偵察
マリアンは男子学生用の大部屋宿舎の建物から漏れてくる食堂の喧騒を耳にしながら、その外側にある非常用の外階段を眺めた。
すでに日は落ちていたが、東の空には黄色く光る月と、一回り小さな赤い月の光で十分に明るい。だが外階段のある建物の裏口は、近くにある大きな欅の陰になり、その明かりは届かない。
マリアンはその影の中から外階段をじっと見つめた。それは防犯のためか、二階の先で柵に覆われている。その柵の内側には金属の折り畳み式の梯子が見えた。
マリアンは建物の煉瓦の壁を足で軽く蹴ると、非常用の外階段の柵へと飛びついた。そして大きく体を振ると、その反動を使って体を柵の上へと持ち上げ、素早くその柵を乗り越える。マリアンの足元で、微かに金属のきしむ音がして止んだ。
非常階段の上へと体を乗せたマリアンは、じっと身を屈めたまま、辺りの様子を伺う。その態勢でしばらくいたが、誰も通用口から外に出てくる気配は無い。マリアンは一歩上る度に微かに響く金属音に気を付けながら階段を数段上ると、非常用の扉から宿舎の中へと足を踏み入れた。
ちょうど夕飯が始まってすぐの時間なので、廊下に人の気配はない。廊下にはところどころに小さな油灯が置かれているが、それでも薄い絨毯が引かれた廊下は薄暗かった。そして廊下には若い男性の体臭のような、かすかな刺激臭も感じられる。その匂いにマリアンは少しだけ顔をしかめた。
マリアンは無人だった宿舎の入り口の守衛小屋に置いてあった、見取図と名簿を頭に浮かべながら目標の部屋を探す。非常口から3つ目の右側、北向きになる部屋。そこが目標の部屋だ。
マリアンは音を立てることなくその扉の前に立つと、中の様子を伺った。そして小さく頭を傾げて見せた。中からは微かに人の気配がする。夕飯の時刻だというのに中に残っている者がいるのだろうか?
彼女は黒い侍従服の胸ポケットから小さな小瓶を出すと、スカートのポケットから小さな布も取りだした。そして鳩尾のあたりに感じる黒い靄のようなものに対して意識を集中し、それを体の隅々へと広げて行く。目に見えない何かが体を覆うのを確認すると、扉の取っ手を回して小さく隙間を開け、部屋の中へと忍び込んだ。
部屋の中は左右の壁に寝台が上下二段に据え付けられており、その奥には小さな机が窓際に二つ、壁際に二つ置かれている。寝台の梯子にはそこの持ち主らしい衣服が無造作にかけてあった。そして部屋の中には廊下よりはるかに濃い、若い男性の体臭の匂いがこもっている。そして窓際の机には小さな油灯の火が灯っており、こちらに背を向けて一人の男子学生が座っていた。
「何か忘れ物でもしたのか?」
少しくせ毛の黒髪の男子生徒が机に向かったままで声を上げた。隠密を使っているのに、こちらの気配に気が付くとは油断のならない相手だ。マリアンは素早く動くと、手にした瓶の口を開けてそこに布を当て、男子生徒の背後からその布をかざした。
背後を振り向こうとした男子生徒の体が、ゆっくりと机の上へと崩れ落ちていく。前世では性格異常者だった女が好んで使っていた薬だ。これを使うのは本意ではないが、フレデリカの為なら仕方がない。
「この男ね」
癖のある黒髪。背は少し高いがそれほど高い訳ではない。マリアンは机の上にある男性の手に指をはわせた。手の平にはりっぱな剣たこがある。そしてとても固い。数えきれないほど重い剣を振ったことがある手だ。フレデリカから聞いた試合相手の肉体的な特徴に一致する。
今夜は偵察だけのつもりだったが、まさか目標が部屋に一人でいるとは意外だった。これは天の采配とでも言うべきものだろうか?
マリアンは足首にある短剣に手を伸ばそうとして止めた。流石にここで血を見るようなやり方をするわけにはいかない。ごく自然な事故に見せる方法はあるだろうか? 薬を大量に使えば心臓を止める事は出来るが、匂いも残る。それに見る者が見ればそれが暗殺であることはすぐにばれてしまう。
体を引き倒して、頭を打ったかのように見せかける? 残念だが頭を打ち付けるようなものは部屋の中には見当たらない。それに流石にフレデリカにはばれる。マリアンは小さくため息をついた。やはり今夜は予定通り偵察だけに留めておくべきだろう。
マリアンはそう決意すると、男の机の上に目をやった。机の上には水色の布があり、既に洗ってある黄色い弁当箱が置いてあった。その手前には書きかけらしい便箋らしき物もある。マリアンはそれに手を伸ばすと、机の上の油灯にかざした。
「拝啓 フレデリカ・カスティオール様」
便箋にはその一文から始まる書きかけの文章が続いていた。内容は試合での詫びと、昼食のお礼について丁寧な言葉で書かれている。少なくともこの男性は剣だけを学んできた訳ではないと分かる文章だ。マリアンはフレデリカ宛ての便箋の下にもう一つ便箋があるのに気が付いた。そちらはフレデリカ宛てのものと違って、ざらつきの残る、より安い紙に書かれていた。
マリアンはその便箋にも手を伸ばした。
「愛するミカエラへ」
便箋の最初にはその宛名が書かれている。そこにはその女性の容態について尋ねると同時に、とても心配している事、自分はヘクターと言う、どうやら彼の友人らしき人物と無事に過ごしているから心配はいらない事、そして新人戦には負けてしまったが、その対戦相手の女性はとても尊敬できる人物であり、もし機会があったらその女性を手紙の差出人に対して紹介したいと書いてあった。
文面を見る限り、ミカエラという手紙の差し出し先は、この男子生徒の妹で、重い病気を患っているらしい。マリアンは手にした便箋を机の上に戻した。この手紙を書いた男性が、試合の時にドレス姿の女性に向かって、木剣を問答無用に振り下ろした人物と同一人物なのだろうか?
『辻褄があっていない』
フレデリカの言う通りだ。マリアンがそう思った時だった。階下から話声と階段を上がる音が聞こえてきた。どうやら早くも夕飯を食べ終わった者が部屋に戻ってこようとしているらしい。長居は無用だ。
マリアンは机の上の水色の包みと弁当箱に手を伸ばしかけて、その手を引っ込めた。これを持って帰ってしまうと、この男の件と同様に色々と辻褄が合わなくなる。マリアンは身を翻すと廊下を抜けて、素早く非常口の外へと向かった。