自立
「本当に、本当に良かった。オリヴィア、きっと私達の願いを創造神様が聞き届けてくれたのね」
母はもう何度目になるか分からない同じ台詞を告げると、私の手を握った。その目には涙が光っている。あの晩の女性との会話は私の夢ではなかったらしい。ほとんど死を待つだけだった私の体は、その日を境に全く別のものに変わった。食欲が戻り、口にしたものが失われた私の体の一部へと変わっていくのが実感できるぐらいだった。
次ぎの日には指先が、そしてその次の日には手が、腕が動かせるようになり、そして誰かに手伝ってもらえば、ベッドから上半身を起こせるようにすらなった。
私は自分の願いが、自分自身で何かを成すことが出来る日がすぐにも近づいていることを確信している。あの人は私に、他の女の子と同じように陽の光の下で過ごせると約束してくれたのだ。
だが変わったのは体だけではない。私の中に今まで無かった何かが存在して居るのが分かった。それははっきりとは感じられないが、私の考えに今までは無かった色々な思い付き、いや示唆とでも言うべきものを与えてくれている。
私はずっと寝台の上に横たわって、他の人の世話だけを頼りに生きてきたせいか、その表情や仕草からその人がどのような事を考えているのかについて敏感だった。それが今ではより研ぎ澄まされているような気がする。
私に問いかけている母は、私が生き永らえたことを、そして日々体が動くようになっていることを、心の底から自分の願いが、いや執念がもたらせたものだと信じている。「私達」という言葉とは裏腹に、そこには私の努力や願いなどは微塵もない。そして私の回復を否定してきたすべての者達に対して、勝ち誇っているのが分かった。
「お母様、お願いしていた件はどうでしょうか?」
「お願い? 学園の事ですか?」
「はい」
「でもオリヴィア、まだ体が完全に回復したわけではないですし、もう少し様子を見てからの方がよくはないかしら?」
「私はもう大丈夫です。皆さんと同じ事が出来るようになるには時間がかかると思いますが、私はお披露目にも出る事ができませんでしたので、学園には是非とも皆さんと一緒に入学したいのです」
「そうですね。その為に準備をしてきたのですものね」
母は私に向かって頷いて見せた。母としては自分が母親としていかに献身的であったかを、この家の中だけでなく、世間に対して誇れるのだ。嫌と言う訳がない。
「ですが、衣装や道具については全て整っていますが、貴方の付き人や護衛役は厳選する必要があります。特に護衛役については、絶対に有能な人が必要です。残念ながらこの家は武門の誉れが高いという家ではありませんので、家中にそれを求めるのは難しいでしょう。マティアスさんも学園にあなたについてこちらの希望を伝える事は出来ると思いますが、この件については役には立たないですし……」
母はそう言うと、何かを考えるように首を傾げて見せた。父は有能な官吏だったのをこの家の縁者の家で養子にして、この家に婿として入って来た。だいぶ前に亡くなった私の祖父は母の事を溺愛していて、他家の子弟ではなく、母が全てを決められるように、他のどの家とも関係がない者を婿として選んだのだ。そのせいか、母は父の事をまるで使用人の様に「さん」付けで呼ぶ。実際ほとんど同じように思っている。
「この件については時間もありませんので、信頼できるどなたかに相談することにしましょう」
「はい、お母さま。ですが一つお願いがあります」
「何でしょう?」
「学園でお世話をお願いする方については、私の方で一度お会いしてから決めたいのです」
母が私を不思議そうな顔をして見た。
「私はこの部屋からすらほとんど出たことがありません。他の方のお世話にならないといけない身としては、私が信頼できると思える方でないと、少しばかり怖い気が致します。出来れば他の方がいないところで、私の方でいくつか質問させてから決めさせて頂けませんでしょうか?」
「そうですね。あなたが気に入らない人を選ぶのは問題ですね。貴方が良いと思える方を採用することに致しましょう」
「はい、お母さま。私の我儘を聞いていただいてありがとうございます」
「オリヴィア、何を言うのですか? あなたは今迄とても我慢してきたのです。これからは貴方がしたいと思う事をしたい様にするべきです。それにこの程度のものは我儘のうちにも入りません」
「はい、お母さま」
* * *
「こちらが娘のオリヴィアです」
「はい、ナタリア様」
「オリヴィアさん、こちらは『トカス』さんです。ウォーリス家の大叔父様にご紹介していただいた方です」
そう言うと母は、侍従が開けた扉から入って来た男性を指し示した。背はさほど高くない。しかも少し細身で、黒い癖のある巻き毛が目立つ男性だった。これまで母が連れて来た筋骨隆々のいかにも騎士、あるいは剣士といった方からは程遠く見える。だけどその黒い目には意志の強さとでも言うべき何かが宿っているのが分かった。
「初めまして、オリヴィア様。ウォーリス家からご紹介いただきました、トカスと申します」
態度も決して無礼な訳ではないが、とても丁寧な感じもしない。それに姓を名乗らないという事は平民の方だ。きっと親戚筋、それも主筋にあたるウォーリス侯爵家からの紹介でなければ、母は私に合わせる事すらしなかったかもしれない。
「はい、オリヴィア・フェリエと申します」
「では、オリヴィアの方からいくつか質問させていただくと思いますので、お答えいただけませんでしょうか? その間、私は席を外させていただきます。終わりましたら、侍従に声をかけてください」
「はい、ナタリア様。承知いたしました」
母は少し心配そうな顔をしたが、私の顔を見ると約束通り扉を閉めて外へと出て行った。部屋の中には私と黒い巻き毛の男性だけがいる。
「オリヴィアさんだっけ?」
母が居なくなるや、男性が少しぞんざいな言葉で私に問い掛けて来た。
「はい」
「あんたとはどこかで会ったことがあったか? それもそんなに前じゃない」
男性が手近にあった椅子を引くと、そこに腰を掛けて私の方へ問いかけて来た。問うのは私の方なのに……。
「いえ、お会いしたことはないと思います。私はこの家から出たこともありませんし、この部屋から出られるようになったのもごく最近の事なのです」
「そうか」
トカスと名乗った男性が少しばかり首をひねって見せた。父以外の男性なんかに会う訳がない。だけど何だろう。私の心の奥底の何かが、私がこの人に会ったことがあると言っているような気がする。「お気に入り?」一体何の事? 私は心の奥の何かに一度蓋をすると、既に何名かの方にお会いした時と同じお願いをすることにした。
「庭で散歩をしながらお話ししたいと思いますので、すいませんが、寝台の横の車いすに私の身を運んでいただけませんでしょうか?」
今日も天気がいい。前の人達にも庭で車いすを押してもらいながら話をさせてもらった。人と言うのは不思議なものだ。私から顔が見えていない。視線を合わせることがないと思うと、その心を無防備にさらけ出す。私はその時の声から色々な事を感じる事が出来た。後ろを押しながら剣の修行で苦労したことや、初陣の話などを話してくれた人もいた。
だけどその話のほとんどはおそらく当人の話ではない。その身近にいた人の話や、聞いただけのものを自分の話として話していた。もしかしたら言っている当人もいつの間にか自分の事と思っているのかもしれない。そのような自分の事さえ曖昧な人に自分の身を預ける訳にはいかない。この人は一体何を私に語って、何を教えてくれるのだろうか?
「自分で乗ればいいじゃないか」
「え?」
「見たところ、あんたには腕も足もついている。それに動く」
「長らく病に伏していまして、まだ自由には動かすことが出来ないのです」
「本当にそうなのか? その病とやらは良くなったと聞いたけどな。俺はあんたの護衛として呼ばれている。あんたの小間使いじゃない。手伝いが欲しかったらその呼び鈴を鳴らせ。きっと侍従が何人もあんたの手伝いをしに飛んできてくれるんだろ」
この人は本気で言っているのだろうか? この家に雇われる気が本当にあるの? 私はその冷たく私を見る黒い目と、寝台の横にある車いすを交互に見た。
「それに質問とやらがもう終わりなら、俺は部屋から出て、あんたの母親を呼びに行って帰るだけだ」
そう言うと、男性は巻き毛を手でかいて、椅子から腰を浮かそうとした。
「待ってください」
「何だ? まだ何か言う事でもあるのか? 泣き言を言うのなら母親にでも言え」
「自分で車いすに乗ります。ですから少し時間をください」
男は肩を小さくすくめると足を組んで、椅子の背もたれに気だるそうに身を預けた。
「好きにしろ」
私は手で寝台の上の掛布を剥ぐと体を支えて身をよじろうとした。だが私の腕は体を支え切れずに寝台の上にうつぶせになる。それでも寝台の敷布を手繰り寄せながら自分の上半身を少しずつ、少しずつ寝台の端の方へと寄せていった。そして足の膝を曲げながら下半身も寝台の横へとにじり寄らせた。
部屋着がはだけて骨だけの様な足が露わになる。だけどそんなことを気にしている余裕などはない。全身の力をこめて腕を、足を、体の全てを動かす。私の額から汗が一粒、一粒と流れでて、私の顔を落ちて行くのが分かった。それだけではない。息も上がる。私は大きく息を吸って吐くと、ちらりと男の方をみた。だけど男の態度は全く変わらない。ただ冷たい醒めた目でこちらを見ているだけだ。
『舐めないで』
私の心の中に湧き上がって来た、男に対する怒りが私に新たな力をくれた。再び腕と足を動かすと、私の手は車いすの押し手の骨組みに迄たどり着いた。車いすは私の体への負担を小さくするために、座面はこの寝台の高さに合わせてある。そして片側の手すりは邪魔にならないように上に持ち上げられていた。そこに腰を乗せられれば、体を寄せられれば何とかなる。
私は押し手を掴んで上体を車いすの方までにじりよせると、足を動かして下半身を車いすの方まで少しずつ動かしていった。そして腕を伸ばして座面の方へ上体を乗せる。後は足と腰を何とかできれば……。
その時だった。私の上体を支えていた車いすの車止めが床の上を滑った。私の体はそれに引きずられて、寝台の下へと落ちそうになる。このままだと体が床の上に直接に落ちてしまう。私の骨だけの体はきっとその衝撃に耐えられない。もしかしたら骨が折れてしまうかもしれない。私は必死に足を動かして車いす、いや車輪付きの簡易寝台と言うべきものへ身を転がした。
「はあ、はあ……」
息がまるで嵐が吹き荒れているかのように自分の耳に響いている。私の体は辛うじて車いすの上にあった。だが足が、膝が自分の体重を支えきれずにずれ落ちていきそうになる。もう男の事などどうでもいい。ここまで来たのだ、あと少し自分の体を持ちあげて、身をよじることができれば、私は自分の体をこの車いすの上に収める事が出来る。
必死に伸ばそうとしている足が震えているのが分かる。だが私の体は少しずつ車いすの座席の上へと上がっていった。あと少し、あと少し、肘を座面について、片手で座面の向こうにある枠組みを掴み、最後のひと踏ん張りで私は体を座面の上へと上げた。後は身を、身をよじれば、お尻を座面に収めて、上体を背もたれに預ければいい。
にじみ出た汗で手が滑りそうになるが、革張りの座面は滑りやすく、私の骨ばった身でも何とかその上を滑らすことが出来た。最後に向こう側の手すりに腕を、上半身を預けて体をよじった。そして私の体は車いすの上へと収まっていた。
「ぜぇ、ぜぇ……」
息が、息が苦しい。肺が空気を求めている。私の口が息をどれだけ必死に吸っても肺を満たすことが出来ずにいる。だけど……私は口を開かないと、告げないといけない。
「お、お待たせ……し、しました」
滲む汗が目に染みて痛い。少しぼやける視界の向こうで、男性は足を組んだ姿勢のまま、相変わらず冷たい視線でこちらを見ていた。
「正直な所、護衛なんてものは俺の柄ではない。だが死んでいく奴は山ほど見て来た。あんたが誰を護衛役に選ぶのか分からないが、護衛なんて奴を信用するな、それに頼るな。助かりたかったら助かるために頭を使え、そして最後まで自分の手を、足を動かせ。それが出来ないものが生き残れなどはしない」
「は、はい」
「お嬢さん。あんたが頑張り屋と言う事は認めてやる。せっかく病なんてものに勝てたんだ。その辺のガキなんかにいいようにされるなよ。じゃあな」
男性は軽く手を振って椅子から立ち上がろうとした。
「ま、待ってください!」
「こっちだって暇じゃない。義理で顔を出してやっただけでもありがたく思え」
「あ、貴方に、いえ、トカス様に私の護衛役をお願いしたいのです。ぜひ、どうかよろしくお願いします」
私は、私は生まれて初めて自分で自分の事を出来たのだ。この人だ。私に必要なのはこの人なんだ。きっと、いや絶対にこの人が居なかったら、私はそれを一生為せなかったかもしれない。
「そうか。分かった」
男性は、いやトカスさんはそう私に告げると、片手で頭をかきながら天井を見上げて溜息をついた。その姿に私の中にある思いが浮かんだ。そうか、この人は私に似ているんだ。とても孤独な人なんだ。
私の心の奥底の何かもそれを肯定していた。