新人戦
『まずい!』
私は視界の隅に入った、こちらに向かってくる何かを避ける為に必死に身をよじった。私の頭から肩口にかけての指一本の隙間も無い先に木剣が振り下ろされ、その風圧に私の髪が跳ね上げられた。必死に避けた私の前では先ほどの少年が私を睨みつけるように立っており、彼の手には先程振り下ろされたはずの木剣が既に正眼に構えられている。
「キャー!」
会場からは悲鳴のようなものも上がっているのも聞こえた。それを耳に出来る冷静さは残っていたが、私の急所へと狙いを定めている木剣と、その持ち主の放つ殺気に、間合いを取るために剣を前へと上げるのが精一杯だった。係員に何かを説明する余裕など無い。一瞬でも目を離せば、私に待っているのは間違いなく死だ。
「どこまで人を馬鹿にしているんだ。王子の前で剣技を披露するはずが、お前みたいなやつが相手だと」
少年はゆっくりと前へ進むと、私の剣に自分の剣を合わせてこちらに身を寄せた。彼の剣がまるで舞いのように動く。だがその剣先は相変わらず、私の急所、喉元にピタリと付けられている。口だけではない。間違いなく剣技を基礎から学んでいる人の動きだ。その人に先手を取られているという時点で、私の命は彼の掌中にある。
「どんな茶番なんだ。俺みたいな没落貴族は人ではなくて、道化以下という事か。女だからって容赦はしない」
彼は小さな、だがはっきりとした声でそう私に呟いた。この人は私が相手をしている事に心の底から腹を立てている。
「私は……」
しかし彼は私の言葉など聞かずに、素早く私から離れて間合いをとった。私は言葉を飲み込んだ。間違いない。この相手は私を殺しに来ている。理由はよく分からないが、彼の私に対する憎しみはそれほど深い。そして私にその誤解を解く暇は与えられていない。たとえ私が彼の誤解を解こうとしても、それを成す前に彼の剣が私の喉を間違いなく貫く。剣を手にする彼の姿に、前世での森のマ者、黒犬の姿が重なった。
『どうすればいい?』
私は前世での短い冒険者修行を必死に思い出した。そもそも剣を交える事になった時点で間違いだと言われていた。既に私はその間違いを犯してしまっている。そして女の力では男の力にはどうあっても勝てない。だからやるなら急所を狙って、一撃で相手を仕留める事。そして相手の動きを予想しつつ、相手が予想していない動きをすること。予想できないようなら、その時点でこちらの負けだ。
彼は間違いなく私を一撃で仕留めようとするはずだ。私の方が背が低い。横からの攻撃や突きはしづらい。突進から喉や胸を狙うより、上段から頭を狙うか顔を突いてくる。力では絶対に勝てるのだから、突きなんかより上段からの攻撃の方が有効だ。私が剣を掲げたところで弾き飛ばしてそのまま打てる。そしてこちらの有効な攻撃は下方からの突きで急所を狙うしかないから、それを避けるうえでも有効な手だ。
「タァー!」
私が動かないことを恐れととらえたのか、彼が小さな掛け声と共に一気に間合いを詰めようとした。その動きは目に捉えるのが難しいぐらい速い。だがこちらの予想通りに上段からの攻撃だ。
彼の意表をついて、隙を作るとすればこれしかない。私は手元の剣を彼に向かって投げつけた。前世から投擲だけには自信がある。剣は低い位置から突進してくる彼の顔面に向かって飛んだ。しかし彼の動きは俊敏だった。こちらに向かっていたにも関わらず、私の投げた剣は顔の直前で、するどく振り下ろした剣で叩き落とされた。だが剣が振り下ろされたことで、私は彼に、こちらから仕掛けられる隙を得た。
彼が剣を振り上げる間合いを与えないために、私は剣を投げると同時に、彼に向かって突進していた。そしてドレスの裾を彼の目前へと振り上げる。破けてほとんどほつれかかっていたそれは、まるで投網のように彼の顔面を覆った。そしてそのまま彼の背後へとすり抜ける。それと同時に体ごと布をひねって簡単には外せないようにした。彼の顔は私のドレスの裾の切れ端にぴたりと全面を覆われた。
『どうする?』
ここまではこちらの思惑通りだ。だがこの程度であきらめる相手とは思えない。相手の頸動脈を完全に決められている訳でもないので、彼の動きを直ぐに止める事はできない。
『相手はどう動く?』
私の体は相手の体から少し距離があるので、肘で私を撃つことは出来ない。後ろに下がって締め付けを緩めようとする? いや、それではこちらは横に回って遠心力を使ってさらに顔と首を締め上げるだけだ。
『こちらを向く?』
いや違う。それでは首元がより締まるだけだ。相手がとる手はただ一つ、後ろ蹴りで私を弾き飛ばす!
彼は背を丸めると、勢いよく放った後ろ蹴りで私の体を捉えようとした。しかしそれは私の読み通りだ。私は相手の引っ張る力に逆らうのではなく、その力に合わせて前へ飛んだ。彼の背中の上を体ごと転がる。転がりながら相手の首にさらに裾を巻き付けて自分が転がる勢いに任せてそのまま引っ張った。
「カラン!」
相手の手から剣が落ちる音がした。見ると首に手をやっている。間違いだ。たとえ息が続かなくても、前進して、先に剣で私の体を払うべきだ。きっとマリならそうする。それに後ろ蹴りではなく、体を落として足を払いにきただろう。その時点でこちらは布から手を放してそれをを避けなければならない。
だがまだだ。まだ終わっていない。私は彼が落とした剣を拾うと、その柄をドレスの裾で覆われた彼の顔の上へ打ち下ろそうとした。
「そこまでだ!」
誰かが私の腕を捉えた。見上げると黄金色の髪に青い目をした年上の男性がこちらを見ている。そして床に倒れている少年に対して、係員達が慌ててその布を外そうとしていた。
『私は生き残れたの?』
私は自分の手を掴んでいる男性の顔を夢から覚めた想いで見つめた。そして自分の前に倒れて、介抱されている人物を見た。彼の方が明らかに腕も力も上だ。私など本来なら最初から勝負にはならない。だけど、彼は私を倒すのではなく、自分の怒りを私にぶつける事を優先した。そして明らかに私を侮っていた。
彼の剣技は素晴らしいものかもしれないが、それで生きるか死ぬかのやり取りをしたことなどは無かったのだろう。私に体術や剣、色々な事を教えてくれた人達は、躊躇なく人の心臓に剣先を叩きこめる人達だった。そもそも剣などを交える前に、相手を排除することを躊躇しない人達だ。私と彼の差は技術の差ではなく、それを生き残りの術として学んだのかどうかの差だ。
「警備部付きのアルベールだ。係員!これは一体どういうことだ。どうしてドレス姿のお嬢さんなんかがここにいる?」
私の腕を掴んでいる男性はそう告げると、腕から手を放して私の手の中にあった木剣を受け取った。そして変りに彼が着ていた黒い薄手のコートを差し出した。そうだった。裾を使ったから私の下半身は肌着姿のままだった。
「いや、参加者ですが」
係員がアルベールと名乗った男性に向かって恐る恐る答えた。
「本人に参加の意思を明確に確認したのか? 書類に署名をとったか?」
「いえ……」
男性の鋭い叱責の声に、係員がうろたえた表情を見せる。
「全くもって度し難い怠慢だ。このような規則に反することは一切許されない。参加者諸君!申し訳ないがこちらの不手際につき、本日の新人戦はこれにて一時中断とする!」
二階席から大きなざわめきが起きた。彼は立ち上がると、手にしたステッキをこの場にいる係員たちへ突き出した。
「この件に関わる職員全員に告ぐ。この時点をもって君達を停職とする。可及速やかに学園から出ていって自宅にて謹慎したまえ」
「そんな!」
「何か、君達は私の権限である停職でなく、内務省からの正式な懲戒処分をもらいたいのか?」
その言葉に係員たちは、慌てて首を横に振った。
「フレデリカ君」
「はい。私の方で君の侍従を呼ぶ手配をするので、すぐに着替え給え。それと今更ながらの話だが、大人がやることが常に正しいなんては決して思わないことだ。自分の身は自分で守るものだ」
「はい、申し訳ありません。それに皆さんに迷惑をかけてしまいました。本当に停職になるんでしょうか?」
「それについて君は一切気にする必要はない。それに君には理解できないかもしれないが、私は彼らを救うために停職にするのだよ」
「そこの者、すぐにフレデリカ嬢を奥の控室に連れて行きなさい。空きがないならそこに居る者全員を即刻叩き出せ。そしてすぐにカスティオール家の付き人を呼ぶ手配を可及速やかに行え。速やかにだ!」
そう言うと彼は私に手を差し出した。何てかっこいいおじさまなんでしょう。前世で向かいの肉屋の娘が持っていた乙女本そのものの世界です。私はその手を取って立ち上がった。今更ながら自分の手と足が震えているのに気が付く。
「死ね!」
立ち上がろうとした私の背後から声が上がった。しまった。相手の息の根が止まる前に背を向けては決していけなかったのを忘れていた。
「カン!」
背後で何かが素早く動いた音と乾いた音が響いた。
「エルヴィン、もう勝負はついたよ。君の負けだ。それにこれは試合で殺し合いじゃない」
慌てて振り返ると試合相手の彼を、同じような剣士姿の灰色の髪の少年が押さえつけていた。
「離せ、ヘクター!こんな所で終わる訳にはいかないんだ!」
「終わりだよ、エルヴィン」
そう言うとヘクターと呼ばれた彼は、暴れる少年の首筋に小さく手刀を当てた。彼の体から力が抜けて床に横たわった。
「中々いい判断だった」
男性が少年に声を掛けた。
「はい、アルベール警備付き殿。ヘクターと申します。平民の身ですが、学園への入学の許可を頂きました。彼とは道場で一緒で、普段はとても温厚な男です。できれば穏便な処罰をお願いしたいのですが」
「それは我々の専任事項であって、君が意見すべき問題ではない。だが考慮する事を約束しよう」
「ありがとうございます」
「フレデリカ様、ヘクターと申します。本日のエルヴィンの失礼については、エルヴィンに代わって私の方で謝らせていただきます。大変申し訳ございませんでした」
ヘクターさんが私の方に向かって、淑女に対する完璧な礼を返してくれた。この人もとてもきれいな、まるで女性のような顔をしている美少年だ。とても素敵な殿方二人に囲まれているかと思うと耳の後ろが熱くなる。そしていまさらながら、自分がとてつもなくはしたない格好をしている事を思い出して、別の意味で耳の後ろが燃えそうになった。
よく考えれば、新入生一同の前でドレスを破って、下半身の肌着姿をさらした挙句に、剣を振り回してしまった。カミラお母さまがいたら、この場で間違いなく勘当されている。ともかくこちらからもヘクターさんにお礼を言わないといけない。
「あ、あの、私の方こそ、助けていただいてありがとうございました」
「大したことはしていません。むしろエルヴィンを救って頂きました。普段の彼はとても温厚な人間なのですが、今日は明らかにおかしかったようです。それよりもあなたの戦い方には感服しました。まるで実戦経験者みたいですね」
あれ、まずいです。変なものが混じっているのがばれてしまいます。
「いえ、ただ無我夢中だっただけです。たまたまです。たまたま」
「たまたまですか?」
「あのですね……」
「こちらにおいでください」
アルベールさんが呼んだ女性の係員が私のところまで来て頭を下げた。
「では、ヘクター様。こちらで失礼させていただきます」
私は話がややこしくなる前に、ヘクターさんからの離脱に成功した。つっこまれると色々とぼろが出てしまう。
「こちらの控室をお使いください。御家の付き人の方がお待ちです」
「はい、ありがとうございます」
もうだいぶたつから、さすがにマリもオリヴィアさんの侍従と会って戻ってこれたのかな。私はマリに事の顛末を早速に愚痴らせてもらおうと扉を開けた。
「マリ、もう大変……」
だけどそこに居たのはマリでは無かった。とても不機嫌そうな顔をした女性が控室の椅子に座っている。そして私を見ると、立ち上がって私の方へと歩み寄って来た。黒い瞳が冷静に私を見つめる。その視線に私の背中を冷たい汗が流れて行った。さっきの少年の殺気なんて、これに比べたら小鳥ににらまれている程度のものだ。これこそが本物の殺気というべきものだ。
「ロ……ロゼッタさん」
「フレデリカさん。一体どういうことでしょうか? 私に事の経緯の説明をお願いします」
「あ……あの……あのですね」
「フレア!」
「はい、本当にごめんなさい!」
* * *
「何これ? とってもつまんない」
講堂の袖の通路で、侍従姿の女性はそう独り言を漏らすと、溜息をついた。
「せっかくチャンスを上げたというのに、女性の一人もものにできないなんて。だらしがないわね」
彼女は自分の横を担架に乗せて運ばれていく少年の姿を見送りながら肩をすくめた。
「君か、フェリエ家の侍従は?」
「はい」
「君はお嬢さんの介護の為に特例で入室できる許可を与えられているのだから、そちらのお嬢さんから目を離さないでもらいたい。我々に余計な手数をかけさせないでもらえないか?」
「大変失礼いたしました」
「では、今日はこれで終わりらしいから、宿舎への案内を頼む」
「承知いたしました」
侍従姿の女性は係員に向かって丁寧に頭を下げた。その姿を見た係員が、立ち去る後姿を見たまま凍り付いたようになっている。
「どうかしたのか?」
まるで氷像のように立つ係員を見て、別の係員が声を掛けた。
「いや、何でもない。見間違いだ」
係員は二階へ向かう階段を登りはじめた女性から視線を外すと、頭を振ると、その場を足早に去って行った。