかな? でもいくつか興味深い解答もあったよ。これだ」


 そう告げると、ハッセはメルヴィの持つ紙の束を何枚かめくってみせた。


「フレデリカ・カスティオール、侯爵家のお嬢さんですか?」


 解答用紙に目を落としたメルヴィは、疑わしそうな顔をハッセに向けると、それほど長くはない、白い部分が目立つ解答欄に目を通した。だがその表情が次第に真剣なものに変わる。


「溶けた砂糖は水の間の見えない隙間に入って見えなくなっただけです。だから嵩も増えません。それに砂糖がなくなったわけでは無いので、重さは元の水の重さと砂糖の重さになります」


 メルヴィが解答を読みあげた。


「興味深いだろう。研究所の研究員に同じ問題を出しても、このように推論とその結果を、簡潔に記述できるかどうか怪しいところだよ」


「教授、これって?」


「誰に教えを請うたのかは知らないが、間違いない」


「魔法職としての教育を受けている」


 ハッセの言葉をメルヴィが引き継いだ。


「メルヴィ君、その通りだ。どうやら私の生徒の中には既に磨かれた原石が混じっているようだよ。それも一人ではない。明日の体力測定が楽しみだね」


 ハッセはそう言うと、その解答欄に赤いペンでとても大きな丸を描いてみせた。


* * *


 私の前には授業棟へ続く煉瓦が敷かれた道と、その先にある雲一つない、真っ青なとても高く見える空がある。足元には昨日の夜の強風に散らされたらしい木の葉が、その名残を留めている。だが俯いて歩く私の目には何も入っては来ない。


『痛い、痛い……』


 私は一歩足を進める度に心の中で悲鳴を上げた。本当は口にも出したいのだが、私の中のささやかな自尊心だけがそれを何とか押しとどめている。マリが授業棟まで一緒に来ると言ったが、こんな恥ずかしい姿を見せられるわけがない。


 いや恥ずかしいとか、恥ずかしくないとかいう話ではなく、マリに手伝ってもらっては意味がない。私は自分の足で前へと進まないと行けないのだ。それこそが、自分が生きているという証なのだから。


 そんな風に心の中でカッコをつけても、現実の私は一歩前へと足を進めるたびに、体中に走る痛みに涙が流れそうになるヘタレだ。足元だけを見ながら必死に足を動かす私の横を、同級生だろうか、上級生だろうか、誰とも分からぬ足が次々と追い越していく。


「痛い!」


 私がついに痛みに耐えかねて、思わず頭を上げた時だった。前に私と同じように背を丸めて、ゆっくりと道を進む姿がある。私は痛みを我慢すると、少しだけ足早にその背中を追いかけた。


「オリヴィアさん!」


 額に汗をかいたオリヴィアさんが私の方を振り向いた。手には木で出来た細目の杖が握られている。その横ではイエルチェさんが少し心配そうな、もしかしたら呆れたような顔をして立っていた。


「フレデリカさん、おはようございます」


「車椅子はどうしたんですか?」


「あれは、昨日の夜に壊れてしまいました」


「壊れた? 故障ではなくてですか?」


「はい。車軸も車輪も曲がってしまいましたので、もう使えません。でも丁度良かったと思います。遅かろうがなんだろうが、それが動くのならば、やっぱり自分の足で歩く努力をしないといけませんね」


 彼女はそう言うと、私の方へ向かってにっこりと微笑んでみせた。


「そうですね。出来る事をしない理由はありませんね」


 私も精一杯の笑顔を彼女に返した。オリヴィアさんはやっぱりアンと同じで頑張り屋さんだ。この程度の痛みで怯んでいる私とは全然違う。


「ですが、お嬢様。このままでは遅刻してしまいます」


 イエルチェさんが少し焦ったように私達に告げた。


「イエルチェさん、そうかもしれません。でもそれはまだ決まった話ではないです。私の足はまだ間に合うと言っています」


 オリヴィアさんがイエルチェさんにきっぱりと答えた。私はオリヴィアさんが杖に置いていた手に自分の手をそっと重ねた。


「そうです。まだ決まったわけではありません。一緒に頑張りましょう」


「はい、フレデリカさん」


「おはようございます」


 背後から声がかかった。振り返ると黄金色の髪の美少女がこちらを見ている。


「イサベルさん、おはようございます」


「お二人とも無事で何よりでした。本当は無事を確認したく、お部屋までお伺いしたかったのですが、許可を頂けませんでしたので、とてもヤキモキしていました。あれ、オリヴィアさん、車椅子はどうされたのですか?」


「あれは昨晩壊れてしまいました。なので、自分の足で頑張ることにしました」


 イサベルさんが驚いた顔をしてイエルチェさんの方を見る。イエルチェさんがイサベルさんに少し困った顔をしながら頷いて見せた。


「そうなんですね。昨晩はやっぱり色々あったんですね。でも不思議なんです」


 イサベルさんがその細く長い指を顎に当てると、私達に向かって首をひねって見せた。美少女と言うのは本当に無敵だ。こんな何気ない仕草も全てが絵になる。


「何がですか?」


「昨日の歓迎会の時に一緒だった方と玄関でお会いしたので、ご無事でよかったですと声をかけたのですが、皆さんとても不思議な顔をして私を見るんです」


 そう告げると、少し恥ずかしそうな顔をする。


「そして思い直したように、昨日の火事ですかと聞かれました。私が覚えている限りでは、アルベール様の言葉といい、アメリアさんの言葉といい、とても火事だけの話ではないように思えるのですが……」


 アルベール様? 誰の事だろう。そうだ、新人戦でのあの超絶カッコいい人だ。突っ込みたいところではあるが、今はもっと大事な事を聞かないといけない。


「えっ! あれって無かった事になっているんですか!?」


「無かった?」


 イサベルさんが急に納得したかのように、握りこぶしを作った手で左の掌をポンと叩いた。


「そうですね。フレデリカさんのおっしゃる通りです。歓迎会自体がなかった事になっているみたいです。正直なところ、私が悪い夢を見たのかと思ったぐらいでした」


 私はオリヴィアさんと互いに顔を見合わせた。


「あの、オリヴィアさん。昨晩、変なやつを見ました?」


「変なやつですか?」


「赤い目がいっぱいある、白い繭みたいなお化けです」


 私の問い掛けにオリヴィアさんが体をビクリとさせた。こころなしか、杖を持つ手が震えている様に見える。


「ええ。見たと思います。あれはやっぱり私の妄想ではないのですね。フレデリカさんも見たのですね」


「何ですか、そのお化けというのは?」


「目玉お化けです。旧宿舎の中だけじゃなく、外にもいました」


「私も見ました。私は旧宿舎に向かう林の中で、こちらに寄ってきました」


 オリヴィアさんが私に続いて答えた。


「それって、先輩達の悪戯ではないのですか?」


「絶対に違います!」「違うと思います!」


 私達の言葉にイサベルさんが驚いた顔をすると、私達二人に対して、腫物にでも触ったかのように作り笑いをしてみせた。イサベルさんでもこの反応だから、やはりお化けの存在は他の人には信じて貰えそうにない。


「私は侍従から、ともかく殿方だけには気をつけてくださいと言われているのですが、本当にお化けがいるのなら、それにも気をつけないといけませんね」


 そう言うと、イサベルさんは私達に向かって真剣な表情をして見せた。


「殿方ですか?」


 オリヴィアさんが不思議な顔をしてイサベルさんに問い掛けた。


「はい。ほとんどの方は婚約者がいますが、私達三人は例外のようですので、気をつけてくださいと言われました。よく意味は分かりませんが、傷物になってはいけませんとかもつぶやいていました」


「傷物ですか?」


 オリヴィアさんが不思議と言うより、困惑した様な顔をしてイサベルさんを見る。


「どういう意味でしょう。もしかしたらお化けがいるのを知っていたのでしょうか?」


 イサベルさんが真顔でオリヴィアさんに答えた。


 イサベルさん、オリヴィアさん、それは間違いなくお化けとは関係がない話です。ジェシカお姉様も恋とか言っていましたが、ここはとてもそんな事にうつつを抜かせるようなところではないような気がします。殿方なんかより危険なものが一杯です。


「カーン、カーン!」


 授業棟の鐘が第一の予鈴を鳴らした。授業の開始まで十五分を切ったという事だ。


「この件は後で詳しく教えてください。今は急がないと遅刻ですね」


 そう言うとイサベルさんが私の肩をポンと叩いた。


「ギャーー!」


 私の口から思わず絶叫が漏れた。


「お、お化けですか!?」


 イサベルさんが驚いた顔をして私を見る。オリヴィアさんも口に手を当てて辺りを不安げに見渡していた。


「ち、違います。ちょっと昨日の夜に背中を打ちまして……」


 今の私は腫物そのものなんですよ。


「フレデリカさん、今日は体力測定の日ですけど、大丈夫ですか?」


「えっ!」


 思いっきり忘れてました。あの、女の子の日とかで別の日にしてもらうことはできませんでしょうかね? でも逃げてはダメですね。たとえ結果がどうであろうとも、自分ができる事を自分ができる限りでやるだけです。


 それに気になって寝れなくなりますからね。アルベールさんとイサベルさんの関係も、後でハッキリさせないといけません!


フレデリカのアルベールに関する記述を一部変えました。第4章「予兆」はこれにて終了になります。よろしかったら是非に感想などをいただけると今後の励みになります。よろしくお願いいたします。

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