足掻き
『お薬の時間かな?』
オリヴィアははっきりしない視界の中でぼんやりと考えた。目の前には黄色い丸い光が見える。きっと夜の薬の時間で、誰かが油灯を手に私を起こしに来たのだろう。
だがこの苦く、胸が苦しく感じられるだけの液体に、本当に効果はあるのだろうか? だけど飲まないと、お母様がきっと誰かを責めるに違いない。たとえそれが私の意志だったとしてもだ。
オリヴィアがそんなことを考えているうちに、視界がだんだんとはっきりしてきて、耳には風の音と、それに伴ってカサカサと何かが乾いた音を立てるのが聞こえてきた。目の前にある黄色い明かり、それは枝の間からこちらを照らす、大きな黄色い月の明かりで、耳に届く乾いた音は、強風に辺りを舞う落ち葉の音だった。
辺りに視線を動かすと、そこは窪地の底で、オリヴィアの体は落ち葉溜まりの上で仰向けにその身を横たえていた。長年積もった落ち葉のおかげだろうか、予想に反して体からは何の痛みも感じられない。慎重に指を、そして足首を動かしてみると、それは弱々しくもオリヴィアの意図した通りに動いてくれた。
「誰か、誰かいませんか!」
オリヴィアはお腹に力を込めて、可能な限りの声を張り上げてみた。そして誰か答えてくれる人がいないか、そっと耳を澄ましてみる。だがその耳に届くのは風に揺れる木のざわめきだけだった。
「誰かいませんか!」
オリヴィアはさらに力を込めて、再度声を張り上げた。やはり誰も答えるものはいない。体を回転させ、腕をついて頭を上げてみる。周囲は低い藪で囲まれていて、その周りはさらに高い木立で囲まれていた。そしてその藪に引っかかるように、自分が乗っていた車椅子が転がっている。その車輪は大きく歪んでいて、それが受けた衝撃の大きさを物語っていた。
どうやら自分の体は藪の上を飛び越して、その奥にポッカリと空いた、この落ち葉だまりに偶然落ちたらしい。正に僥倖だった。
「誰か……」
再度声を上げようとして、オリヴィアはそこで言葉を飲み込んだ。この風のざわめきでは自分の声は道のほうまで届かないだろう。それにここは上からも見えない。どうやったら見つけてもらえるだろうか? そこまで考えた時だった。オリヴィアの頭の中に、一ついい手が思い浮かんだ。
『笛なら届くかも』
イエルチェに用事をお願いするときに使う笛がある。それなら道の方からも聞こえるかもしれない。それに大声を張り上げて体力を消耗することもない。オリヴィアはいつも首からぶら下げている笛を手に取ろうとした。だが胸元に手をやってもそこには何もない。慌てて首筋に手をやるが、それを繋いでいるはずの銀の鎖もそこにはなかった。
「落としたのかしら?」
オリヴィアの口から独り言が漏れた。ここに飛ばされた時の衝撃で、鎖が取れて何処かに行ってしまったのだろうか? オリヴィアは自分を見つけてくれそうな手段が失われたことに、目の前が暗くなる思いだった。だが、泣いても誰かが助けに来てくれる訳ではない。
ともかくここから出ないと、道から見える位置に移動しないと、一晩、いやもしかしたら、もっと長くここにいることになるかもしれない。他の人は耐えられても、病み上がりの自分の体はそれに耐えられるかどうか分からない。
オリヴィアはどこかに藪の切れ目がないか、抜けられそうなところはないか、周りをもう一度見回した。有り難いことに月明かりのおかげで、明かりがなくても周りの様子ぐらいなら十分に見える。
『何だろう?』
その視界の中で何かが光ったように見えた。目を細めてみると、月明かりを受けて、確かに何かが銀色に光っているのが見える。それは首にかけてあったはずの笛だった。
『よかった』
オリヴィアは安堵のため息を漏らすと、その笛のところに向かって這っていこうとした。両足は自分の体重をまだ十分に支えられないが、這うために前後に動かせるぐらいには回復している。
全身の力を振り絞って、肘を、膝を前に出す。しかし落ち葉は深く積もっており、それが滑って、体は中々前へと進まない。それでもオリヴィアは肘と足を必死に動かして、まるでハイハイを始めたばかりの赤子の様に、少しづつ、少しづつ笛の方へと体を動かしていった。
「はあ、はあ……」
しばらくして、オリヴィアは上がった息を一度整えようと動きを止めた。さっきまではとても寒く感じられたのに、今では額からは汗が流れ落ちている。その汗の雫は顎まで達すると、下にある落ち葉に小さな染みを作った。
オリヴィアは頭を上げると、笛までの残りの行程を見た。残りは自分の背丈の二つ分ちょっとぐらいだろうか? そして少し先には木の根らしきものも見える。それを掴むことができれば、もう少し楽に進めるだろう。
『あれ?』
その黒く浮き出た根の色が途中から白く変わっている。月の明かりのせい? いや違う、何だろう。その根の先にも白い何かが見える。
オリヴィアは道で見た、白く揺れていた何かを思い出した。あの時は突然の事で、訳が分からなくなってしまったが、今ではあれが先輩たちの悪戯だと言うことぐらいは分かっている。もしかしたら、悪戯に使った布が強風でこちらまで飛んで来たのだろうか?
「霧?」
オリヴィアの口から言葉が漏れた。それは布のようなものではなく、白い靄の様に見える。それが藪の間から漏れ出ていた。だがそれは濃霧が立ち込めるような、湧き出る感じではなく、まるで意志を持っているかの様に、形状を色々と変えながら、ゆっくりとこちらに近づいて来る。
特に匂いはしないが、何処かから漂って来た煙のようなものだろうか? オリヴィアはそんな事を考えながら、再度手足を動かした。その動きに合わせて、落ち葉がカサカサと、肘や膝の下で耳障りな音を立てる。その音に白い煙のようなものが、まるで生き物の様にピクリと反応した。それは急速に集まると、ぐるぐると渦を巻き始める。
「な、何!?」
オリヴィアが驚きの声を上げた間にも、それはより激しく渦を巻きながら、蚕の繭の様な形へと変わっていく。そして白い塊の中で何かが赤く光った。
「目?」
白い塊の中に小さく光る赤い何か。オリヴィアにはそれが血の様に赤く染まった目に見えた。よく見ると、その赤い光の中に小さな黒い点、瞳らしきものも見える。それはゆっくりと赤い光の表面を動いて行くと、やがてピタリと止まった。
オリヴィアにはそれが真っ直ぐに自分の方を見据えている様に思えた。その目は自分を嘲笑しているようにも思える。次の瞬間だった。繭のような白い塊の中に数え切れないほどの赤い目が現れると、それが一斉にオリヴィアの方へ向けられた。
『ヒーーー!』
オリヴィアは心の中で悲鳴を上げた。自分は実はまだ気絶していて、悪夢でも見ているのだろうか? だが体に感じる落ち葉の感触や、それが肌を刺激するちくちくとした感じは、これが決して夢ではないと語っている。オリヴィアは自分の体が崩れ落ちて、意識が遠のこうとしているのを感じた。
『助かりたかったら、助かるために頭を使え。そして最後まで自分の手を、足を動かせ』
薄れそうになる意識の中で、男性の冷徹な声が響いた。
『それが出来ないものが、生き残れなどはしない』
そうだ、それがあの人との約束だ。オリヴィアの頭の中にそう告げた時のトカスの姿が浮かんだ。その記憶がオリヴィアの意識を引き戻し、恐怖の呪縛を解いた。オリヴィアは頭を上げると、半身ほど先にある笛に向かって、腕と足を動かした。
前からは数多の赤い目を持つ、得体が知れない者がこちらへとゆっくりと近づいて来る。たとえ笛を手に出来て、それを吹けたとしても、何も変わらないかも知れない。
だけど、私の心臓はまだ動いている!
* * *
「では黄色組の皆様、ランタンと地図です」
アメリアが黄色組の三人にそう告げた時だった。イサベルの頭の中に、血の様な赤い唇と、それがニヤリと笑う姿が浮かんだ。
「キャ!」
イサベルの口から思わず悲鳴が上がる。そして体の中心から、自分では止めることが出来ない瘧の様な震えが伝わって来た。赤い唇を持つ何かの姿がはっきりと目に浮かぶ。女性だ。口の周りの真っ白な肌と、血の様な唇しか見えないが、その黒い人影は間違いなく女性の姿だった。それが自分の口元に向かって手を伸ばそうとしている。
「私語は慎んで……」
耳にアメリアの言葉が聞こえたが、イサベルにはそれを聞いている余裕などなかった。
「いや、やめて!」
イサベルの口から再び悲鳴が上がり、イサベルと同じ黄色組の二人も、目の前に立つアメリアも、その姿を呆気に取られて見ている。それだけではない。暗がりに座っている上級生の間からも、ざわめきの声が漏れていた。
「急にどうしたのですか?」
アメリアが床に座り込みそうになっているイサベルに、手を差し出しながら問いかけた。だがイサベルはその問い掛けに答えることすら出来ない。
「ソフィア様!」
床に完全に座り込んだイサベルを抱き抱えたアメリアが、背後の暗がりに向かって叫んだ。
「アメリアさん、これは只事ではありませんね」
アメリアの叫びに一人の女性が答えると、暗がりの中から、イサベル達の前へと進み出てきた。出口から差し込む月の明かりに、銀色の髪が神秘的な輝きを放っている。
「イサベルさん、大丈夫ですか?」
ソフィアはイサベルの横にそっと跪くと、震えるイサベルの背中に手を置いた。その手はとても温かく、不思議なことにイサベルの体から震えが消えた。
「ソフィア様、これは……」
アメリアが何かに驚いたように声を漏らした。
「貴方も気がつきました?」
ソフィアは顔を上げると、イサベルの前にしゃがみ込んでいたアメリアに声をかけた。
「はい」
アメリアが緊張した面持ちでソフィアに頷いて見せる。
「でもどうやって……」
「それを考えるのは後でいいでしょう。歓迎会は即刻中止とします。先に行っている二組と、途中で待っている者達を直ちにここへ呼び戻さねばなりません」
ソフィアはアメリアにそう告げると、立ちあがって周りを見た。それに合わせてアメリアも立ち上がる。
「では、職員と警備の方へすぐに連絡します」
「それでは間に合いません。これは私達の責任です。私と貴方で行くことにしましょう」
「ソフィア様、私達もお手伝いします」
背後の暗がりから上級生らが進み出ると、ソフィアの周りを囲んだ。
「申し出は嬉しいですが、足手纏いです。皆さんには宿舎の職員と、警備への連絡をお願いします」
その青みを帯びた灰色、月の明かりの下では銀色に見える目を少女達に向けると、ソフィアはキッパリと告げた。
「警備担当のアルベールだ」
ソフィアが外に出ようと振り返った時だった。談話室の前庭の方から声が上がると、そこから金色の髪を持つ、背の高い男性が部屋へと飛び込んできた。
「男子禁制なのは承知だが、緊急時故、失礼する!」
そう言うと、薄暗い談話室の中を見渡した。『アルベールさん? 』その声にイサベルが顔を上げると、そこには少し荒い息をしたアルベールが、杖を片手に立っている。
「この宿舎の者は全員揃っているか?」
「いえ、新入生の歓迎会で、上級生が4名に新入生7名が二組に分かれて外に出ています」
「どこにいる?」
アルベールの顔に緊張の色が走った。
「新入生は旧女子生徒用の宿舎です。上級生は宿舎への坂の途中にいます」
「アルベール卿、先に行きます」
アルベールの背後で女性の声が上がった。イサベルが声がした方を見ると、入学式の日に見た美しい女性が杖を片手に立っている。だがそう告げるや否や、左手の方へ向かって駆け去って行こうとした。
「一人では危険だ」
アルベールが慌てて声を掛けたが、女性は制止の声に耳を貸すことなく、あっという間に走り去っていった。
「アルベールさん!」
イサベルはアルベールに向かって声をかけた。
「イサベル。君はまだここに残っていたのだね。絶対にここから動かないように。警備の者には連絡済みだから、すぐにここに駆けつける」
アルベールはそう告げると、手を差し出してイサベルを立ち上がらせた。そして部屋の中を見渡す。アメリアが最大にした油灯の光に、その部屋に集うもの達がゆらゆらと照らし出されている。
「職員を含めて、全員をこの部屋に集めなさい。例外は無しだ。そして窓を閉めて部屋の中央で待機すること。何があってもここから出たり、単独で逃げ出したりはしないことだ」
部屋の者達にそう告げると、アルベールはイサベルの方を振り向いた。そして、
「いいね」
と一言、小さく添えた。
「はい」
その言葉と表情に、イサベルの心臓は高鳴り、先程の恐怖の震えとは違う、別の種類の震えに声が裏返りそうになった。
「では、私は自分の職務を果たしてくる」
アルベールはそうイサベルに語ると、談話室から外へと飛び出して行った。イサベルは両手を前に組むと、辺りを青白く照らす、蒼き月の女神に祈りを捧げた。
『どうかあの方が、アルベール様がご無事でありますように』