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いたずら

「ここは何も変わっていないのね。やっていることも、中に入ってしまえばどうとでもなるのも同じ。人の寿命とか言うのが何倍にでもなったのかと勘違いするとこよ」


 入学式の日には似合わない黒いドレスを着た女が、誰に語るでもなくそう呟いた。そして少しばかりいたずらっ子のような表情を浮かべて見せる。


「ならば、この辺りで準備をしているはず。せっかく面白そうないたずらを思いついたのに、急がないとあちらが間に合わなくなる」


 女は再び独り言を口にしながら、いくつかの扉の向こうから聞こえてくるざわめきに耳を傾けた。そして木の廊下を音もたてずに進むと、廊下の隅の暗赤色のカーテンの影へと身を隠した。一瞬だけ膨らんだその布地はすぐに女が身を隠す前の状態へと戻る。


「緊張しすぎだぞ、イアン。筋書きこそ完全に決まっている訳ではないが、舞台の上で演劇をするのと何も変わらない。誰もお前にまともに当てに来るものなどは居ない」


「それでも木刀を振り回すんですよ。どうしてこんな茶番を毎年繰り返しているんです? 何の意味もないです」


「イアン、これは僕たちのご先祖様の教えによるものだから、お前がそれをどうのこうの言うのはどうかと思うけどね。これも王家の勤めの一つだよ。それにお前が新人戦に出るからこそ、今年は怪我人が出なくて済む。去年、ソフィアが自分が出ると言った時にはどうしようかと思ったよ」


「出たんですか?」


「いや、流石にそれは止めた。剣技に賭けて身を立てようという者だって居るんだ。失礼だと思ったのだが間違いだった。去年はまともな試合になったせいで重傷者が3人も出たよ」


「いきなり重症者ですか?」


「オールドストンの大バカ者のおかげで、一人はもう少しで死にかけたぐらいだ。だがそいつはそれこそが名誉だとかほざくのだから始末に負えない。500年前に生まれてくるべき奴だ。だから今年はお前が参加して、新人戦をお前の言う茶番にするのは大切な事なんだ」


「ともかく、腹の調子がいまいちですから、さっさと手洗いに行ってきます」


「さっきも手洗いに行ったばかりだろう」


 そう言うと、キースはイアンに向かって肩をすくめて見せた。


「昼前の懇親会とやらで、やたらと挨拶をして飲み物を交わしたからですよ。お腹の調子だって悪くなります」


「お前の相手はまだ決まっていないとお母さまが宣言したせいだな。せめてほぼ決まっているとか、私やソフィアのように匂わせるぐらいすればもっとましなのだけどね」


「今度は絶対にそう言いふらして周ります。ですがどうせ自分の意思とは関係ないのだから、さっさと決めてもらった方が面倒が無いのですがね」


「お父上はさておき、自分で見つけろと言うお母さまの強固な意志を尊重すべきだろう。どうでもいいから、さっさと手洗いにいってこい。もう時間がないぞ」


「はい、キース兄さん」


 その声と共に、扉から鳶色の目をした少し細身の少年が出てきて溜息をついた。その顔には少しばかりの緊張と憂いの表情がある。


「まさに茶番だ。ばかばかしい」


 イアンはそう一言呟くと、手洗いの方へと向かおうと廊下の先を回った。そしてそこで足を止めた。


「いかがされましたか?」


 イアンはそこで膝をついてうずくまっている、黒いドレスの女性に声をかけた。懇親会がすでに終わってから大分時間が経つが、具合が悪くて残って居たのだろうか?


「はい。申し訳ありません。急にお腹が痛くなりまして、化粧室を探すのに色々と迷ってしまいました」


「お手洗い、化粧室はこの先すぐです。そちらまでご案内します。それにすぐに誰か人を呼びましょう」


「いえ、化粧室まで行ければ大丈夫です。自分で馬車まで戻れます。残暑のせいでしょうか? 急に吐き気がしてしまって」


「それはいけませんね。食あたりかもしれません」


 イアンは自分の胃の不調も、兄が言うような緊張なんかではなく、今日の残暑のせいで、懇親会で出された何かが悪くなったせいかもしれないと思い始めた。


「ええ、きっとそうですね」


 女性はイアンが差し出した手に自分の手を添えると、イアンの方を見あげた。


『美しい人だ』


 それを見たイアンは最初は素直にそう思った。まるでどこかの彫像が動き出したかのような姿をしている。しかしイアンは、そこに美しさ以外の何かも感じた。妖しさだった。その美しさの中に、人を引き込むような得体が知れないものも同時に感じる。


 思わず手を引きそうになったが、苦しんでいる女性の手前、男性としてそんなことは出来ない。イアンは女性の黒い瞳から視線を外すと、廊下の先を指さした。


「すぐそこです」


「はい」


 イアンは急ぎ過ぎないようにしながら、女性用の手洗いの前まで彼女に付き添った。やはりとても具合が悪いのだろうか、自分の手に添えられた女性の手がとても冷たく感じられる。


「ありがとうございます。助かりました」


「人を呼びます。どちらの家の方でしょうか? お名前を……」


 だが女性はイアンの問に何も告げることなく、手洗いの中へと消えて行った。まさか、手洗いの中にいる女性に対して声を掛けるわけにはいかない。それに時間もない。


 イアンは女性の名前を確認するのをあきらめて、部屋の方へ戻ろうと踵をかえした。だがイアンは、急に胃と言うより、体の内側からこみ上げてくるおぞましい感触に身を震わせた。そして再び身を翻すと、男性用の手洗いの中へと駆けこんだ。


 女はゆっくりと化粧室から出てくると、ちらりと男性向けの手洗いの方を覗き込んだ。そしてそこから漏れてくる苦しげな声を聞くとほくそ笑んだ。


「さて王子様のお相手は誰かしら。情熱的な殿方だと良いのだけど」


 女はそう小さく呟くと、控室の扉が並ぶ方へと引き返して行った。


* * *


「こんな日に月のものが来るなんて!」


 イエルチェは鏡の中の自分に向かって毒づいた。本当ならまだまだ先のはずだったのに。だが足の方まで血を流しながらオリヴィア様の後ろで車椅子を押して行く訳にもいかない。それにあの、礼儀知らずの護衛役はここに入るなり具合が悪いとか適当な事を言ってどこかに行ってしまった。礼儀知らずなだけじゃなく、役立たずの男だ。


 ともかくお嬢様を一人にさせたなんて、ナタリア奥様に知れたらとんでもないことになる。


「早く戻らないと……」


 イエルチェは急いで手を洗うと、自分の姿に問題がないか確認しようと、再び鏡をのぞき込んだ。


「ひっ!」


 だがイエルチェは鏡をのぞき込んだところで、短い悲鳴を上げてしまった。少しばかり古くなって曇りがある鏡の向こう側に、人が映っていたからだった。だがよく見るとそこに映っているのは、女性のイエルチェから見ても、美しいとしか言えない、自分と年がそう離れていなさそうな女性だった。


 何か用事があって、午前中の懇親会が終わった後も残っていたのだろうか? だとすればどこか、それなりの家の女性だ。それに本来なら、この手洗いは自分の様な者が使っていい場所ではない。イエルチェは営業向けの顔を作ると、背後にいる女性に向かって謝りの言葉を述べる為に振り返ろうとした。


「申し訳……」


 だがイエルチェが振り向くより先に、女性が背後からイエルチェの体をそのまま抱きしめた。イエルチェの背中に女性の胸のふくらみがあたる。


「なっ、何を……」


 だが何かを言う前に、女性の手がイエルチェの首筋を撫でると、頬にそっと添えられた。その手はまるで冬に外から帰って来た時の手の様に冷たく感じられる。鏡の中ではその女性が微笑を浮かべながら、鏡に映るイエルチェの顔を黒い瞳でじっと見ていた。


「怖がらないで、貴方が夢の中でいつも想像している貴方にしてあげるだけよ」


「何を……」


 貴族の家は何でもありだ。この人は女性が好きな人なのだろうか? イエルチェは鏡の中のその謎の微笑を見ながら、背筋が凍る思いがした。


「恥ずかしがらないでいいわよ。殿方を寝台の上で手玉に取るのを夜な夜な想像していたでしょう?」


「そんなはしたない事などしません!」


「そうよね。はしたないなんて事はないわ。普通の欲求よ。だけど何でそれを隠すのかしら。人って本当に不思議ね」


 イエルチェは女性の手を振りほどこうとした。だがどうしたことか鏡の中の存在に見入ったまま、自分の体が全く動かない。


『いったいどうして!?』


 イエルチェは心の中で叫んだ。そして鏡の中で自分を見つめる目が何かおかしい事に気が付いた。瞳孔が、瞳孔が無い……。


『まるで闇……』


「並行思考の残留体とはいえ、やっぱり入れ物がないとね。フフフ、どうやら向こうもうまく会えたみたい」


 そばかすが目立つ明るい茶色の髪を持つ女性が、妖しい笑みを浮かべる。


「どうでもいいけど、この口紅の色だけはいただけないわね。口紅の色は血よりも赤くないといけない」


 女性は鏡に向かってそう告げると、血よりも赤く見える舌で唇を小さく舐めた。少し曇った鏡には動脈から流れ出た鮮血より赤く染まった唇が映っている。それを満足そうに眺めると、茶色の髪を持つ女性は()()で鏡の前を後にした。

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