初恋
「はじめまして、イサベル様。アルベールと申します」
「はい、アルベール様、こちらこそお会いできて光栄です」
イサベルは祖父が連れて来た、自分がこれからお世話になると紹介された男性に向かって、スカートのすそを小さく上げた。そして一輪の雛菊の様な可憐な笑顔を浮かべて見せる。
イサベルは祖父が自分に客の紹介をすること自体がとても珍しい事だと思っていた。しかも男性だ。そのはちみつ色の髪の毛に澄んだ青空のような目を持つ男性は、少し彫りが深い顔に朗らかな微笑を浮かべてこちらを見ている。
『なんてかっこいい人なんだろう』
イサベルは思わず男性の笑顔から目をそらしたくなった。自分とそう年が変わらない侍従さんからこっそりと借りた絵物語に出てくる王子様そっくりだ。
その王子様は身分を隠して貴族の末子の女性と恋に落ちる。自分も末子だ。もしかしたら自分は絵物語そのままの場面に居るのではないか。もしかしたら、自分はこの人と恋に落ちるとか……。
イサベルの中に色々な妄想が浮かび上がる。目の前の男性はそれをイサベルの恥じらいととらえたのか、少し首を傾げてこちらを見ていた。イサベルは男性の視線に耳の後ろが熱くなるのを感じた。
『いけない。もっとちゃんとしないと』
アルベールを紹介してくれた祖父は急用でもできたのか、ハリスンが呼びに来るとそのままこの部屋を離れてしまっている。ある意味ではまたとない、人生初めての、もしかしたら最後の機会かもしれない。イサベルは心の中で自分に気合を掛けると、勇気を振り絞ってアルベールに向かって口を開いた。
「アルベール様は、王宮魔法庁の方なんでしょうか?」
イサベルはそう言うと、アルベールの上着の左の肩から右のポケット迄伸びている銀の鎖を指さした。
「あ、これですか。はい。というか前職の制服ですね。本当は返さないといけないのですが、まだ新しい職場にいけていないので、本日はこれでお伺いさせていただきました」
男性は年端も行かない自分に気さくに答えてくれる。そう思うとイサベルの心は弾んだ。
「と言う事は、アルベール様は、魔法職なのでしょうか?」
だとすればおじいさまと同じだ。それでおじいさまはアルベール様を紹介してくれたのだろうか?
「はい。以前の職場では執行官をさせて頂いておりました」
侍従の子が貸してくれた本には素敵な魔法職の男性が、街の薄幸の少女を助ける話もあった。もしかしたらその話はアルベール様を元に書いたお話なんではないだろうか?
イサベルの頭の中では既に自分がそのお話の中の幸薄な少女になっていた。日々の食事に困っている訳ではないが、この家の中に閉じこもっている事を考えれば、自分にも十分にその主人公になれる資格があるような気がする。
「では、アルベール様はおじいさまと同じなのですね。やはり執行官と言う職はよく魔法を使われたりするのでしょうか?」
「そうですね。魔法と言うよりは魔法職の取り締まりと、その後始末の相手をするという方が正しいかもしれません」
イサベルは会話を続ける為に、必死に知恵に知恵を絞った。この方と二人での沈黙の時間なんて言うのは自分には到底耐えられそうにない。
「もしかしておじい様が魔法を使ったりしたら、アルベール様に捕まってしまうのでしょうか?」
アルベールは少し驚いた顔をすると、イサベルに向かって手を軽く横に振って見せた。イサベルから見るとその仕草の一つ、一つがとても様になっている。
「まさか、天と地がひっくり返ってもそんなことはありません。こちらのコーンウェル家は四侯爵家の一つで特権がありますから、公共の福祉に反しない限り、私的な魔法の発動は許されております」
「それは良かったです。あれ、三侯爵家では無かったでしょうか?」
「いえ、もしかしたらお若い方から三侯爵家と聞いたのかもしれませんが、正しくは四侯爵家です」
「オールドストン、ウォーリス……」
イサベルは家名を呼びながら、指を折って数えてみたが、そこで止まってしまった。
「イサベル様。カスティオールです。そしてこのコーンウェル家や他の侯爵家と同じく、偉大な魔法職の血を引く家です」
「そうなんですね。でもおじいさまはさておき、私は何もできませんので、その偉大な魔法職の末裔としてはとても恥ずかしく思います」
「そうでしょうか? 私から見れば、イサベル様は十分にその血を引いていると思います。何でもこの国の礎を作った5人の英雄、その一人のコーンウェル候は、大変に美しい女性の方だったそうですから」
アルベールの言葉に、イサベルの胸はもう張り裂けそうだった。そして血が頭にのぼってボーとなりそうになる。いけない。このままだと本当に倒れてしまう。何か、何か会話を続けないと……。
「後始末と言うのは何でしょうか? 良く分からないのですが?」
「それは貴方のおじいさまの様な腕が確かな方ではなく、未熟な者や過去の経緯によって、魔法を使ってそのまま穴が開きっぱなしになったものの監視や、それを塞ぐことです。前の職場での仕事はどちらかと言うとそれが主な仕事でしたね」
「その魔法を使った後の穴と言うのがそのままになっていると、どうなってしまうのでしょうか?」
「そうですね。小さい物ならあまり気にする必要はないかもしれませんが、大きな物だとそこからあまり会いたくない者達が迷い出てきてしまいます」
「もしかして、お化け……でしょうか?」
「まあ、似たようなものですかね。個人的にはお化けの方が実害がない分、心安らかという感じですが……」
イサベルは前に見た夢を思い出して身を固くした。あれが夢の中だけではなく、本当にはい出してくるのだろうか? イサベルは、テーブルの向こうに座るアルベールの方へ体を寄せると口を開いた。
「アルベール様、祖父が私が学園に行くときに、アルベール様にお手伝いをしていただけると聞きましたが、本当でしょうか?」
「はい。私は公僕ですから、本当は特定の家や個人のために何かをするというのは倫理に反することなのですが、イサベル様についてはその例外です。私が貴方をお守りします」
『今の私は本当に絵物語の中にいる』
イサベルの中で何かが弾けた。この方が私を守ってくれる。あの怖い夢も、それによる発作も全てが過去のものの様に思えた。この方が守ってくれるのなら何も怖いものなどない。
「アルベール様、私は年下の未熟者ですので、どうかイサベルとだけ呼んでいただけませんでしょうか?それにこれは、出来ればですが……」
「何でしょうか?」
「他の者がいないときには、私の事を『ベル』と呼んでいただけませんでしょうか?」
「分かりました、ベル。これからもよろしくお願いします。私のことはアルベールとだけ、それに、もしよかったら、アルと呼んでください。私の両親の私に対する呼び方です」
「はい!アルさん。不束者ですが、こちらこそよろしくお願い致します」
絶対に今晩は眠れそうにない。眠れない。いや出来れば寝たい。寝てこの方と絵物語の中の主人公になった夢を見たい。イサベルは自分の心の中で抑えきれない何かが湧き上がっているのを感じていた。
だが彼女の世間を知らない幼い心は、それが初恋と呼ぶべきものだと、そしてそれが一目惚れだという事にはまだ気が付いていなかった。そしてそれが自分の運命を大きく動かしつつあることも……。
* * *
「ダリア執行官長、面談の希望が来ていますが?」
ダリアは署名していた書類から目を上げると、執務室の扉を開けてこちらに声を掛けて来た秘書官を見た。
「予定は入っていないはずよね。誰かしら?」
「はい。第一部のエドガー執行官補が、こちらに来て面談をお願いしたいとの事です」
「分かりました。エドガー執行官補をこちらまで通してください」
ダリアはそう秘書官に告げると、署名中だった書類を脇にずらして、肘を机の上について両手を顔の前で組んだ。
「トントン」
執務机の扉が叩かれる。
「入りなさい」
ダリアの声に扉が開くと、若い男性が入室して頭を下げた。
「失礼します。ダリア執行官長殿。お忙しいところお時間を頂きましてありがとうございます」
「短時間に限り面談を許可します。今後は決められた手順通り、直属の部長を通じて申請をしてからにしなさい」
「はい、大変失礼いたしました。またご配慮いただきましてありがとうございます」
「それで、要件は? あなたの人事に関する事?」
「いえ、違います。アルベール主任執行官についてお聞きしたいことがありまして、お伺いさせていただきました」
ダリアはこの若い執行官補に対して溜息をついた。分かっていても確認しないと気がすまないという事らしい。
「アルベール元主任執行官に関する何が聞きたいのかしら?」
「失礼を承知で率直に言わせていただきます。今回の異動の件です。アルベール主任執行官が学園に異動とは、一体どういうことでしょうか? それに第一部には主任の代わりが出来るような人は誰もいないと思います」
「エドガー執行官補」
「はい」
「これは非公式の話です」
「はい。ダリア執行官長殿。承知いたしました」
「貴方の耳に入っている噂の通りよ」
「そ、そんな理由でアルベールさんが飛ばされるんですか!?」
「そんな理由なんてものではありません。職務規定違反。正当な理由です」
「でもそれなら……」
「どうしてアルベール主任執行官だけが左遷になって、私がここに座っていられるかについて納得できないと言いたいのかしら?」
「いえ……そう言う訳では」
「単純な話よ。私には伝手があって、彼にはない。私は女で彼は男。それだけの話よ」
「そんな」
「エドガー執行官補。貴方がどのようなつもりでこの王宮魔法庁に入って来たかは知りませんが、ここも他と同じく官僚機構の一つにすぎません。ましてや神話の中の英雄が、物語に語られる魔法職が集うとこではありません。もしあなたが今回の異動に納得できないのであれば、アルベール元主任執行官のように力があってもそれから背を向けるのではなく、変えられる立場になって、自分の手でそれを変えなさい」
ダリアの言葉にエドガーは何も返答することなく立ち尽くしている。ダリアはその姿に昔のアルベールの姿を思い出した。
「話は以上です」
「はい。ダリア執行官長殿。お時間を頂きましてありがとうございました」
エドガーはそう告げると、敬礼をして扉の向こうへと去って行った。ダリアは両手を前に組んだまま小さくため息をついた。
「アルベール」
ダリアの口からその名前が漏れた。アルベール、私の初恋の人。そしてやっとその腕に抱かれたと思ったのに、再びまた遠くへ行ってしまった人。私の心を占めているのは彼だけだ。だけどこの体は彼以外の者達の手にも抱かれている。だからこそ没落貴族の子弟に過ぎない自分がこの地位を得たのだ。
ダリアは固く握った自分の手の上に、温かい何かが触れたのが分かった。自分の涙だ。納得しているつもりでも、自分の心の奥底にある後悔という何かが、自分を決して許そうとはしていない。
書類が涙にぬれてしまっては、最初から書き直しになってしまう。ダリアは執務室の片隅の戸棚に向かうと、それを開けて中の化粧台を覗き込んだ。鏡に映った顔を見ながら、ダリアは涙をぬぐうと、目元の線を書き直し始めた。