名前
目を開けると、見慣れない天井と、見慣れた親友の顔が目の前にあった。その鳶色の目は涙に濡れそぼり、充血して腫れぼったく見える。
「ロゼッタさん、フレデリカ様が気づかれました」
私を見たマリが反対側に向かって叫んだ。そちらを見ると、濃い紺色の制服に身を包んだ、黒い髪を後ろでまとめた女性が、寝台の横で私をじっと見つめている。ロゼッタさんだ。
「フレア」
ロゼッタさんが私に小さな声で問いかけた。
「痛っ!」
ロゼッタさんに答えようと、寝台から体を起こしかけた私は、足のつま先から頭の先まで走る痛みに悲鳴をあげた。体中が痛みに燃えているようにすら感じられる。
「骨に異常はありませんが、背中を中心に全身に打ち身があります。薬は塗っておきましたが、少なくとも二、三日はかなり痛むでしょう。無理をしないで横になっていなさい」
そう言うと、私の体に手を添えて、そっと寝台に横にならせてくれた。
「はい」
「本当に申し訳ありませんでした。私のせいです。一時でもお側を、お側を離れるなんて本当に愚かでした」
マリが横になった私の体に縋り付くようにして泣き叫んだ。私はこんなに取り乱したマリを見たことがない。どうしてこんなにも私に謝るのだろう。
「歓迎会で、お付きの人は遠慮しろという話だったのだから、あなたのせいなんて事は絶対にないです。これは全て私の油断よ」
「ですが、もっと早く駆けつけるべきでした。もっと近くに控えて、あなたの前に、この身を盾として晒すべきでした」
「マリ、何を言っているの。そんな言い方はやめて頂戴。それにほら、打ち身ぐらいだから何ともないわよ」
私は縋り付くマリの手をそっと握った。痛みはありますけどね。いずれは治ります。だけど、あれだけの衝撃に巻き込まれたのだから、打ち身ぐらいで済んだのは幸運とでも言うべきだろうか? いや、私の事などどうでもいい!
「メラニーさんは、ローナさんは、私と一緒にいた方々は無事でしょうか?」
「あなたと同じように、打ち身ぐらいはあるでしょうが、二人とも無事です」
「よかった。私の前にももう一組、別の新入生の人達が居ました。それに森には上級生の方々も居たと思います。皆さんも無事でしょうか?」
「誰も大事には至っていないようです」
「みんなロゼッタさんが助けてくれたんですか?」
私の問い掛けに、ロゼッタさんが私に向かって首を横に振った。
「私ではありません。私が助けに行けたのはフレア、あなた達だけです。他の方々は別の人達が助けに行ったようです。ここには優秀な護衛役が何人も居るようですね」
「本当によかった」
私は安堵のため息を漏らした。だが不思議なことに、私から見てロゼッタさんの顔が少し険しいように感じられる。
「あなた達についても、私が助けたとは思えないのです」
そう告げると、ロゼッタさんが険しい表情のまま、小さく首を傾げて見せた。
「私の術の発動は遅れました。それにあの『渇望の亡者』の気配は、私の術が発動する前に既に消えていたように思えるのです」
「はい。助けてもらいました。赤いリボンをした髪が長い女性です」
「赤いリボン?」
あれ、あの空に登って行った人達は、ロゼッタさんには見えなかったのだろうか?
「はい。年は私とそう変わらないと思います。でも彼女だけではありませんでした。大勢の人達があそこにはいました。みんなが私たちを助けてくれたんです」
「フレア、まだ混乱しているのですね。あれだけの事に巻き込まれたのです。仕方がないと思います。薬を調合しますから、ゆっくりとお休みなさい」
ロゼッタさんが私に告げた。でもあれは幻なんかではないし、混乱もしていない。私は彼女の魂に間違いなく触れた。彼女の温かみと優しさは、私の心にはっきりと刻み込まれている。
「いえ、間違いありません。名前だって分かります」
「名前?」
「ロゼッタです。フレデリカに、親友によろしくと言っていました。そして私の事をもう一人のフレデリカと呼んでくれました」
「ロゼッタに、フレデリカですか?」
マリが不思議そうな顔をして私を見た。私はマリに頷いて見せた。
「赤いリボン、ロゼッタ、ここに居たのね」
ロゼッタさんが、天井のどこでもない一点を見つめながら小さく呟いた。そして私の方を見つめると、小さく頷いて見せる。
「フレア、今晩はゆっくりと休みなさい。明日の授業はお休みをいただいた方がいいでしょう。私の方から休みの届けを出しておきます」
「ロゼッタさん、待ってください。休んだりしません。絶対に行きます。這ってでも行きます」
「無理はなされない方が……」
マリが私の方を心配そうな顔をして見た。
「大丈夫よマリ。ここで休んだら、やっぱり私はあの目玉お化けに負けたことになる。あんなやつに負けるわけにはいかないの」
「そうですね。あんなくだらない者などに屈する必要はありません。でも今晩はゆっくりと休みなさい。マリアンさん、後をよろしくお願いします」
「はい、命にかえてもお守りいたします」
「マリ、大袈裟ですよ。それになんで手に短刀なんて持っているんですか!?」
「いいから、さっさと休んでください」
「はーーい!」
* * *
「今頃夕飯ですか?」
ロゼッタは暗い人気のない食堂の入り口から聞こえた声に、背後を振り返った。
「ええ、トカス卿。今日は色々とバタバタしていまして」
「その卿とか付けるのはやめてもらえませんかね? 私はそんな大層な者ではありませんよ」
「そうでしょうか? ご不興のようでしたら、今後はつけないように致します。あなたも今から夕飯ですか?」
「確かに夕飯は食いっぱぐれましたが、何かを食べる気にはなりませんね。私はこちらを先に頂いています」
そう言うと、トカスはロゼッタに琥珀色の液体が入ったグラスを揺らして見せた。氷室から持ってきたのだろうか、グラスの中の氷の塊が小さく澄んだ音を立てている。
「よかったら一緒にいかがですか?」
「この宿舎内では飲酒は禁止だったと思いますが?」
ロゼッタはトカスの方も見ないで、冷たくそう告げたが、少し首を傾げると、手にしたフォークを皿の横へ置いてトカスの方を見上げた。
「そうですね、今夜は一杯ぐらいなら、頂いてもよろしいような気もします」
「そう言ってもらえると信じていました」
トカスはロゼッタにそう告げると、背後に回していた手を前に差し出した。トカスが差し出した手の中にはグラスがあり、グラスの中には大きな氷が一つ入っている。
トカスはそれをロゼッタのほとんど手をつけていない夕飯の皿の横に置くと、ポケットから銀色の金属のスキットルを取り出して、そこからグラスへと琥珀色の液体を注いだ。
その液体が満たされるにつれて、グラスの中の氷が、閉じ込められていた空気の弾ける音を立てながら、グラスの中でくるりと回って見せる。
「では、せっかくの機会です。お互い何かに乾杯でもしましょうか?」
トカスはロゼッタにグラスを渡すと、砕けた表情をしながら、ロゼッタに向けてグラスを掲げて見せた。
「そうですね」
ロゼッタもグラスを手に取ると、それをトカスの前へと掲げてみせる。
「今日が無事に終わったことに。私達の魂がまだこの地にあることに」
杯を掲げたトカスが、改まった声でロゼッタに告げた。
「私の一番大事な人の無事に。そして私の親友の魂に安らぎがもたらされたことに」
ロゼッタもトカスに答えた。二人のグラスが触れると、静まり返った食堂の中に、鈴の音のような音が小さく響き渡る。
「そして、親友の魂を愚弄した者達への報いに」
ロゼッタはグラスの中身を一口で飲み干すと、そう小さく呟いた。トカスはロゼッタの黒い瞳を一瞥すると、空になったロゼッタのグラスに再び琥珀色の液体を満たして、静かに食堂から立ち去った。