異動
「どうぞお入りください。ハンネス内務大臣補佐官がお待ちです」
セルヒオはクラウディアからそう告げられると、固唾を飲んで開けられた扉の先へと進んだ。背後で扉が閉まる気配がする。
「セルヒオ二等事務官です」
セルヒオはそう告げて頭を下げると、部屋の奥へと視線を向けた。そこでは執務机の向こうに座る中肉中背の男性が一人、窓の外をぼんやりと眺めている。その男性は椅子を回すとセルヒオの方を振り向いた。
「忙しいところ邪魔してすまないね。内務大臣補佐官を拝命しているハンネスだ」
男性はそう穏やかにセルヒオに告げた。入るなり怒鳴りつけるまではいかなくても、叱責の言葉が飛んでくるであろうと思っていたセルヒオは少し驚いた。だがこのような偉い人は自分のような小者を怒鳴りつけたりなどしないに違いない。事の経緯を確認した上で、あっさりと首を告げるだけなのかもしれない。きっとそうだ。セルヒオはそう結論付けると、実家の母親にいったいどうやって説明すればいいのか考え始めた。
「立ち話もなんだから、そちらの椅子の方で話をしよう」
だがセルヒオの予想に反して、ハンネスは穏やかな顔をしながら横にある応接用の椅子を指さした。そして机の上にあるベルを小さく鳴らす。
「はい、何か御用でしょうか?」
そのベルの音にクラウディアが扉を開けて顔を出した。
「クラウディア君、飲み物の用意を頼む。私はそうだな、少しぬるめの紅茶をお願いする。セルヒオ君、君はどうする?」
「はっ、はい。私も紅茶でお願いします」
「かしこまりました」
クラウディアがそう一言告げて扉を閉めた。セルヒオはこれからが本番だと思いながら、警備庁の捜査官に尋問される盗人にでもなったつもりで、長椅子に腰をかけた。
「セルヒオ君、私のところに少し変わった書類が届いている。これに署名をしたのは君で間違いないね」
ハンネスが書類入れの中から一枚の書類を取り出すと、セルヒオの前に差し出した。セルヒオはその書類を暗澹たる思いで眺めた。
「はい、間違いありません」
「すまないが、これを私の方で差し替えさせてもらうので、君の方でも貴族部として署名をお願いしたい」
「差し替えですか?」
セルヒオは間の抜けた声で発言してしまってから、目の前のいかにも有能そうな大臣補佐官が何をしようとしているのか理解した。
『理由をつけて拒絶の書類に差し替えるつもりなんだ』
セルヒオは少しだけ、自分の未来に光明が見えたような気がした。
「大臣補佐官殿、了解いたしました」
ハンネスが書類入れの中から別の書類を取り出して机の上においた。セルヒオは事務服の内ポケットからペンを取り出して、さっさと署名しようとして驚いた。
「め、命令書ですか!?」
セルヒオの口から思わず言葉が漏れた。だがハンネスはセルヒオに向かって小さく頷いて見せただけだった。
「そうだ。王立とついていても学園は内務省の管轄だからね。意見書というのはおかしな話だ。筋を考えれば命令書であるべきだよ。この覚書は侯爵家に対して学園、内務省、王家がすべて署名したものだから、これを履行しないことは明らかに学園側の不手際だ」
ハンネスの言葉にセルヒオは思わず息を飲んだ。この人は一官僚にすぎないのに、恐れることなく正論を吐けるなんて。自分が幼い時に夢想した官僚のあるべき姿そのものだ。セルヒオはハンネスが大臣補佐官という実質的な官僚機構の頂点に存在することに驚いた。
「何か文面に問題でもあるかね?」
セルヒオは慌てて書類に視線を戻すと、内容を読んで自分が署名すべき個所を探した。そして急いで二か所の差し替えに関する省内の連絡票のところに、自分の署名を書き込んだ。だが不覚にも手が震えて、かなりみっともない字体になっている。
「二か所に署名させていただきました。ではこちらで失礼させていただきます」
セルヒオはペンをしまって、ハンネスに礼をすると立ち上がろうとした。
「セルヒオ君、ちょっと待ち給え。君にはもう少し署名してもらうものがあるのだよ。それに紅茶もまだ届いていない。クラウディア君が入れてくれるお茶は、味わってみる価値が十分にあるよ」
ハンネスはそう言うと、立ち上がろうとしたセルヒオを制した。その言葉にセルヒオは冷水を浴びた気分になる。ハンネスの態度が穏やかだったので、自分の立場を忘れかけていた。
『やっぱり、これで終わりという訳ではないんだな。僕には免職の書類が待っているんだな』
そう思うと、セルヒオは内ポケットにしまったペンに手を伸ばして、震える指先でそれをつかんだ。
「お待たせしました」
セルヒオの背後から声がかかり、クラウディアが盆の上に二組のティーカップと二つのティーポットをもって現れた。そして丁寧に机の上にそれらを置くと、ハンネスの前に置かれたティーカップに紅茶を注ぐ。そしてセルヒオの前に置かれたティーポットに手を伸ばすと、座っているセルヒオのカップに紅茶を注いだ。
セルヒオの目の前に彼女の白い首筋と、上着の胸元の隙間から彼女の白いブラウスが見える。そしてそれに包まれている胸のふくらみまでが如実に分かり、こんな状況にも関わらず、セルヒオは耳の後ろが熱くなるのを感じた。
「クラウディア君、例の書類はもう戻ってきているかね?」
「はい。関係部署全ての承諾の署名が入ったものが戻ってきています」
そう言うと、盆を脇に抱えたクラウディアが書類入れをハンネスに差し出した。
「セルヒオ君、紅茶を飲みながらでいいので、こちらの書類も確認の上、署名をしてもらえないだろうか」
セルヒオはハンネスに向かってぎこちなく頷いた。内務省での最後の日に、こんな美人が入れてくれた紅茶が飲めたのがせめてもの救いだ。
「い、異動ですか?」
だがハンネスから書類を受け取ったセルヒオは、またも口から言葉が漏れるのを止めることができなかった。手にしたペンが滑り落ちそうになる。
「そうだ。君には内務省大臣秘書課に異動してもらう。クラウディア君と同じ部署だ。だがこれは私の人事権の都合による一時的なもので、君にはすぐにある担当に移ってもらうつもりだ」
「私は何をすることになるのでしょうか?」
「それを私から君に告げる前に一つ見てもらいたいものがある」
そう告げると、ハンネスは書類入れの中から便箋のようなものを一通取り出して、セルヒオに向かって差し出した。
「これは非公式なものだが、君に渡してほしいとどこかのお使いがここまでわざわざ持ってきてくれたものだ」
セルヒオはハンネスからその便箋を受け取るとそれを眺めた。上品なものではあるが、特に何も変哲なところはない。便箋自体に署名もない。ただそれには薔薇の花の紋章らしい、小さな薄い赤の透かしの様なものが入っていた。
「君さえよければ、ここで読んでもらえないだろうか?」
「はい」
セルヒオは狐につままれた思いでその便箋を開けて中身を見た。「セルヒオ様」という出だしに続いて、女性の手によるものらしい文章が続いている。そこには、感謝の言葉と共に、当家の者が自分の私事で迷惑をかけた事に関する詫びと、セルヒオの立場を慮る内容が続いていた。そして最後に、「フレデリカ・カスティオール」の署名があった。
セルヒオはなぜか、この文面の中に本庁勤務が決まったことを知らせた際の母からの返信と同じもの、「まごころ」を感じた。
「私も同じ差出人からの物らしい便箋を受け取っていてね。持ってきた人間が内務省の誰か偉い人に渡してくださいとしか言わなかったらしい。侯爵家の紋章入りの便箋なので無視するわけにもいかないという事で、なぜか私のところに回って来た。読むかね?」
そう言うと男は開封済みのもう一通の便箋をセルヒオに渡した。セルヒオが中を読むと、「内務省様」という出だしに続いて、今回の件で迷惑をかけたことのお詫びと、この件について担当者が不利益を被ることが無いかについて心配している事。もしこの件で担当者が何らかの不利益を被るようであれば、今回の申請そのものを取り消すつもりであることが綴られていた。
そして最後にはやはり、「フレデリカ・カスティオール」との署名がある。官僚としてのセルヒオからみれば、何かの申請や依頼をするものとしては要点を得ず、文章も稚拙ではあったが、そこには「おもいやり」とでも言うべきものを感じさせる文面だった。
「こ、これは?」
「非公式な要請書とでも呼ぶべきかな? しかし、場合によっては公式な要請書よりも意味を持つことがある。これはその類だね。セルヒオ君、君はこの差出人について何か知っているかな?」
セルヒオはハンネスの問いかけに首を横に振った。
「フレデリカ・カスティオール。カスティオール侯爵家の長女だ。確か14歳だから、学園の宿舎に関する当人だね。この文面を読む限り、14歳の貴族のお嬢さんの考えとは思えないな。確かに文章自体は14歳の文章だが、やっている事は、よほどの善良さを兼ね備えて生まれて来たのか、あるいは右手で握手をしながら、左手で殴り合いをする貴族としての才能に満ち溢れているのか。カスティオールの血を引くのだから、おそらくは前者なのだろうな」
セルヒオはハンネスの言葉に何も答える事が出来なかった。
『自分とは大違いだ』
セルヒオは心の中で思った。この文章を読みながらも、それにはどの様な裏があるかを考えるような者だからこそ、この部屋の主になれると言うことなのだろう。
「結局、私は何をすればよろしいのでしょうか?」
「連絡官だ。具体的にはカスティオール侯爵家の内務省担当連絡官を予定している。四侯爵家それぞれに置かれるはずなのだが、カスティオール家の担当だけは長く空席でね。法律上置くことが決まっているものだから、それを置かないというのは我々内務省の怠慢だ。君は今回の件であの家に縁があったので、うってつけだと思ってね」
セルヒオはあまりの事にただ頷くことしかできなかった。
「そういうことで、クラウディア君。セルヒオ君は当面の間、君の同僚だ。先輩として課の案内を頼む」
「はい、補佐官殿。了解しました」
クラウディアがセルヒオに向かって右手を差し出した。
「セルヒオさん。これからは同僚として、どうかよろしくお願い致します」
セルヒオはクラウディアから再び差し出された右手を慌てて握りしめた。
* * *
「マリ、お手紙ってちゃんと届いたかな?」
「はい、トマスさんにお願いして、先ほど本人に差し出した旨の確認を取りました」
「えっ、トマスさんが行ってくれたんですか? でも内務省ですよ。すごく嫌がったんじゃないんですか?」
「そんなことは全くありません。喜んで行ってくれました」
「そうかな? 今度ちゃんとお礼を言わないと」
「ご心配は無用です。行かなかったら餌です」
「餌?」
「何でもありません」
「それにしても、モニカさんもすごい人だよね」
「モニカさんとしては証文に書いてあることが履行されないことは間違いであり、正当な要求だとおっしゃっていましたが?」
「世の中には建前と本音と言うものがあるでしょう。殴り込みに行くんだよ。もう行く前に相談してくれれば絶対に止めたのに」
「そ、そうですね」