寝坊
「フレアさん、起きてください。もう起きないと一日目から遅刻です!」
「え、遅刻!?」
マリの声に私は飛び起きた。目の前には見慣れないとても質素な、ある意味でとても心休まる部屋が映っている。そうだ、昨日はマリと一緒に宿舎まで戻ってきてしばらくしたら、ロゼッタさんが部屋に来て、学園での注意事項、建物の配置やら教室の位置、それに明日の予定等を説明してくれた。だが正直な所、半ば夢見心地だった。
その後でマリが部屋まで持って来てくれた夕飯を食べたら、そのまま寝台に倒れ込んで寝てしまった。さすがのロゼッタさんも昨日は私に学習をさせようとは思わなかったらしい。
「ロゼッタさんは?」
ロゼッタさんのお部屋は別棟だそうです。
「別棟?」
「護衛役や家庭教師役の方は男性もいるそうなので、基本的には別棟だそうです」
それはありがたいような、寂しいような、少し複雑な気分だ。流石に自分の発言の一つ一つ迄ロゼッタさんに聞こえるかと思うと、それはそれで相当に厳しい。とても寂しがったり、少し離れて安心したり、人間とは何て贅沢に出来ているんだろう。
「マリの部屋は?」
「私の部屋はそちらの扉の先に控えの部屋があります。こちらには湯殿とまではいきませんが、流し場に、学習室件居間までありますから、相当に立派な作りのようです。一応は付き人用の宿舎もあるので、そちらでもいいとの話でしたが、もちろんこちらにて寝泊まりさせていただきます」
マリが寝室に続く各扉を指さしながら説明してくれた。部屋がまとまっているので、考えようによっては、屋敷よりこちらの方が快適そうなくらいだ。
「そうなんだ」
侍従の人だって、ずっと主人と同じ部屋だと気が狂いそうになるだろう。私なら狂う。マリは平気なんだろうか?
「ともかく昨日は湯あみも着替えもしないでそのまま寝てしまいましたから、湯を準備しましたので、流し場で汗を流して着替えてください」
「は~~い!」
私は部屋の横の長し場の方へ向かった。私の後ろを着替えとタオルを持ったマリがついてくる。そしてそのまま流し場の中まで一緒に入ってきた。
「マリ?」
「はい。なんでしょうか?」
「湯あみをするので……」
「時間もありませんので、その間に私の方で髪の手入れもさせて頂きます。さっさと脱いで湯殿にお入りください」
「え!」
「ですので、さっさと脱いで湯殿にお入りください」
「不要です」
「はあ?」
「不要です。ですのでともかく外で待っていてください!」
「フレアさん、それでは食事の時間がなくなります!」
「不要ですったら、不要なの!」
親しき中にも礼儀ありです。このいまいち幼児体形から抜けきらずにいる体は、たとえマリと言えどもとても他人様に見せられるような体じゃございません。ともかくマリを押し出して桶に汲んであったお湯を体にかけた。
温かい湯が体に染みる。着替えなども全て準備してある。私よりもはるかに早く起きてこれらを全部準備してくれたのだろう。それにあれだけの荷物も全部この部屋に運んでくれたに違いない。
「悪かったかな?」
先ほどマリを追い出したことを少しだけ後悔したが、自分の体を見て、そんなことはないと思い返した。湯を何回か掛けて体の汗を流し、口をゆすぐと、マリが用意してくれた肌着を着て流し場を出た。扉の外では少し不満そうな顔をしたマリが、どうやら学園の制服らしきものを手に立っていた。
「本当に時間がありません。早く着替えてください。髪は私の方で整えます」
「はい、マリさん。よろしくお願いします」
これ以上逆らうと後が怖い。とりあえず手伝ってもらって制服を着ると、私は化粧台の前へ座った。
「フレアさん」
「はい」
「髪を結っている間に、一口でも良いので白パンと紅茶を口に入れてください。それと制服は今のところこの一着しかありません。代えは後で届くことになっていますが、とりあえず今日一日は汚さないようにお願いします」
「はい。承知しました」
「それから昨日の様な危険なことは無しにしてください。貴方に何かあったら、私は生きていけません。すぐに後を追わせていただきます」
「いや、それはちょっと……」
「分かりましたか!」
「はい。気を付けます」
なんだろう、最近のマリは私に少し厳しいぞ。もしかしたらコリンズ夫人から変なものをうつされたりしてはいないだろうか? それともロゼッタさんか?
「昨日、ロゼッタさんから聞いた、教室の説明は覚えていますか?」
「いえ、全く思い出せません」
私の答えに背後からマリのため息が聞こえて来た。それと同時にマリが手鏡を私の顔の横に差し出してきた。
「これでよろしいでしょうか?」
「はい。完璧です」
この短時間でよく私のくせ毛をまとめてくれました。相変わらずほれぼれする手際です。私は立ち上がるとマリが手にしてくれた上着に袖を通した。
「建物は宿舎から出て、右手一番手前の建物です。それと教室は一階の、橙色の看板がでている教室だそうです。今度は間違いなく、確実にたどり着いてください。本日は授業は無しで、今後の説明が主だそうです。鞄の中に筆記用具と手帳が入っています」
「はい」
「それと、これはお昼のお弁当とお茶です。手提げの中に入れておきますので、振り回したりしないで下さい。朝ごはんの残りも入れておきます。足りなかったらこちらも食べて下さい」
マリはそう言うと、明るい水色の布でくるんだお弁当を私の手提げに入れてくれた。
「マリ」
「はい、なんでしょう?」
「ありがとう」
私はそう告げると、マリを抱きしめた。マリが私の背中に腕を回してそっと抱きしめ返してくる。私の鼻先に、彼女が頭の後ろでまとめている栗色の髪の毛が触れた。そこからは懐かしい日なたの匂いがする。昨日は朝から急に荷物の準備をして、一人でそれを宿舎に運んだ上に、朝から私の湯や食事の用意迄全て整えてくれた。
『本当にありがとう』
心の中でもう一度礼を言う。
「ともかくぎりぎりなので、急いでください」
マリが慌てて私から腕を離して告げた。忘れていた。
「はい。がんばります」
「では、行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
丁寧に頭を下げたマリに見送られて部屋を出た。前世では師匠とは名ばかりで、実際は親友であり、同僚だった人だ。だから変なものが混じったフレアとしては何だかとっても変な気分がする。
『良き狩り手であらんことを!』
そんな自分の気分を糊塗する為に、私は後ろ手に前世での冒険者の挨拶を手信号で送った。振り返る時間は無かったが、きっとマリも私に同じ挨拶を間違いなく返してくれているはずだ。
でもどうやらそんな冒険者気分を味わっている暇は本当に無かったらしい。静かすぎる。つまり私以外のこの宿舎の人達はすでに授業に向かってしまっていると言う事だ。私はとりあえず、階段を駆け降りると玄関を抜けた。
昨日はもう日暮れだったので気が付かなかったが、宿舎のまわりは林とまではいかないが、ちょっとした木立に囲まれていて、玄関前は芝生の小さな広場のようになっている。
マリは右手の建物と言ったけど、右手にある建物は一つではないじゃないですか、どう見ても3つあります。一番手前かな?
時間が無いので、ともかく行くしかない。私は木立の間の道を、一番手前のレンガ造りの建物を目指して駆けだした。昨日と言い、今日と言い、どうして私はこんなにも計画性がないのだろう。このあたりは前世から何も成長していない。いや単に思いだしただけだから、成長なんてしていなくてあたり前か?
木立を抜けると前方に人影があった。助かった。新入生の教室がどこなのか聞ける。私は必死に走って、その人が建物の影に入る前に何とか追いついた。
「すいません!」
私の声に明るい茶色の髪の女性が振り返った。
「あの、新入生の教室は……」
「フレデリカさん!」
女性の前方から声が上がった。よく見ると女性は車いすを押していて、その上にはオリヴィアさんが乗っていた。
「オリヴィアさん!」
「昨日は本当にびっくりしてしまいました。お体は大丈夫でしょうか? どこにもお怪我はしていませんか?」
「はい、体は大丈夫です。まさか、あそこが試合の参加者の入り口だとは思いませんでした」
あの観衆の前で素足をさらしてしまいましたから、心の傷は大分負いましたけど……。
「私の方でももっとちゃんと説明させていただければ良かったのですが、お役に立てなくて申し訳ありません」
オリヴィアさんはそう言うと、私に向かって頭を下げた。
「いえいえ、オリヴィアさんのせいではないと思います。ちゃんと確かめなかった私のせいです。ともかく色々な方に迷惑をかけてしまいました」
「でも、聞いた話では、試合相手の殿方を完膚なく打ちのめしたとお聞きしましたが?」
「へ!そんなことは無いです。逃げ回っただけですよ。誰からそんな話を?」
「はい、こちらのイエルチェから聞きました。とてもすごかったと……」
「フレデリカ様、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。オリヴィア様の侍従をさせて頂いております、イエルチェと申します。お見知りおきの程をよろしくお願いいたします」
車いすを押していた女性が、持ち手から手を放すと私に深々と頭を下げた。
「こちらこそ……」
私の言葉に頭をあげた、若い侍従姿の女性を見て思わず言い淀んでしまった。なんだろうこの違和感は? 私はイエルチェと名乗った女性から目が離せなかった。向こうも髪と同じ茶色い目がじっと私を見ている。
そばかすが少し目立つ朗らかな顔をしているのに、その瞳からは何か引き込まれるような、全てを飲み込むような得体が知れないものを感じる。そして紅をのせているのだろうか、その唇の鮮血のような赤色からも、若い女性に似つかわしくない、妖しさのようなものが漂っていた。
「あの、何か失礼でも……」
「いえ、何でもありません。フレデリカ・カスティオールです。こちらこそよろしくお願いします」
「フレデリカさん。だいぶ時間もぎりぎりですが、宿舎に何か忘れ物でもされたのでしょうか?」
「いえ、単なる寝坊です」
「寝坊ですか?」
「今のは忘れてください。それより急ぎましょう!」
「はい、フレデリカさん」
それにどこに行けばいいか、教えて頂けませんでしょうか?