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信頼

 その白い繭は焦らすかのようにゆっくりとオリヴィアに向かって来た。だがそのおかげでオリヴィアは自分の不自由な手足でも、何とか笛に手が届く位置まで移動することが出来た。


 オリヴィアは最後の力を振り絞って笛に手を伸ばすと、それを口元へとやった。目の前では繭の中に浮かんだ数えきれない目が、こちらを見つめながら、まるでオリヴィアの努力を嘲笑うかのように小さく震えている。


 オリヴィアが笛を吹く為に息を吸うと同時に、繭はオリヴィアに向かって、大きくその体を広げると、崩れ落ちるかの様に迫って来た。オリヴィアは肺に力を込めると、その小さな赤い目の一つ一つを睨み返した。


 これで自分の生は終わるかもしれない。だが自分は自分の力で何かを、そして諦めることなく、生き残るための努力は出来たのだ。


「ピィーーーー!」


 オリヴィアの誇りを歌い上げるかのように、笛の音が高らかに響き渡った。いつまで吹き続けられるかは分からないが、これが響いている限り、私はまだ生きているということだ。オリヴィアは恐怖に目を瞑ることなく、自分に向かって覆い被さろうとしているその白い塊と、幾多の目を見つめながらそう考えた。


 その時だった。笛の音に合わせるかの様に、自分の視界が急にぼやけ出した。自分の心は恐怖に打ち勝てても、病明けの自分の体は恐怖に耐えられなかったのだろうか? だがそれはぼやけるというより、まるで水の底から上を見上げているような感じだった。


 空にある二つの月も、こちらを見つめる赤い目も、その視界の全てがゆらめいているように見える。得体の知れない白い繭は、そのゆらめきの向こう側で、それに行手を阻まれるかのように動きを止めていた。邪魔が入ったのが口惜しいのか、幾多もの赤い目に浮かぶ黒い点の様な瞳が、キョロキョロと忙しなく動いている。


『なんなの?』


 オリヴィアは再び息を大きく吸い込むと、それを笛へと送り込みながら、その不思議な景色を呆気に取られて見ていた。何かが私の周りを取り囲んで守ってくれている。


「お前の心臓はまだ動いている様だな」


 背後から声がかかった。そこには黒い服に身を包んだ細身の男性が、黒い金属の杖に月の明かりを映しながら立っていた。


「ト、トカスさん……」


 オリヴィアの口から笛が落ちた。そして目尻からは涙が溢れ落ちそうになる。


「こ、これは?」


「穢れなき水霊の守り手だ。並の奴ならこれの障壁を突破など出来ない。だがこいつ相手ではあまり役には立たない様だな」


 トカスはそう言うと、杖を前へと差し出した。杖の先では、繭が再び体の一部を煙のようなものに変えており、透明なゆらめきはそれに侵入されて、白く濁り始めていた。


「すぐに抜けてくる」


「あ、あれは、一体何者なんですか!?」


「渇望の亡者と呼ばれる存在だ。普通は存在してはいけないものだ。制御不能、故に送り返すのも不能。これを意図的に呼び出すような馬鹿はいない」


「どうすれば?」


「逃げるさ」


「逃げても追ってくるのでは?」


 オリヴィアの視界の隅ではゆらめきがほとんど真っ白になっているのが見えた。それだけではない。そのゆらめきを越えて、煙の様な何かがこちら側へと滲み出している。その一部は落ち葉を巻き上げながら、既に地面の上で渦を巻き始めていた。


「そうだな。だがこいつを倒してくれそうな奴らがいる様だから、倒すのはそいつらに任せることにする。俺の仕事はこいつを倒すことではない。お前の命を守ることだ」


 そう言うと、トカスはオリヴィアの体を無造作に抱き上げた。オリヴィアの鼻腔に、トカスの着る皮の上着の匂いと、それに染み込んだ、男性らしい乾いた大地の様な香りが漂ってくる。オリヴィアはその香りを嗅ぎながら、トカスの見かけとは違う、とても厚い胸板に自分の体が触れて、耳の後ろが熱くなるのを感じた。


 視界の先では、あの繭の半分位以上がゆらめきのこちら側に抜け出てきている。それを見ても、オリヴィアの心はもはや何の恐怖も感じることはなかった。トカスの表情を見れば、未だに安心できる状況でないことは理解できたが、それでも恐怖より安らぎを感じている。


「杖を使う事になるかもしれない。しっかり掴まっていろ」


「はい」


 トカスの言葉に、オリヴィアはトカスの首元に回した両腕に力を込めた。トカスはオリヴィアが自分にしっかりと抱きついているのを確認すると、白い繭、渇望の亡者に背を向けて、木立の中を走り始めた。


「トカスさんは……」


「黙っていろ。舌を噛むぞ」


 オリヴィアはトカスの答えに口を閉じた。だがトカスは黙り込んだオリヴィアを一瞥すると口を開いた。


「そうだ。俺は魔法職だ」


 トカスの言葉にオリヴィアは小さく頷いて見せた。どうやらオリヴィアが全てを告げなくても、トカスはオリヴィアが何を聞きたいのかを理解できたらしい。トカスはオリヴィアを抱えたまま、落ち葉が積もった斜面を素早く駆け登ると、行く手を塞ぐ低い藪を一気に飛び越えた。


「キャ!」


 藪の先で小さな悲鳴が聞こえた。その声にオリヴィアが顔を上げると、そこには窪地に逃げた他の女子生徒達が、固まって泣きべそをかいている姿があった。


「お、オリヴィアさん!」


 女子生徒の一人がこちらに向かって声を掛けてきた。


「知り合いか?」


 トカスがオリヴィアに尋ねた。


「はい。一緒に旧宿舎に向かった皆さんです」


「た、助けてください!」


 女子生徒達がトカスに向かって一斉に声をあげた。


「助かりたかったら、頑張って宿舎まで自分の足を動かせ。それが出来ないならここで死ね」


 トカスは女子生徒達を一瞥してそう告げると、前に進もうとした。


「待ってください!」


 オリヴィアはそう叫ぶと、トカスの首筋に回した腕に力を込めた。


「やつはまだこちらを追いかけている。他にもいる。先を急ぐぞ」


「みなさんも一緒に助けてもらえませんでしょうか?」


「お前を見捨てた奴らだぞ、何の義理がある」


「私にも友達ができました。その人なら絶対に助けると言うと思うのです」


 オリヴィアの言葉に、トカスが呆れたような顔をしてオリヴィアを見た。


「貴族の令嬢と言うのは始末に負えないな。お願いも全て人のせいにするのか?」


「すいません。これは私からのトカスさんへのお願いです」


 トカスはオリヴィアの問い掛けに応えることなく、背後へと視線を向けた。


「どのみちお前を見捨てない限りは追い付かれる。だがお前を見捨てると、後で色々と面倒なことになる。そもそもこの仕事自体が俺には面倒過ぎだ」


 そう呟くと、怯える少女達の方を振り返った。

 

「お前達、俺の後ろにこい。そして叫んだり、動いたりして俺の邪魔をするな。それにここで見たことや、俺と会ったことは絶対に誰にも喋るんじゃない。約束を破ったら命をもらう。いいな」


 少女達はトカスの言葉に頷くと、子供に繰られた操り人形の様な動きでトカスの背後に移動した。オリヴィアの目に、自分達が越えて来た藪の向こうから、赤い光が漏れているのが見えた。間違いなくあれはこちらを追って来ている。それだけではない、辺りの藪のあちらこちらに赤い光が見えた。


 トカスはオリヴィアの体をそっと地面に下ろすと、杖を手にした。そして目にも止まらぬ速さで杖を動かすと、地面の上にとても複雑な模様を描いていく。


「東に座す雲海の奏者よ。その右手にありし笛は全ての迷いを吹き払い、全ての者を静寂の地へと導かん……」


 オリヴィアは呪文を唱え始めたトカスの背中を見上げた。月明かりを浴びて立つその姿からは神々しささえも感じられる。それはオリヴィアにとって、この世の誰よりも信頼できる人の姿だった。

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