懸念
「ソフィア様、こちらに来たのはこれで全部始末したと思います」
アメリアはそう告げると、手にした金属の杖を両手で小さく縮めた。
「アメリアさん、ご苦労様でした」
ソフィアはアメリアにそう告げると、前へと進んだ。ソフィアの目の前では、何体かの巨大の繭のようなものが、まるで綿菓子が熱に溶けるかのように、淡く白い煙の様なものを靡かせながら、虚空へと消えていく。
ソフィアはそれを一瞥すると空を見上げた。そこには、天空に浮かぶ二つの月に届かんばかりの、大きな炎の柱と、黒い竜巻がある。
「随分と派手にやったのね」
ソフィアが空を見上げながら呟いた。その言葉にはまるで何かの厄介ごとを背負い込んだかのような気配がある。
「これを普通の術で倒すのは極めて難しいでしょうから、致し方ないかと思います」
そう言うと、アメリアもソフィアの横で空を見上げた。二人の前で、炎の柱と黒い竜巻がゆっくりと消え去っていく。
「あのような派手な術を遠慮なく使えるのは、少し羨ましくも思えます」
アメリアがボソリと小さく呟いた。それを耳にしたソフィアが、少し意地の悪い顔をして、アメリアの方を振り向く。それを見たアメリアが慌てて口をつぐんだ。
「あら、あなたにも人並みの虚栄心というものがあるのね。ならばお母様に王宮魔法庁へ異動する推薦状を書いてもらう様にお願いしましょうか?」
「ソフィア様、単なる感想です。その様な冗談はおやめください」
「あなたがその耳障りな敬語をやめないと、本当にお願いしますよ」
そう言うと、ソフィアは肩にかけていた薄手のカーディガンを胸元に引き寄せた。二人の間を通り抜ける風が、手を通していない袖を大きく揺らしている。
「だいぶ冷えてきました。部屋着だと体が凍えてしまいそうです。宿舎に戻るとしましょう。それに炎に竜巻も消えた様ですから、警備の者達も起こしてあげましょうか」
ソフィアがアメリアに向かって、にっこりと微笑んで見せる。
「はい、ソフィア様……ソフィアさん」
「アメリアさん、よくできました。推薦状はまたにします。それよりもこれではっきりしましたね」
「何がでしょうか?」
「イアンさんの件が単なる偶然では無いことです。それにとんでもないのが紛れ込んでいることもです」
「おっしゃる通りです」
アメリアがソフィアに頷いて見せた。
「何よりも一番腹が立つのは、それをここが黙認していることですよ」
そう告げると、ソフィアは遠くに見える、学園の本校舎の尖塔の影を睨みつけた。
* * *
「メルヴィ君、お疲れ様。もう術を解いても大丈夫だよ」
ハッセは呪文を唱え続けているメルヴィに、そっと声をかけた。メルヴィは詠唱を止め、ゆっくりと杖を下ろすと大きくため息をつく。
「疲れました。明日はお休みをいただけませんか?」
「そうだね、と言いたいところだけど、休暇は学園に申請が必要だから、この夜も更けた時間に明日の申請は無理だろうね」
メルヴィはハッセの何の面白みもない返事に対して、肩をすくめて見せた。融通が効かないだけでなく、冗談も通じない相手だと言うことはよく分かっている。
「そもそも、どうして私が術をかけないといけないんです。教授が自分でやればいいじゃないですか?」
「何を言っているんだい。昏き御使いの件に、海で遭難しかかった件といい、僕のささやかな魔力なんて空っぽもいいところさ。連絡用の使い魔一つ呼び出せるかどうかすら怪しいところだよ」
「本当ですか? 単にサボるための口実だけのような気がしますが?」
メルヴィはとても不機嫌そうな顔をすると、明らかな疑いの目でハッセをじっと見つめる。
「メルヴィ君、もう少し信用してもらえないかな?」
メルヴィの視線に、ハッセが頭をかいて見せた。
「とても出来ません。それよりも紛れというのはこちらの術を隠すもので、相手を隠すためのものではないですよね。それにこれだけ大規模な紛れの術があること自体を知りませんでした。こんなのどこから引っ張り出してきたんですか?」
「引っ張り出す?」
メルヴィの問いかけに、ハッセが不思議そうな顔をして見せた。
「僕の方で既存の紛れについて、それに指向性を持たせる代わりに、領域を拡大する方法を研究した結果だよ」
「ちょっと待ってください。これって教授の研究成果ですか?」
「そうだよ。これでも一応は研究者だからね」
ハッセの言葉に、メルヴィの顔がより険しくなる。
「これって自分で確かめました?」
「失礼だね。ちゃんと計算はしているよ」
ハッセが少し不機嫌そうな顔をする。
「確かめましたか!?」
「メルヴィ君のおかげで、外からその効果を十分に確かめられたし、穴も無事に閉じた。完璧だったよ。さすがはメルヴィ君だ」
ハッセの台詞に、メルヴィが天を仰いだ。
「そうですね。この件については、後で時間がある時にゆっくりと追求させていただきます。それに手当の増額もです。でもどうして発生源側の術の発動を隠したんです」
「ここは学園だからね。貴族の子弟が山ほどいる。貴族以外も、基本的にはどこぞの大商人の子弟だ。そこでこんな術が発動されたなんて事がバレたら、大騒ぎじゃないか。みんな子供のことを心配して怒鳴り込んでくるよ」
「当たり前じゃないですか、いや、これって隠せるものなんですか?」
「外からは見えないと思うな。昔の大魔法職だか何かがかけた術がてんこ盛りだからね。何とか時間を作って調べたいんだが、下手に触ると発動しそうでまだ手を出せないでいるんだ」
「またクビになります。絶対に手を出さないでください!」
「クビ、それぐらいはどうってことは……いや、そうだね。少しは問題かな……ごほごほ……」
ハッセはメルヴィの表情を見て言葉を飲み込んだ。
「さっきの件に話を戻すと、中にいる人から隠せればなんとかなるだろう。それに人は自分の想像を超えたものは認知できない。まあこの強風で火の手が上がったということで終わりだね」
「当事者達はどうするんですか?」
「僕たち魔法職が使える力は何も物理的な力だけではない。そもそも使い魔はこちらの魂に引き寄せられるのだから、本来は非物理的な力だ。それをこちらが制御して物理的な力に変換しているのだから、精神に作用する力の方が本来の力とも言える」
「もしかして、恐怖心を煽るんですか?」
「現実感がないほどにね。そうすれば全ては悪夢扱いになる。何せ現実のものとは思えないのだから」
「耐えられない子がいるかも知れないじゃないですか!?」
「メルヴィ君、ここの人達はそれを必要な犠牲と呼ぶ様だよ。まあ一部の子には効かなさそうだから、そこはお付きの人達を通じて、大人の事情というのを説明することになるだろうね。それよりも、戻って試験の採点の続きをしないといけない。みんなの回答がとても個性的で、あまり進んでいないんだ」
そう言うと、教官用の宿舎に向かって歩き始めたハッセの背中を、メルヴィは慌てて追いかけた。目の前には学園の中央校舎の上にそびえる高い尖塔が、月明かりにその白く優美な姿を晒している。メルヴィにはその優美さが、女が男を騙す時の厚化粧のように感じられた。