不手際
「貴方が書こうとしている陣は、今日の不手際を起こした者達に対するものではないですよね?」
アルベールは暮れ行く赤い日差しの中で、畳んだ日傘を手に、地面に複雑な文様を描く人物に声を掛けた。
「アルベール卿、何か御用でしょうか? 私は今は少しばかり忙しいのです。用事でしたら後でお願いします」
ロゼッタはアルベールを一瞥すると、日傘で地面に陣を書く作業を続けた。
「まさか、またカスティオールが持つ私的制裁権なんてものを持ち出すつもりじゃないだろうな? ここは学園だぞ」
「そうですが。もし何か不明な点があるのなら法務省に問い合わせてください」
「フレデリカ!」
アルベールの呼び声に、ロゼッタは陣を書く手を止めると、アルベールの方へ顔を上げた。
「アルベール卿。私の名前は『ロゼッタ』です。二度とその名前で私を呼ばないでください。これはあなただから警告してあげるのです。二度目はありません」
「そうだったな。つい自分として呼び慣れた名で呼んでしまった。それについては申し訳ない。それならば、私の事は『アルベール』とだけ呼んでもらえないだろうか? もう執行官ではないから、『卿』は不要だ」
「それにしては執行官の制服をまだ大事に着ているみたいですが? それと、フレデリカに上着を貸していただいた件については礼を言います。ありがとうございました」
そう言うと、ロゼッタはアルベールに向かって小さく頭を下げた。
「ですが、この件はまた別の話です。あの子に害をなそうとした者達を許して置くわけにはいきません。穴の向こうに行ってもらいます」
「ならば、穴の向こうに行くべきは君自身だな」
「どう言うことでしょうか?」
アルベールの言葉に、ロゼッタは上体を起こして微かに頭を傾げて見せた。
「君があの子に害をなそうとしているからだ」
「私があの子に害を?」
「そうだ。学園というのは一つの共同体でもある。家で甘やかされ放題だったものが、初めて仲間と呼ぶべきものに出会う場所だ。そのような場所に一歩を記したばかりだと言うのに、君はあの子にいきなり業を、孤独を負わせるつもりなのか?」
「何よりも、安全こそが優先されるべきです」
「それについては同意する。今回の件は間違いなくこちらの不手際だ。それについては正式に謝罪する。そして今後については私が責任を持つ。なので誰かを穴の向こうに送りたいときには、先ずは私を向こうに送ってからにしてくれないか」
「アルベール、あなたは何も変わっていないのね」
「そうだろうか? 昔は大事にしていたはずの色々なものを失ったよ」
そう言うと、アルベールはロゼッタに向かって苦笑いをして見せた。だがロゼッタは表情を変えることなく、アルベールに向かって言葉を続けた。
「私が言いたいのはそこではないわ。あなたがずるい偽善者なのは昔から何も変わっていないのね。そして自信が無い振りをして自分をだまし続けている」
「私は……」
アルベールはロゼッタに何か答えようと口を開いた。だが何も言葉を紡ぐ事が出来ない。ロゼッタはそんなアルベールを冷やかに見つめると、小さくため息をついた。
「興がそがれました。不手際を起こしたものが、二度とあの子と私の前に現れないと約束するのならば、今回だけはあなたに免じて許してあげます」
ロゼッタはそう告げると、立ち尽くすアルベールの横を通り抜けた。
「ごきげんようアルベール」
ロゼッタは、そう背後のアルベールに声を掛けると、アルベールを残したまま、灯がつき始めた宿舎の方へとゆっくりと歩み去っていった。
* * *
「一体どこに行ってしまったんだろう?」
イサベルは宿舎に戻る前に、自分を探す侍従を撒いて、アルベールの姿を探していた。アルベールの行動を見た自分の感動を、どうしてもこの場で直接に本人に伝えたかったからだ。
説明会とか、おじいさまの後ろについて歩くだけの懇親会とかは、イサベルにとって、ただ退屈なうえに人に疲れただけだった。しかし、その後の剣の腕に覚えがある人がでる「新人戦」で見たものは驚きの連続だった。
出場予定だったイアン王子の体調不調とかで遅れて始まったその試合に、王子の代わりとして、ドレス姿のままの女性が出場したのだ。しかもあっという間に始まった試合では、剣を持った男性がその女性に普通に剣を打ち下ろしに行った。
侍従から借りた本に出てくる悪人はともかく、男性はすべて女性にやさしく、そして身を挺して守る存在だとイサベルは信じていた。それが裏切られた瞬間だった。自分とさして変わらぬように見える赤毛の女性に向かって、迷うことなく剣を振り下ろしにいくなんて。それを見たイサベルの口から、思わず悲鳴が漏れたくらいだった。
だけど悲鳴を上げたのは自分だけでは無かった。二階席から試合を見ていた多くの女性の口から同じ様な悲鳴の声が上がっていた。しかしその女性は、間一髪でその剣を避けると、背を向けて逃げることなく男性と剣を交え、間合いを取って剣を片手に構えた。
『この人は本気で試合をするつもりなんだ!』
その姿を見たイサベルは思わず息を飲んだ。そこから起きたことはもうイサベルの理解を超えていた。剣を振り上げて突進した男性に向かって女性が剣を投げつけ、腰のドレスの裾を使って男性の顔を覆ってしまった。
こんな殿方のいるところで、しかも大勢が見ている前で、ドレスの裾を外すなんてのは絶対にありえない。自分だったら、その場で恥ずかしさのあまり死んでしまうだろう。
だけど赤毛の女性は躊躇することなくそれをすると、後ろに回って、裾で男性の顔を引っ張った。男性は腰を折って、背後の女性をまるで暴れ馬のように蹴り飛ばそうとしたが、驚いた事に、女性はその男性の背中の上を飛んで前へ抜けると、手にした裾で男性の首を絞め上げたうえに、男性が手から落とした木剣を、相手の顔に向かって振り下ろそうとした。
イサベルはあまりの出来事に思わず目をつぶった。これは剣技、いや試合と呼べるものなの!? イサベルがそう心の中で叫んだ時だった。
「そこまでだ!」
イサベルの耳に、聞き覚えのある低い男性の声が響いた。おそるおそる目を開けると、あの方が膝をついて女性の手を抑えている。
『ああ……アルベール様』
イサベルの心の中で歓喜のため息がもれた。なんて凛々しい姿なんだろう。そしてなんて様になっているんだろう。絵物語の中の主人公そのまま、いやそれ以上だ。その後の混乱も、全てあの方によって、あっという間に収拾されてしまった。赤毛の女性に上着をかけた態度も、紳士、男性の鏡そのものだった。
イサベルとしてはこの自分の感動を、アルベールの姿がとても凛々しく、とても男らしかったことを直接に伝えたくて仕方が無かった。それで侍従の目をかいくぐり、会場の通路の方まで降りてきたのだが、どうした事かそこにアルベールの姿は無い。諦めて侍従のところに戻ろうとしたが、アルベールを探しているうちに、イサベルはすっかり迷ってしまっていた。
イサベルは途方に暮れたが、ともかく一度建物の外に出れば、どちらが宿舎の方かは分かるのではないか、そう思って中庭に出た時だった。イサベルの耳にアルベールが誰かと話している声が聞こえて来た。
その声を確かめるべく、イサベルが扉の影から顔を小さく出すと、そこにはいつもの朗らかな笑顔とは違う、少し深刻そうな顔をしたアルベールと、濃い紺の目立たない服装をした女性がいた。その女性は色白の肌をした人で、美しいだけでなく、とても知的に見える女性だった。
「…カスティオールの…………ここは学園…」
二人で何やら話をしているのだが、小声なので、イサベルにははっきりと聞き取れない。
「…フレデリカ…」
アルベールが女性に向かって少しばかり大きな声を上げた。そして誰かの女性の名前が、はっきりとイサベルの耳まで届いた。
『フレデリカ?』
彼女の名前なんだろうか? だが女性はアルベールの呼びかけに対して少し嫌な顔をしただけだった。この名前には聞き覚えがある。そうだ、試合に出た新入生の女性の名前だ。それとも目の前の女性の名前だろうか?
イサベルはもう少し会話を聞き取ろうと、さらに頭を扉の影から差し出した。だけどやはり良くは聞き取れない。アルベールの呼びかけに対して、色白の女性はアルベールに対して小声で何やら小さく告げている。アルベールもそれに対して何かを答えているのだが、その態度はいつもの自信に満ち溢れたものと違って、とても当惑しているように見えた。
『もしかして、恋人?』
イサベルは自分の頭の中に浮かんだ考えに慌てふためいた。だが女性からはアルベールに対する親愛の情らしきものは感じられない。アルベールは女性に向かって何かを必死に訴えているようだが、女性の態度はとても冷やかだ。
イサベルは侍従から借りた一冊の絵物語の内容を思い返した。そこに描かれていたのは、とある理由で別れた恋人同士が偶然に出会う話だ。もしかしたら、自分はその場面に遭遇してしまったのだろうか? その絵物語の中では、二人は再び恋に陥るのだけど、女性の態度からはやはりその様なものは何も感じられない。
「ごきげんようアルベール」
こちらに向かって歩いてくる女性の口から洩れた声が聞こえた。だが、それは挨拶というよりも皮肉の様にしか聞こえない。
『アルベールさんを名前だけで呼んでいる?』
イサベルの中で一つの物語が完成した。
『元恋人!?』
この女性は元恋人で、女性の方がアルベールさんを振ったとか!?
きっとそうに違いない。聞こえた言葉は、「カスティオール」に「フレデリカ」だ。この名前の先にこの謎の答えがある。これは絶対にそうなのかどうか確かめないといけない。
イサベルはそう決心すると、自分が来た通路を、侍従を探しに駆け戻っていった。