お化け
「キャーーー!」
私の口から悲鳴が上がった。私は二人に非常口の方を指差すと、二人の体をほとんど突き飛ばす様にして、食堂の中に飛び込んだ。
「えぇ!!」
しかし、私の体はそこで凍りついた。飛び込んだ食堂の白い壁では、幾つもの黒い影が踊り狂っている。お……お化けです!それも部屋に一杯です!
「ギャーーーー!!」
私の口から再び悲鳴が漏れた。私は踵を返すと、私に続いて食堂に入ろうとしていたメラニーさんとローナさんの体を再び突き飛ばして、廊下へと駆け戻ろうとした。
「フレデリカさん!」
私の腕をローナさんが引っ張った。下半身だけが前へ進もうとして、後ろに倒れそうになる。
「お、お化けです!」
お化けに比べたら、廊下の不審人物の方が100倍マシです!そちらは張り倒せます!
「落ち着いてください。単なる影ですよ!」
「えぇぇ!?」
ローナさんの言葉に慌てて背後を振り返った。見ると食堂の大きな窓の先で、外の洗濯干し場に置かれている布が、強い風に揺れている。そしてその布が食堂の壁や床に舞い踊る影を描いていた。確かにこれは単なる影でした。で、でもこれだけじゃないです!
「廊下の先に不審人物が!」
「あれですか?」
「はい!」
皆さん、乙女の危機ですよ!
「あれは、トルソーに男性ものの服をかけただけですよ」
「えぇぇぇ!!」
私はドアの隙間から廊下の先を覗いた。言われて見ると人影のように見えたのは、確かに裁縫用のトルソーに、男性ものの服を着せただけの様に見える。なんだかな!
「ハハハハハ!」「フフフフフ……」
私の背後で二人の大笑いする声が聞こえた。私は相当にバツが悪い気分になりながら、食堂の中へと顔をひっこめた。
「ヒヒヒヒ」「フフフフフ」
メラニーさんも、ローナさんも、私を指さしながら腹を抱えて笑っている。あの、淑女と言うのは大笑いしてはいけないと言われませんでしたか? そちらの御宅には、コリンズ夫人の様な厳しい方は居なかったのでしょうか?
「ごめんなさい」
私の視線に気がついたのか、ローナさんが目尻に手を当てながら笑うのを必死に堪えている。
「フレデリカさんが、あまりに驚くものだから……ククク……」
そう言うと、今度は手を口に当てて含み笑いを漏らした。
「ハハハハ、ヒヒヒ……」
メラニーさんは悪びれることなく、私を指差しながら大笑いを続けている。
「でも、これだけ驚けば、先輩たちも大喜びだと思いますよ」
ローナさんがそう言うと、慰めるように私の肩をポンと叩いた。なんだかな!自分のことながら、思わず口からため息が漏れる。
「メラニーさん、いつまでも笑っている場合ではないですよ。赤い何かを探さないといけません」
「そうですね、そうでした」
メラニーさんはローナさんの問い掛けに答えると、二人で食堂の奥へと進んでいく。食堂は東側に大きな窓があり、そこから月明かりが入って来るので、ランタンの明かりがなくても困らないぐらいだった。もちろんさっきのゆらゆらと揺れる外の白い布の影も相変わらずだ。
なんでさっきはこれにそんなにも驚いたのだろう。二人は食堂の方には何も見つからなかったのか、その先にある炊事場の方へと入っていく。そちらには大きな窓はないらしく、暗い影になっていた。私は二人を追いかけて、配膳台の横から炊事場の方へと入って行った。
配膳台の向こう側にはかなり広い厨房があった。かつては毎日火がくべられたであろう大きな竈門がいくつもあり、その上には外の煙突に繋がっているダクトと煙道がある。それはランタンの明かりに、未だに暗黄色の光を放っていて、そこからはここに生徒達が暮らしていた頃の息吹が感じられた。
「あれですね」
壁で囲まれた空間に、ローナさんの声が大きく響いた。ローナさんが指差した先、炊事場の真ん中に、かつては板場として使われていたであろう大きな台が置かれてあり、その先の壁際、勝手口の横に厨房道具が置かれていたらしい棚がある。その棚の上に赤い林檎が一つ置いてあった。
「なるほど、出口に近いところに置かれていたと言うことは、寄り道はダメという、先輩達から私達への教訓というところでしょうか?」
ローナさんはそう言うと、クスリと笑った。確かにあちらこちらと探しに行ったら、最後の最後に見つかることになってしまう。
「では、さっさと取って外へ出ることにしましょう」
メラニーさんはそう告げると、真ん中の台を回って、棚の方へ向かおうとした。彼女が勝手口の前を通った時だった。勝手口の覗き窓を何かが横切ったような気がした。
『また布?』
先輩達が出口のところに最後の悪戯を仕掛けるというのはあり得る話だ。だが、その影は一度消えると、再び明かり窓のところに現れた。
『人影?』
いや、そんな感じではない。何か丸い球の様な物が、出口のところを行ったり来たりしている感じだった。それにその動きは風か何かでゆらめくような感じではない。何かの意思を感じさせる動きだった。
やがて正体不明の何かは動きを止めると、明かり窓のところに張り付いた。少し曇ったガラスにその影がハッキリと映る。同時に首筋に何かちくちくする様な、ザワザワする様な、とても言葉に出来ない感触が走った。あえて言葉にするならば、毛虫が首筋にいっぱい落ちてきて、のたうち回っているとでもいうような感じだ。
この感触は前にも感じたことがある。カミラお母様の背後に取り付いていた影を見た時にも同じ感じがした。だけどこれは遥かに酷い。いたずらなんかじゃない。間違いなくやばいやつだ。
「メラニーさん!」
私の叫びに、メラニーさんが体をびくりとさせてこちらを見た。
「フレデリカさん、意趣返しにこちらを驚かすのはやめてもらえませんか?」
「すぐにこっちへ、こっちへ逃げて下さい!」
「何を言って……」
だめだ。埒が明かない。私は台の上に飛び乗ると、そのまま体を滑らして彼女のところに飛び降りた。そしてそのままの勢いで彼女に抱きつくと、勝手口の脇へと体を押し倒す。
「パリン!」
私たちの背後で何かが割れる音がした。勝手口の明かり窓が割れて、破片が床に飛び散っている。
「何、何なの!?」
私の耳元でメラニーさんが狼狽した声を上げた。だがそれで終わりではなかった。窓が割れたところから濃い霧の様な、いや煙の様なものがゆっくりと厨房の中へと入って来る。
最初はまるで蛇が鎌首をもたげるかの様に、開いた穴から中を覗き込むような形を保っていたが、何かに押し出されるかのように床へと落ちた。そして上から落ちてくる白い煙の様なものを次々と取り込みながら、グルグルと渦を巻くと、巨大な繭のような形を作っていく。
「これってどんな仕掛けになっているの?」
台の向こうでランタンを手にしたローナさんが声を上げた。その声は先ほどまでの落ち着いた声とは違って震えている。
「違います!これは仕掛けなんかではないです!」
私はローナさんに向かって声を上げた。
「すぐにここから逃げないとだめです」
私は立ち上がると、メラニーさんの手を引いた。だが彼女の体はまるで氷でできているかのように固まって動かない。その顔はじっと勝手口の前の繭の様なものを凝視している。
「立って!逃げるのよ!」
私は彼女の頬を張り倒した。メラニーさんがハッとした顔で私を見る。
「こ、これは、先輩達の……」
何を言っているの!?
「これは本物です!」
本物のやばい奴です!