親友
「はい、ロゼッタさん!」
「フレア、この扉はそちらからも開かないのね」
「はい。3人で体当たりしましたが、開きませんでした」
「吹き飛ばします。扉の側から移動してください」
「前の通路が目玉お化けに塞がれていて、この廊下から先に行けません!」
ロゼッタさんがこの鉄の扉を吹き飛ばせば、間違いなくこちらも吹き飛ばされてしまう。
「あなたから見て右手に、談話室の続きになっている給湯室があります。そちらの一番端で、何かの下に隠れなさい」
「はい、ロゼッタさん!」
私は隣にいた二人を振り返った。
「四界の守護者にて、東に座します日輪の担い手よ。その気高き炎を纏いし剣は、何者も遮ることは能わず……」
扉の外からロゼッタさんの詠唱の声が聞こえてくる。こちらもすぐに移動しないといけない。
「メラニーさん、ローナさん、右です!」
「でも扉なんてないですよ!?」
右手を見たローナさんが狼狽したように叫んだ。
「え!?」
確かにそこには木で作られた壁のようなものしか見えない。ロゼッタさんの勘違い? いや、そんなことはあり得ない。もしかしたら塞がれてしまったのだろうか? 横をチラリと見ると、目玉お化けが相変わらず巨大な目を震わせながらこちらへと向かっている。もうほとんど距離はない。
「皆さん、体当たりです」
「フレデリカさん、壁ですよ!」
「ロゼッタさんに間違いなどあり得ません」
メラニーさんとローナさんがお互いに顔を見合わせている。
「何をしているんですか!行きますよ!いっせいのせ!」
私達は今度は横の壁に向かって突進した。
「ドン!」
低く鈍い音と共に私達の体が跳ね返される。だがその感じはさっきの鉄の扉と違い、こちらを押し返す、弾みの様なものが感じられた。
『これって、もしかしたら……』
私は壁に取り付くと、手をついて思いっきり横に動かしてみた。
「ギシ!」
壁が小さく音を立てて横にずれた。間違いない。暗くて分からなかったが、この壁に見えたのは引き戸なんだ。私は、左手で扉の表面を探った。
「あった!」
左手がくぼみに触れた。右手も添えて思いっきり引く。
「ギーーーー!」
油が切れているのか、木材同士が擦れる甲高い音と共に、扉が横に開いた。私はローナさんとメラニーさんの手を引っ張ると、扉の先の暗がりへと飛び込んだ。
「ド、ドン!」
背後で何かがぶつかる音が響く。それは私達が扉に体当たりした時の何倍もの音と振動だった。頭の上から埃の様な物も落ちてくる。見ると、目玉お化けが扉にぶつかっていた。その勢いで厚い鉄で出来ている非常扉が、ひしゃげてしまっているのが見えた。
『なんて奴!』
その衝撃で、扉の前に置いてあったランタンが床に転がり、床に漏れた油から黄色い炎が上がっているが、目玉お化けにはその炎も全く効果がないように見える。さっきはランタンの炎で怯ませて、隙を作ろうなんて考えていたが、どうやらそれはとても浅はかな考えだったらしい。
「――その灼熱の炎は何者も遮ることは能わず――」
外ではロゼッタさんの詠唱が続いている。ロゼッタさんは扉を吹き飛ばすと言っていた。ロゼッタさんがやると言うのだから、生半可な吹き飛ばし方などはしない。ともかく早く奥へ行かないといけない。
「もうダメです!」
耳元でローナさんが叫ぶのが聞こえた。見ると、黄色い炎を越えて、目玉お化けが入り口の方から、床に倒れている私達へ向かって来ている。私の足元にも目玉お化けの体から流れて来る冷気のようなものが感じられた。だけどロゼッタさんが助けに来てくれたのだ。ここで諦めるわけにはいかない。
床で燃える炎を頼りに周りを見ると、ここは炊事場よりはるかに狭い部屋だった。物置みたいに壁際に棚のようなものが並んでいる。その棚の間に、小さくはあるが、配膳台と配膳口が見えた。その先には談話室があるに違いない。
ロゼッタさんはこの奥へと言ったが、奥は行き止まりだ。談話室に逃げるしかない。そちらに逃げられれば、扉を通って目玉お化けの背後に出れるかもしれない。
「談話室に逃げてください!」
「え!」
「配膳口を抜けて、談話室に行くんです!」
私はメラニーさんの腕を引っ張ると、配膳口の隙間にその頭を押し込んだ。そして下から彼女のお尻を押す。部屋着が濡れていて手が滑ったが、それでも細身のメラニーさんの体は隙間を通り抜けると、向こう側へと落ちた。「ドン」という床に彼女の体が落ちる鈍い音がしたが、そんなものを気にしている余裕などない。
「ローナさん!」
私の呼び掛けに、ローナさんも慌てて配膳口へと体を押し込んだ。だが彼女の見かけによらず意外と大きなお尻が配膳口に引っかかった。彼女は足をバタバタさせるが、その体は一向に前へと進んでいかない。
「メラニーさん、ローナさんの手を引っ張って下さい!」
私は向こう側にいるはずのメラニーさんに叫んだ。だがメラニーさんの声はしない。戸口の方から漂ってくる冷気は、私の体を絡め取るかの様に強く感じられる。もう奴は側まで来ている。このままでは間に合わない!
「助けてください!」
私はメラニーさんに向かって再度叫んだ。
『ええ、もちろんです』
談話室の方から声が聞こえたような気がした。メラニーさん? 違う、彼女の声ではない。
『皆さん、今がその時です』
『はい、そうですね』
一人だけじゃない。ざわめきの様なものも感じられる。先輩達が談話室に隠れていた? いや、このざわめきは数人のものではない。もっと、大勢の人達が上げるざわめきだ。それにこれは私の耳ではなく、心に響いている。死の恐怖が、私の心に有りもしない声を響かせているのだろうか?
「きゃ!」
突然にローナさんの体がとても強い力で引っ張られると、配膳口の向こう側へと消えた。私は何もしてはいない。その力はとても一人や二人とは思えないほどの力だった。
「ガチャン!」
私の耳に大きな金属音が響いた。はっとして首を横に向けると、私のすぐ脇で、目玉お化けがこちらを包み込むように大きく体を広げていた。壁にあった大きな金属製の棚が、それに触れてゆらりとこちらに倒れてくるのが見える。
こんな物の下敷きになったらぺちゃんこだ。私は慌てて給湯室の奥へと飛び退いた。さっきまで私が居た配膳口の前にその棚が落ちていく。それと同時に体を大きく広げていた目玉お化けが、それを勢いよくたたみ込んだ。
「グギャ!」
金属のあげる、低い音が響いた。私の前に落ちてきた棚が、目玉お化けの体の中で、まるで出来損ないの飴細工の様にねじれ、全く別の形へと変わっていく。
「ドン!」
それは金属の太い糸が絡まったかの様な姿になると、配膳口の前へと崩れ落ち、その隙間を完全に塞いだ。その上を、再び繭の様な姿に戻った目玉お化けが、赤い光を発しながらゆっくりと越えてくる。
「フレデリカさん!」
談話室と配膳室を遮る壁の向こうから、ローナさんの声が響いた。どこかに、どこかに扉はないだろうか? 私は後退しながら周りを見るが、目玉お化けの目が放つ赤黒い光の中に、それらしきものは何も見当たらない。両側の壁には、ただ空の金属の棚が置かれているだけだ。
こちらが一歩下がる度に、その一歩分を進んで来る。目玉お化けは私の焦りを愉しむかの様に、赤い目を震わせながらこちらへと進んで来た。
「トン」
私の背中が硬い何かに触れた。壁だ。そこで私の体が止まる。目の前では目玉お化けが再びその体を広げようとしていた。私の脳裏に先程の棚の姿が浮かぶ。それは心臓の音を、小太鼓が鳴っているかの様に響せた。体中の血が足の方へと落ちていき、指の一つも動かせない。私は、私はこんなにも弱い人間だったんだろうか?
「助けて!」
思わず口から声が漏れた。
『もちろんよ』
私の心に再び声が聞こえた。
『幻聴?』
その時だった。私は自分の横に誰かがいるのが分かった。それはぼんやりとしか見えなかったが、長い後ろ髪を赤い大きなリボンでまとめている。
『私はフレデリカの親友だもの』
彼女は私の方を振り返るとにっこりと微笑んだ。長い髪とリボンが彼女の動きに合わせて揺れる。だがその髪もリボンも私の体をすり抜けた。目玉お化けは彼女が差し出した手の先で、その動きを止められている。黒く小さな瞳が焦るように、怯えるように赤い目の表面で悶えているのが見えた。
『さあ、フレデリカがここを吹き飛ばせるように、私達もこいつを扉のところまで吹き飛ばしてやりましょう』
そう告げると、彼女は目玉お化けの方へ顔を傾けて見せた。
『さあ、一緒に……』
私は彼女の差し出した腕に自分の腕を重ねた。彼女の優しさが、暖かさが私の中へと流れてくるのを感じる。
『そうね、ロゼッタ。一緒に吹き飛ばしてやりましょう』
私の心の奥底の何かが彼女にそう答えた。彼女の指先と私の指先が重なる。
『吹き飛べ』「吹き飛べ」
目玉お化けは何かに弾かれたかのように宙を舞うと、その体は非常口の手前まで吹き飛んだ。それは繭のような状態に戻ることなく、目から割れた卵の黄身のように赤黒い何かを辺りに撒き散らしている。
「――我剣となりて、その敵を捉えよ!」
私の耳にロゼッタさんの詠唱が聞こえた。それに合わせて首筋にチリチリとした焼けるような感触が走る。
「何かの影へ!そして頭を隠して身を伏せてください!」
私は壁の向こうのメラニーさんとローナさんに叫んだ。
「ゴーーーーーーー!」
巨大な地鳴りのような響きが辺りを包む。私の目の前から扉が、壁が上空へと舞い上がっていくのが見えた。それは天井も、その上にあった何もかも全てを巻き上げ、それを炎へと、そして黒いチリへと変えて行く。やがてそれは建物の中央にあった尖塔も何もかも巻き込んで、天空に大きな炎の柱を描いた。
「きれい」
私の口から感嘆の呟きが漏れた。
『ええ、なんて綺麗なの』
私と重なっている赤いリボンの少女の声が心に響く。彼女と私の視線の先には、天に向かって渦を巻く炎と、その先にある二つの月、黄色い月と赤い月が見えた。
『ありがとうフレデリカ、私はあなたのことを決して忘れない。たとえ私の魂がどこに行こうとも……』
赤いリボンの少女が空を見上げながら呟いた。そして彼女のぼんやりとした姿が私から離れて、ゆっくりと空へと登っていく。彼女だけではなかった、大勢の淡い姿の少女達が天空へと登っていくのが見える。私の頭上で、少女が私の方を振り返った。
「ありがとう。もう一人のフレデリカ……あなたを待っていました。私の親友に……」
「ズドン!ドカン!ゴーーーー!」
再び私の耳に轟音が戻ってきた。舞いあがる風に私の体が背後へと吹き飛ばされる。
「フレア!」
ロゼッタさんの私を呼ぶ声が聞こえる。だが私がロゼッタさんに何かを答える前に、自分の周りが暗闇に包まれていくのを感じた。