用事
「はい、お疲れ様でした。回答を回収しますので、それまでは席を離れたり、私語はしないでください」
少し、いやだいぶ不機嫌そうなメルヴィさんの声が教室に響き渡った。後ろをちらりと振り返って見ると、ハッセ先生が後ろに置かれた椅子でうたた寝をしている。メルヴィさんの機嫌が悪いのは間違いなくこのせいだ。
なのでメルヴィさんに注意されるまでもなく、試験が終わっても教室内は静まり返っていた。メルヴィさんの靴音と、回答を回収していく紙の擦れる音だけが教室の中から聞こえて来る。
「ガチャン!ドン!」
いや違った。教室の背後で何かがひっくり返るような音が盛大に響いた。
「一体何事だい!?」
ハッセ先生の慌てた声が響いた。思わず後ろを振り返ると、メルヴィさんに椅子を蹴っ飛ばされたらしく、先生が椅子と一緒に床に転がっている。
「申し訳ありません。教授の足がとても長いので、私の短い足に引っ掛ってしまいました」
続いてメルヴィさんの冷徹な声が聞こえて来た。それを振り返ってガン見したりする者は誰もいない。やはりメルヴィさんは決して逆らってはいけない種類の人だ。
「メルヴィ君。君の足が僕の足に意図しないで引っかかる可能性は相当に低そうな気がするけどね」
「そうでしょうか? 十分にあると思います。それよりも回収中に午後の予定について連絡をお願いします」
その言葉に、ハッセ先生は頭を掻きながら、何事も無かったかのように、私達の横を通って教壇へ向かって歩いていく。この人も間違いなく只者ではない。
「午後は今後の授業の予定と、明日の体力測定の件について説明を行います。では少し早いですが、お昼休みとします。午後の開始に遅れない様に教室に戻ってきて下さい」
そう言うとハッセ先生はメルヴィさんと連れ立って教室から出て行った。教室のほぼ全員の口から張り詰めていた息が漏れる。それと同時に堰を切ったように皆が誰かを捕まえて口々に喋り始めた。
「メルヴィさんて本当はおいくつの方なのかしら……」
「もう駄目です。さっぱりわかりません」
「そもそも問題が何を問うているのかが、意味不明です」
色々な人の様々な会話が私の耳に届く。机の上にうっぷしてそのまま微動だにしない人も居た。その気分は良く分かります。私がロゼッタさんの試験を受けた後と同じです。
「フレデリカさん。何か回答を書くことが出来ましたか? 私は全ての試験がほぼ白紙です」
後ろの席のオリヴィアさんが私に声をかけてきた。その声は少ししょんぼりした感じだ。
「オリヴィアさんはご病気でしたから仕方がないですよね。それに問題というよりも質問の様な感じでしたけど。ちょっと意地の悪いなぞなぞみたいなものでしょうか?」
「なぞなぞですか?」
私の言葉にオリヴィアさんが、まるでどこかの賢人を見るような顔をして私を見つめている。
『え、そんなに大したことですか?』
時間内に解くことを要求しているのかどうかはかなり怪しい気はしますが、正直な所、それほど大変な問題でしたかね? 本当になぞなぞの様な感じです。数学なんかはロゼッタさんが出す問題に比べたら、大したことは無かったですし。
「フレデリカさんは、剣だけでなく、お勉強もできる方なのですね」
オリヴィアさんがやはり尊敬の念で私を見ている。そんなに褒められるような事ですか? だって問題って、水に砂糖を溶かしてその重さと、溶けた砂糖がどうなったかとかですよ。重さについては常識ですし、とけた砂糖がどこに行ったかなんてのは、ほとんどなぞなぞというか、頓智の様なものだと思うのですが……
ちょっと待って。もしかしてロゼッタさんのこれでは授業に追いつけないというのは、学園に居たときのロゼッタさんを基準にした考えじゃないんですか? 周りの方々の発言を見る限り、そうとしか思えません!
「フレデリカさんもそう思われました? 私はあまり勉学は得意ではないので、良く分かりませんが、確かに問題というより、質問のような感じでした。そもそも正解があるのかどうか自体が怪しい気がします」
イサベルさんの声も当惑気味だ。間違いありません。これは私が出来ないのではなくて、ロゼッタさんの私に対する基準が間違っています。この件は私の睡眠時間に関わる大事な問題なので、絶対に何とかしないといけません。
「フレデリカさん、何か気になることでもございますでしょうか?」
イサベルさんがロゼッタさん対策を考えていた私に声を掛けて来た。
「ちょっと睡眠時間について考えていました」
「睡眠時間?」
「いえ、何でもありません。忘れてください」
イサベルさんとオリヴィアさんが不思議そうな顔をして顔を見合わせている。いけません。前世に引き続き、私は心の声がダダ漏れです。
「は、はい。それよりも良かったら、お二人とお昼をご一緒させていただけませんでしょうか? 今までどなたかとお昼をご一緒させていただく機会がなかったので……」
オリヴィアさんが、イエルチェさんが差し出したお弁当を受け取りながら聞いてきた。同い年の女性と一緒にお昼のお弁当を食べられるなんて、なんて素晴らしいんでしょう。
前世では忙しくてそんな暇はなかったですし、現生でもロゼッタさんととても静かなお昼だけだった私の夢です!でも、今日は、今日は駄目なんです。
「オリヴィアさん、ごめんなさい。今日はちょっと用事があって、行かなくてはいけないところがあるんです。明日は、いや、これからはずっとご一緒させてもらいますので、今日はお許しください」
「許すも何も私の勝手なお願いですので、それはいいのですが、一体どちらまで行かれるのでしょうか?」
オリヴィアさんが不思議そうな顔をして聞いてきた。そうですよね。謎ですよね。
「ある人のところまで謝りに行かないといけないのです」
これは可及速やかにやらねばなりません。マリが何かしでかしてからでは遅いんです!そう言えば殿方の教室はどこにあるんだろう? 確認するのを忘れていた。そうだ。この人がいる。
「イエルチェさん!」
「はい、フレデリカ様」
急に声を掛けられたイエルチェさんが驚いた顔をした。
「あの、殿方の新入生の教室はどちらかご存じでしょうか?」
「殿方? 男子生徒の教室ですか?」
「はい。男子生徒の教室です」
「それはこの隣の建物の一階だったと思います。教室は二つありますが、どちらの教室でしょうか?」
私は自分の教室の中を見渡した。この棟も奥に赤い看板の教室がもう一つあった。家柄に関係なくとは言っているが、どう見ても出自で教室を二つに分けている。だとすれば、彼が居るのは大きな貴族の子弟が集まっている教室ではない。
「その、平民の方が居るとすれば、どちらの教室になりますでしょうか?」
「確か青色の看板だったと記憶しております」
すごい。やっぱり全部覚えている。ここにくる時も迷うような様子は何もなかった。もしかしたらイエルチェさんは学園の卒業生? まさかそんな事はないか。
「イエルチェさん、ありがとうございます。では皆さん御機嫌よう。午後にまたお会い致しましょう」
私はマリから受け取った弁当と、朝食の残りが入った手提げを持つと、教室の外へと飛び出した。
* * *
「フレデリカさんのご用事って、一体何でしょうか?」
「さあ、フレデリカ様はこちらには知り合いはいないとおっしゃって居ましたが、もしかしたら知り合いは居なくても、ご婚約された方がいらっしゃるのではないでしょうか?」
オリヴィアの台詞に、イサベルは知り合い同士でお昼の準備をしながらお喋りをする人達を見た。聞こえてくる話題は、自分や兄弟姉妹の婚約相手に関する事がほとんどだ。
「なるほどそういう事ですね」
イサベルはオリヴィアに向かって頷いて見せた。
「失礼ですが、イサベル様はご婚約はされていらっしゃるのでしょうか?」
「いえ、残念ながら私には婚約も何も、話すらありません。オリヴィアさんは?」
「私もこの歳まで生きてこれたのが不思議なようなものですから……」
「それは大変でしたね」
「はい。でもお陰様で、こうして皆さんと一緒に学園に入学できるまでになりました」
「でも、フレデリカさんに婚約者がいるとしたらどんな方か気になりますね」
「あ、イサベルさんもそう思っていらっしゃいました?」
「ええ、もちろんです!とっても気になります」
イサベルとオリヴィアが二人とも少し顔を赤らめながらお互いに盛り上がった時だった。オリヴィアの背後から声が上がった。
「オリヴィア様」
「イエルチェさん、どうかしましたか?」
「はい。お話中に申し訳ありませんが、もしフレデリカ様が男子生徒の授業棟に行かれたとしたら、少し問題かもしれません」
「婚約者に会いに行かれるのに、何か問題があるのでしょうか?」
「はい。たとえ相手が婚約者でも許可なく男性、女性の授業棟を訪ねるのは禁止。いえ厳禁だったと説明されました。もし、フレデリカ様が許可なく尋ねられますと、おそらく懲罰の対象になるかと思います」
「え!」「えっ!」
「イサベルさん!」
「はい、すぐに追いかけないと!」
イサベルが慌てて椅子から腰を浮かせた時だった。
「お昼休み中、大変申し訳ない」
教室の入口から男性の声が聞こえて来た。その声に、イサベルとオリヴィアは勿論、教室中の生徒が入口の方を振り返った。そこには鳶色の髪をした自分達と同じ年齢くらいの男子生徒が立っている。
「私は……」
「イ、イ、ア……イアン王子様!」
男子生徒が言葉を続ける前に、教室の中から女生徒達の悲鳴のような叫び声が上がった。教室の入り口に突然に表れた人物に、お昼を広げていた女子生徒達がそれを隠すように立ち上がると、入口の方へ向かってスカートの裾を軽く持ち上げて、淑女の礼をする。イサベルも慌ててそれに習った。
「どうか皆さん、そのままお昼を続けてください。それにここは学園で、私は皆さんと同じ新入生の一人です。どうかそのような礼は不要にてお願いします」
男子生徒はそう告げると胸に手を当てて、教室の中に向かって丁寧な礼を返した。
「改めまして、私はイアンと申します。お昼休み中申し訳ありませんが、ある方にお会いしたくて、許可をいただいてこちらを訪ねさせていただきました」
そう言うと教室の中をしばし見渡した。そして少し首を傾げて見せる。
「フレデリカ・カスティオール嬢がこちらに在籍とお聞きしたのですが、どちらにおられますでしょうか?」
「オリヴィアさん!」
「イサベルさん!」
「まさかフレデリカさんの!」「フレデリカさんの婚約者って!」
「イアン王子様!」「イアン王子様ですか!?」
思わず二人の口から漏れ出た声は、教室の中に少しばかり大きく響き渡った。