お弁当
「ハハハハ!」
渡り廊下の手前で、途方に暮れた顔をしていたイアンの背後から、笑い声が上がった。その声にイアンはとても不機嫌そうな顔をすると、背後をふり返った。そこでは彼より頭半分ぐらい背の高い男子生徒が腹を抱えて笑っている。
「ヘルベルト、なにがおかしいんだ?」
「一体どういう風の吹きまわしだい。いつも年不相応に冷静沈着なイアン王子が手玉に取られるとはね」
「手玉? 単なる意見の相違だ」
「意見の相違? イアンらしい言い回しだな。正直な所、おかしいというよりは、びっくりと言う所だよ。あんなに感情を露わにする君を見たことがない」
「そんなことは無い。だがあの子が相手だと調子が狂う事は認める。きっとソフィア姉さんと同じで俺の天敵だな」
「天敵?」
「まあ、あの超美人のソフィア様に、あのかわいらしい子が天敵なら、お前はかなり天敵に恵まれている奴だな」
「かわいい? 本気で言っているのか? あの子をかわいいと思えるのなら、明日の体力検査の時に目の検査を十分に受けるべきだな」
イアンの言葉にヘルベルトは肩をすくめて見せた。
「それよりも問題山済みだ」
「問題? あの子に振られた事か?」
「全く持って違う。ヘルベルト、お前は俺の乳兄弟で、俺の盾になるとお披露目の時に俺に宣言したな」
「ああ、それが俺の役目だからな。それがどうした」
「ならば、ソフィア姉さんが俺を罰すると言ったら、お前は俺の盾としてその身を捧げられるか?」
「ソフィア様か?」
ヘルベルトは急に真面目な顔をすると、イアンに問いかけた。
「そうだ。本気の姉さんだ」
「イアン……そ、それは無理だ。どけと言われたら間違いなくどいてお前を差し出す」
「だろうな。あの人は決して敵に回してはいけない人だからな」
「イアン、一体何なんだ?」
「昨日の新人戦で迷惑をかけたことをきちんと謝れという、ソフィア姉さんのお達しだよ。それが出来なかったら俺を罰するそうだ。それで彼女と会う段取りを付けたのだが、どうやら失敗したらしい」
「イアン!」
ヘルベルトがその顔を蒼白にすると、慌ててイアンの肩を両手で掴んだ。
「どうしたヘルベルト」
「イアン、今からでも遅くはない。女子棟まで一緒に追いかけよう。そしてともかく頭を下げて謝るんだ」
そう言うと、ヘルベルトはイアンに対して渡り廊下の先を指さした。
「おい、追いかけたら今度はこっちが懲罰をくらうぞ」
そう告げたイアンに対してヘルベルトが首を横に振る。
「ソフィア様の怒りに比べたら、学園の懲罰の方が100倍もましだ!」
「入学してそうそう、そうはいかない」
イアンはヘルベルトにそう告げると、小さくため息をついた。
「ちょっと待てイアン!戻るな、さっさと……」
「ヘルベルト、いいから来い。これ以上騒ぎを大きくしたら本当にやばい。それにお昼もまだだ。ソフィア姉さんが届けてくれた弁当がある。それを食べながら何か対策を考えよう」
* * *
「エルヴィン、いきなりご令嬢の訪問を受けるとはすごいじゃないか?」
机の上に置かれた水色の包みをじっと見つめていたエルヴィンはその声に頭を上げた。明るい灰色というよりは、銀色に近い髪の少年がこちらを見下ろしている。
「ヘクターか」
そもそも昨日の失態もあるから、自分に声をかけてくるとすれば彼以外は誰もいるはずがない。エルヴィンは砕けた表情でこちらを見るヘクターを見上げながらそう思った。エルヴィンにとって、同じ道場で剣の修行をしてきたヘクターは、親友と言うより、同志とでもいうべき人間だ。
それにヘクターは剣の事しかよく分からない自分と違って、頭が切れる。学園に入学して将来家を継ぐ者達に近づく、あわよくばそこの女性の婿の口を狙おうと自分を誘ったのもヘクターだった。だがそのために、自分達は将来を危しくするぐらいに相当な無理をしている。道場の主ははっきりとそれに反対したぐらいだった。
「新人戦の事は早く忘れろ。それに優勝するなんかよりこれはすごい事だぞ」
そう言うと、ヘクターはエルヴィンの机の上を指で小さく叩いた。
「何がだ?」
エルヴィンはヘクターの言っていることがよく分からず、思わず問いかけた。
「あの子は侯爵家のご令嬢だぞ。確かカスティオール侯爵家の長女で、あの家には男の子はいない。カスティオールが落ち目とはいえ、侯爵家の令嬢と顔見知りになれたんだ。学園に入った目的の一歩は遂げられたようなものじゃないか」
「違うと思うな。理由はよく分からないが、昨日の事を謝りたいと来ただけだ。どうして謝りたいのかは、僕にはさっぱりだけどね。それに本来ならこちらから謝りに行くべき話だよな」
「何事もきっかけが大事だよ。それに忘れたわけじゃないだろう、俺達の誓いを、そして俺達がどれだけのものを背負ってここにきているかも。それにお前には妹殿の、ミカエラの命運もかかっているんだ」
「ああ、忘れてはいない」
エルヴィンはヘクターの「ミカエラ」という言葉に深く頷いて見せた。
「なら、その弁当とやらをさっさと食べて、お礼の手紙の内容を考えるんだな。間を置くなよ。すぐに返せ」
そう言うと、ヘクターはエルヴィンの肩をポンと叩いた。エルヴィンはヘクターの言葉に分かったと手を振ると、包みをほどいて中に入っていた淡い黄色の弁当箱を取り出した。そしておもむろにそれを開けた。
「え!」
エルヴィンの口から短い悲鳴のような声が漏れ出た。自分の席へと戻ろうとしたヘクターがその声に振り返ると、エルヴィンは弁当に目を落としたまま、まるで彫像のように凍り付いている。
「どうした、エルヴィン? もしかしたら意趣返しで、変な物でも入っていたか?」
ヘクターが不思議そうな顔をして、エルヴィンの肩越しに机の上に置いてある弁当を覗き見た。
「えぇ!」
だがヘクターの口からもエルヴィンと同様に驚きの声があがる。
「エルヴィン、これはもしかしたら単なるきっかけ以上かもしれないぞ」
エルヴィンとヘクターの視線の先の弁当箱には、食紅を使って二色に染められたらしいきれいなピンク色の白パンが詰められている。そしてそれには大きなハートの印が描かれているのが見えた。
* * *
「ただいまです」
私の声にまだお昼の途中だったらしいオリヴィアさんとイサベルさんが振り向いた。
「フレデリカさん!」「フレデリカさん!」
私を見た二人が同時に声を上げた。その顔には安堵の表情と共に、得体が知れない期待の様なものも見受けられる。何ですか? 何か知らない間に事件でもありました?
「心配していました」「ご無事でよかったです」
どうやら二人とも私が許可なく男子の授業棟に行ったことを心配してくれていたらしい。
「は、はい、そうですね。何とか無事に戻ってこれました」
実際はかなり危ういところでした。もうちょっとで中年親父もとい、教師にかどわかされそうになりましたからね。
「ご心配をおかけしてすいません」
私は二人に向かって頭を下げた。私のせいだろうか、机の上に広げられた二人のお弁当はまだほとんど手が付けられていない。
「それで、フレデリカさんは本当に男子授業棟に行かれたんですか?」
イサベルさんが席についた私に、身を乗り出して聞いてきた。
「はい。でもまさか、男子の授業棟に行くのが禁止だなんて知りませんでした」
私の言葉にイサベルさんとオリヴィアさんが顔を見合わせる。
「え、皆さんご存じだったんですか?」
「私達もよくは分かっていなかったのですが、イエルチェが教えてくれました。そもそも殿方がいるところにこちらから出向いていくなんて、恥ずかしくて思いつきもしませんでした」
オリヴィアさんが少し顔を赤らめながら私に語った。は、恥ずかしいですか? まあ、確かにいきなりは恥ずかしいかもしれませんね。
「イサベルさんもそう思われます?」
私がイサベルさんの方を向いてそう問いかけると、イサベルさんがハッとした顔をして口に手を当てている。その視線は私の背中の先だ。イサベルさんの視線の先、後ろを振り向くと教室のほぼ全員が私の方をガン見している。そして私が振り返るや否や一斉に明後日の方を向いた。
これはまずいです。どうやら私はやらかす人、確定のようです。カミラお母さまに知られたら大変な事になってしまいます。その前にロゼッタさんに知られたら、またまた大説教を食らいます。
「そんなことより、イアン王子様とはお会いしました?」
どうやら周りが見えていないらしいオリヴィアさんが、少し興奮気味に私に問いかけて来た。ああ、あの嫌味男ですか?
「はい」
「フレデリカさんは、どうしてイアン王子様とお知り合いになられたのでしょうか?」
イサベルさんも開き直ったのか、手を前に組んで私の方へにじり寄ってくる。
「へ?」
「もう、あんなりっぱな方とお知り合いだなんて。ぜひ、馴れ初めを教えてください」
「馴れ初めですか?」
「はい。本当に紳士な方で、とても尊敬できる方だと思います」
オリヴィアさんも口を挟む。
「し、紳士ですか!?」
あの嫌味男がですか!?
「はい。是非に今後の参考にさせて頂きたいと思いますので、意地悪しないで教えてください」
イサベルさんはそう告げると、さらにこちらににじり寄って来る。あの、イサベルさん、顔が、顔が近いです。それにイサベルさんはとっても美人ですから、殿方の方からいくらでも寄ってくると思います。なのでどちらかと言えば、その対策を考えた方がいいのではないでしょうか?
それにですね……
「あの男が紳士とか言うのはあり得ません」
「え!」「えぇ!」
私の発言に二人が驚いた顔をして顔を見合わせた。そして二人とも何かかわいそうなものを見る目で私を見ている。
「皆さん絶対に騙されていると思います!」
いや、私が言うのもなんですけど、皆さんは貴族の箱入り娘で男を見る目がないです。私の足を踏んでも謝らない男ですよ!
「それよりも、お昼をいただかないと午後の授業が始まってしまいますよね」
私は手提げ袋から自分の弁当を出した。
「あれ?」
手提げ袋から水色の布で包まれた袋が出て来た。エルヴィンさんに渡したのも水色の布だったような気がする。もしかして、朝食の残りも昼のお弁当も、両方とも水色の布で包んでいた?
「どうかされましたか?」
布を開けると中からは、白パンとチーズ、今日の朝食のメニューと同じものが顔を出す。これって……お昼のお弁当の方を彼に渡してきた? きっとマリに怒られるな。でもしょうがない。お弁当箱をどうやって取り戻すかは後で考える事にしよう。
「いえ、何でもありません。では皆さん、お昼もだいぶすぎました。では頂きます!」
まだまだ何かを言いたそうな二人に向かって、私は作り笑いを浮かべて見せた。もう十分に疲れました。このネタはこれでお終いにさせて頂きます。