渇望
「なにこれ、本当につまんない」
旧宿舎の屋根の上で、尖塔の先端に身を預けていた少女がそう呟いた。
「白い布を振るだけ? もうちょっと創意工夫と言うものがあってもいいんじゃないの? それに、もうちょっとで本体に傷がつくところだったじゃない。嫁入り前の体だから、傷をつけたりすると、とっても怖い叔父さんに怒られるのだけど」
そう言うと、そばかすが少しばかり目立つ顔をしかめて見せた。そして高い位置へと上がって来た赤い月を愛おしそうに眺める。その月の光に、彼女の茶色い髪は、まるで炎を溶かし込んだかのように赤く染まって見えた。
「愛しい故郷の月も登っていることだし、私が少し盛り上げてあげましょうかしら? それに、あのぼうやがちゃんと仕事をするかも見ないといけないしね」
そう告げた少女がニヤリと笑って見せる。だが次の瞬間、同じ少女の顔が恐怖と絶望に歪んだ。
「もう、もうやめて!」
だが背後から伸ばされた白い手に口を押えられて、それ以上は声を上げる事が出来ない。
「やめる、何を言っているの? これからでしょう」
「いや、もういや。私から離れて、私を自由にして!」
イエルチェのくぐもった声が辺りに響いた。だがイエルチェの口を背後から塞ぐ存在は、その手を緩めようとはしない。もう一つの手はイエルチェの首筋を、そして胸の間からゆっくりと下腹部の方へと、撫でるように愛でるように降りていく。
「自由? 貴方は一体いつ自由だったの? 貴方はずっと誰かに従ってきた。親に、主人に。今こそが貴方がもとめていた自由じゃないの? 私は貴方の心の奥底にあった、貴族の娘達への嫌悪と嫉妬を一緒に晴らしてあげようとしているのよ」
「違う、そんな事はない!」
「そうかしら? 本当にそうかしら? 貴方はいつも思っていた。どうして生まれたところが違うだけでこんなにも世界が違うんだろうって。そしてそれを心の底から憎んでいる。そうでしょう。そして体も満足に動けないのに、みんなから世話をされるオリヴィアの事を心から疎ましく思っていた。それを分かっていたからこそ、見かけの従順さと親切さを完璧に演じれたのでしょう」
「私は……私は……」
イエルチェの目から光が消えた。それはただ、じっと天空に上る月を見あげている。
「あの男の人を見る目は確かね。魔力とは人の魂の闇そのものなのだから。この子の心は鬱積した嫉妬心に満ち溢れている。さあ、私のかわいい楽器よ。私の腕の中でどんな旋律を奏でてくれるのか、教えてくれないかしら?」
イエルチェの背後に立つ、黒いドレス姿の美女はそう告げると、小さく微笑んで見せた。イエルチェの体は一瞬崩れ落ちたかのように見えたが、見えない糸に従う操り人形のような不自然な動きで起き上がると、再び赤い月を見あげた。
だがその瞳には瞳孔はなく、ただ黒い闇と共に赤い月が浮かんでいる。そしてイエルチェの口から朗々とした呪文の声が響き渡った。
「天の闇に潜みし千の眼よ!我はその昏き羨望の瞳を捉えし者。我の魂は汝の闇と共にあり。わが魂の導きに従いこの地に現れよ!」
イエルチェが何かを追い求めるかのように、赤い月に向かって両手を差し出した。
「来たれ、渇望の亡者よ!」
天空から落ちて来た白い靄のようなものが、イエルチェの体の周りを覆いつくす。それはまるで繭の様な形になって、その周りをグルグルと回っていたが、まるで何かに弾かれるかの様に辺へと散っていった。
「ハハハハ!」
塔の上で、イエルチェの姿をした何かが上げる笑い声が辺りに響き渡る。だがその笑い声は誰の耳に届く事もなく、風に揺れる木々のざわめきによってかき消された。
* * *
「子供たちは歓迎会とかがあるそうですし、せっかくの機会です。一緒に食事でもいかがでしょうか?」
講習会が終わって席を立とうとしたロゼッタに対して、トカスが声を掛けた。その顔には街の若者の様な笑顔を浮かべてある。ロゼッタはトカスの方を一目見ると、小さくため息をついて見せた。
「せっかくのお誘いですが、本日は講習で疲れました。またの機会にさせて頂けませんでしょうか?」
「またの機会ですか? もし本当にお約束していただけるのであれば、本日はあきらめますが、もし空手形ならもう少し頑張ってみたく思います。それに遅い時間ですので、どのみち付添人宿舎の食堂で食事をとるしかありません。結局はご一緒することになると思うのですが?」
トカスはロゼッタに向かってわざとらしく、しつこく誘ってみた。講習会がはじまる前に割り込んできた騎士気取りの男が軽蔑した、内心ではうらやましいと思っているであろう姿が視界の隅に見えたが、トカスはそれを完全に無視した。
「本日渡された資料の確認もありますので、食事は部屋に持っていって、そこで頂くつもりです」
「食事は誰かと楽しく食べてこそ、血となり肉になると思うのですがね」
騎士気取りの男がこちらに近づいてこようとしているのが見える。先ほどは少し失敗したが、今度は邪魔は入らないだろう。トカスがそう思った時だった。
「お話し中申し訳ないが、私にそちらのご婦人と少しお話をさせていただく時間を頂けないだろうか?」
『おや、もう一人騎士気取りの男がいたのか?』
トカスがそう思って背後をふり返ると、そこには金髪の青い目をした、少し年嵩の男性が立っている。見栄えのいい男だ。トカスはそう思った。だがトカスの本能は、この男が決して見栄えだけの男ではないと告げている。
「私の方が先に食事をご一緒できないか、交渉させて頂いているのですが?」
トカスは相手の出方を確かめてみるべく、軽薄そうな態度にいらついた表情を浮かべて男を見た。だが男の顔にはこちらを見下した様な態度は全くない。
「それほど手間は取りません。彼女とは以前からの知り合いなのです」
「それは失礼しました。私の方こそがお邪魔の様ですね。どうぞごゆっくり」
トカスはそう言うと、男に対して横にどけて見せた。そして小さな書類鞄に自分が受け取った書類を詰め始める。トカスは何気ない仕草を装いながら、二人の一挙一動に神経を張り巡らせた。
「ロゼッタ、君の言う通りだ。この間の君の言葉で目が覚めた。私は色々なものを避けて後回しにしてきた。時間を取って、」
「アルベールさん」
言葉を続けようとした男性をロゼッタが遮った。
「過去は過去にすぎません。それをどれだけ振り返ろうが、何も変わる事はありません。そこにあるのは不変の事実だけです」
『おやおや、知り合いと言うのは昔の男女の仲という事かい?』
トカスは心の中で鼻白んだ。もっと面白い話が聞けるかと思ったのに残念だ。だがいい男と言うのは、一見するとこんな修羅場のような場面でも絵になるものらしい。周りに居る女性陣が二人の会話に必死に耳を傾けているのが分かる。
「あれは君だけがやったことではない。私達も同じだ。同じものを背負っているのだ」
「アルベール卿、違います。あれは全て私がやった事なのですよ。それが純然たる事実なのです」
『あれとは何だ?』
トカスは二人の言葉に耳をそばだてた。だがロゼッタはそう告げると、それ以上何も語ることなく、彼女がアルベールと呼んだ男性に背を向けた。
どうやら二人の間にあるのは男女の関係とは少し違う、別の物らしい。間違いなく、この二人の過去には何やら秘密がある。トカスがそんな事を考えた時だった。トカスの首筋にちくちくするような、ぞくぞくするような、言葉では表現することが出来ない感覚が走った。反射的に袖に仕込んである伸縮式の棒に手が伸びる。
「ロゼッタ!」
「アルベール卿!」
出口の方を向いていたロゼッタが、男性の方を振り向いた。その顔には明らかな緊張の色がある。そしてそれを見る男の顔にも同じ表情が浮かんでいた。どうやらこの二人も気が付いたらしい。
二人はお互いに頷きあうと、出口から外へと駆け去っていった。その背後では、ロゼッタが放り投げた書類入れから飛び出た書類が宙を舞っている。トカスはそれを見ながら周りを眺めた。誰もが舞う紙の束を呆気に取られて見ているだけだ。
『おいおい、護衛役として大丈夫なのか?』
トカスは一瞬だけ呆れた想いに囚われたが、この違和感がどちらから来たものなのか気配を探った。自分と関係のない話なら、あの二人に任せればいいだけの話だ。
『宿舎の方か?』
トカスの口から「ちっ」と舌打ちが漏れた。
『あの娘に何かあったら、俺が始末されるな』
トカスは頭を振ると、先ほどの二人と同様に出口に向かって駆けだした。