昼休み
自分達の口から漏れた言葉に、イサベルとオリヴィアは思わずお互いに顔を見合わせた。二人が恐る恐る戸口の方を見ると、「フレデリカ」と言う声に反応したのか、イアンがその髪の毛の色と同じ鳶色の目で二人をじっと見つめている。
イサベルは慌てて口を手で押さえて俯いたが、時既に遅しだった。イアンはおもむろに教室の中に入ると二人のところまでゆっくりと歩み寄ってきた。
「先ほど彼女の名前を話しておられましたが、お知り合いでしょうか?」
イサベルはオリヴィアとお互いに視線で牽制しあったが、立てないオリヴィアに押し付けるのは無理と悟ったのか、イサベルが礼をとってイアンに向かって答えた。
「はい。私達の友人です」
「ご挨拶が遅れてすいません。私は新入生のイアンと申します」
「あ、あの、私はイサベル・コーウンウェルと申します」
「私は、オリヴィア・フェリエと申します」
「もしかしてオリヴィアさんは、こちらで怪我でもされましたか?」
イアンが車いすのオリヴィアを見て問いかけた。
「いえ、長らく病で寝たきりだったため、まだ足で自分の体重を長く支えられません。それで無理をお願いして車いすで入学させていただきました。ですがだいぶ良くなりましたので、そのうち自分の足でこちらまで通えるようになると思います」
「それは大変でしたね。それでお付きの方が一緒なんですね」
そう言うと、車いすの背後に床に膝をついて控えていたイエルチェの方を振り向いた。
「どうか私の事は気にしないで、立ち上がってオリヴィアさんのお世話を続けてください」
「はい。ありがたく存じます」
立ち上がったイエルチェの姿を見て、イアンが少し怪訝そうな顔をした。
「イエルチェ、イアン王子様にご挨拶を」
その表情を見たオリヴィアが慌てて背後のイエルチェに即した。
「はい。オリヴィア様のお世話を仰せつかっております、イエルチェと申します。卑賤の身にも関わらず、本日は御尊顔を拝す機会をいただきまして、大変光栄に存じます」
イアンはイエルチェの言葉に、少し苦笑いをして見せた。
「先ほども言いました通りここでは一学生です。そのような言い回しは不要に願います。それよりも、前にどこかでお会いしたことはありませんでしたか?」
「いえ、本日初めてお会いさせていただきました」
「そうですか。私の気のせいですね。ところでフレデリカ嬢はどちらに行かれましたでしょうか?」
イアンの言葉にイサベルもオリヴィアも再びお互いに顔を見合わせた。
「もしすぐに戻られるようなら、ここで待たせていただきたいのですが?」
「そ、それが……」
「先ほどご用事があるとかで、殿方の授業棟に向かわれました」
言いよどんだイサベルに対して、オリヴィアが意を決して口を開いた。
「ああ、もしかして許可を得て婚約者のところへでも行かれたのですかね」
「ですよね」「さすがにありませんよね」
イアンの言葉に、イサベルもオリヴィアもイアン王子がフレデリカの婚約者だという自分達の想像が、さすがに突飛だったとお互いに苦笑いをした。
「何か?」
イアンが戸惑いながら二人に声を掛けた。その言葉にイサベルもオリヴィアもはっと我に返る。
「そうでした!忘れてました。フレデリカさんは許可が必要なこと自体をご存じないのだと思います」
「えっ!?」
イアンの顔に驚きの表情が浮かぶ。
「先ほど追いかけて止めようと思ったのですが……」
「もしかして私が来たので止められなかったという事でしょうか?」
「…」
イアンは二人の沈黙にすべてを悟ったのか、二人に向かって軽く頷いて見せた。
「状況は分かりました。とりあえず、私の方で状況が悪化しないように何か手を打てるか考えます。ではこれにて失礼させていただきます」
イアンは二人にそう告げると教室の外へと駆け出して行った。二人の少女からはその姿が、先程迄の一国の王子らしい毅然とした態度とは違う、年相応の少年の姿のように見えた。
* * *
お昼休みには少し早かったせいか、隣の教室からは担任の先生の声らしきものだけが響いていた。その教室の先、一階の廊下の突き当りには扉があり、その隙間からは外の光が漏れている。扉を開けると、その先には渡り廊下があって、隣の授業棟へと続いていた。
間違いない。イエルチェさんが言っていた男子生徒の授業棟だ。私は迷うことなく渡り廊下を抜けると、扉を開けて隣の授業棟へ入った。こちらの廊下もまだお昼にはちょっとだけ間があるせいか、まだシーンと静まり返っている。
私は入り口近くの紫の看板の前を通り過ぎて、その奥にあった青色の看板の教室の入り口の扉の前で、中の様子を伺った。どうやらちょうど授業が終わったらしく、担任の先生の何かの呼びかけと共に、一斉に椅子が動く音がした。
その音に続いて扉の向こうに人が来る気配がする。私は思わず廊下の柱の陰に身を隠した。隣の教室もちょうど授業が終わったらしく、先生らしき人に続いて男子生徒の皆さんが一斉に教室から出て来た。
「イアン、特別許可まで取って、いきなり女子棟へ用事とは流石だな」
「いや、これはかなり命がけの件だよ」
背後の教室から出てきた男子生徒達が何やら話しをしているのが聞こえた。どこかで聞いた名前の様な気がしたが、今はどうでもいい。
思わずこのまま身を翻して女子の授業棟まで取って返したくなったが、この件はとても危険なので絶対に後回しにすることはできない。私は意を決すると、後ろの扉から出てきた、少し気の弱そうな感じがする男子生徒の一人に声をかけた。
「あの?」
「ひっ!?」
柱の陰から出てきた私を見て、男子生徒がまるで女性のような短い悲鳴をあげる。あのですね、せめて驚くぐらいにしてもらえませんか?
「こちらの教室にエルヴィンさんが居ると思うのですが、どちらに居るか分かりますでしょうか?」
「あ、赤毛だ!」
私の問いかけに、男子生徒がまたもや悲鳴を上げて体をピクリと震わせた。あのですね、か弱い女性を危険物扱いするのはやめてくれませんか?
「あの、エルヴィンさんは……」
私の問い掛けに、彼は言葉を返す代わりに教室の扉の奥を震える手で指し示した。
その指先には、確かに昨日見た対戦相手らしき男子生徒が、窓際の席でぼんやりと外を眺めて一人で座っている。何だろう? 昨日見た殺気というか、得体が知れない威圧感のようなものは、今日の彼からは微塵も感じられない。
「ありがとうございます」
そう言って振り返ったが、先程の気の弱そうな少年の姿はどこにも無い。出来れば廊下まで彼に呼び出してもらいたかったが、諦めて教室の中に足を踏み入れた。
教室の中にいる生徒の何人かが私に気が付くと、話を止めて、唖然とした顔で私の方を指さしているのが分かった。昨日はこの人達の前でドレスを破いて素足までさらしているのだから、何と思われようがもうどうでもいいです。
彼は私が教室に侵入した騒ぎにも気が付かずに、相変わらず頬杖をついて窓の外をぼっと見ている。机の上には彼のお昼だろうか、広げた布の上に固焼きのパンが一つだけ置いてあった。彼の家は我がカスティオール家以上にお金がない家なのかもしれない。
「あの、エルヴィンさん。少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
私の呼びかけに、彼が私の方を振り向いた。そしてあっけにとられた顔で私の方を見ている。その目には驚きの色はあったが、昨日の試合の時の目と違って、とても穏やかな目をしている。昨日私が見たのは一体何だったんだろう?
「・・・」
彼はなにか言おうとしているみたいだが、その口からは何の言葉も出て来ない。
「改めまして、フレデリカ・カスティオールと申します」
「あ、エルヴィン・トルレスです」
「昨日は大変申し訳ありませんでした」
私は彼に向かって下げられるだけ頭を下げた。
「え、え……あの、それは、どちらかと言うと……」
その姿を見たエルヴィンさんが慌てた声を上げた。
「エルヴィンさんが剣の修行を長くされてきた方だという事は、昨日の試合で良く分かっています。こちらもよく分からないまま試合に参加する事になり、混乱しておりまして、あのような対応しか出来ませんでした。本当にすみませんでした」
私の言葉にエルヴィンさんがふっとため息をついた。
「僕はやっぱり貴方に負けたんですね。貴方を見て納得しました」
エルヴィンさんがまるで他人事みたいに私に向かって語った。
「こちらこそ申し訳ありません。とんでもなく舞い上がっていたのか、実はよく覚えていないんです。ただ自分が負けた事だけはなんとなく覚えています」
「どういう事ですか?」
「自分でもよく分からないんです。控室から会場に向かった後はともかく無我夢中だったらしく、何をどうしたのか、全く覚えていなくて、後から自分がヘクターから何をしたのか聞いた時には、正直なところ死にたくなりました。女性に向かって剣を上げるだなんて、自分はいったいどんな修行をしていたのか、恥ずかしい限りです」
そう告げると、寂しげに頭を横に振って見せた。
「死んでもらっては困ります!」
それでは私が殺したみたいになるではないですか!?
「え!?」
エルヴィンさんが少し驚いた顔をして私を見た。
「試合ですから勝ち負けがあって当たり前です。今回はきっとエルヴィンさんがとても緊張していて、たまたま私が何とか出来ただけです。もう一回やったら絶対にエルヴィンさんの勝ちです」
「そうでしょうか?」
「絶対にそうです」
もっとも、やれと言われても、絶対にもう一度はやりません。昨日の試合も出来ればすべて無かった事にしたいぐらいなんです。
「それで本日はお詫びと言いますか、お互いに水に流すという事でお昼をご一緒させていただきたく、こちらにお伺いさせていただきました」
エルヴィンさんが今度はとてつもなく驚いた顔をして私を見ている。え、仲直りに一緒に食事って、別におかしな事ではないですよね?
「あ、あの、フレデリカさんはしかるべき家のご令嬢ですから、私のような者と昼食を一緒など、色々と差し障りがあるのではないでしょうか?」
「差しさわり?」
「は、はい、ご婚約相手とか?」
「御心配には及びません。そのような方は全くいません」
「ですが……」
カスティオールですよ。心配しなくても誰も相手になんてしてくれません。それに差し障りとか言うのなら、昨日の試合こそがその最たるものです。
「それに今日はお弁当を二つ持ってきましたので、それでご一緒させてください」
私は持ってきた手提げから、水色の布の包みを取り出すと彼に差し出した。
「自分のお昼はありますので……」
私の朝食の残りで申し訳ないですが、さすがに固焼きのパン一つだけよりはマシだと思います。どうか素直に受け取ってください。うだうだ言うとその口に押し込みますよ。
「この椅子をお借りしてもよろしいですか?」
流石に立って食べるわけにはいかないので、彼の隣の席の男子生徒にお願いすると、親切なことにすぐに席を譲ってくれた。なんかその動きはまるで道端で蛇を見たときみたいだったような気がするが、今は一切気にしないことにする。ともかく仲良くなったことにしないと、マリが絶対に何かしでかします。なので、既成事実優先でいかせて頂きます。
「では、一緒に頂きましょう!」
「君!」
手提げから自分の分のお弁当を取り出そうとした時だった。背後から声がかかった。振り返ると教師らしい裾が長い上着をきた男性が、怪訝そうな顔をしてこちらを見ている。
「君はこんな所でいったい何をしているんだ!?」