官僚
『これで僕の未来はお終いだ』
セルヒオは一枚の書類の写しを眺めながらそう溜息をついた。昨日までは未来について薔薇色とまではいかないが、それなりに希望と約束がある物だと思っていた。
セルヒオは内務省に入ってから三年目、未だに新米と呼ばれるべき立場で何の後ろ盾も無かったが、勤勉さと後ろ盾がないからこそ、足を引っ張る何かも無かったために、地方勤務から三年目でこの中央本省に来ることが出来た。運もあるとはおもうが、これはある意味で画期的な事だった。
父親が亡くなった後で自分の事を細腕一本で育ててくれた母は、内務省に入れた時にもとても喜んでくれたが、自分が王都の本省で働くことになったと連絡を送った時には、それはそれは心のこもった返信を送ってくれた。それが昨日の事のように思い出せる。
たとえそれほどここでは出世が出来なかったとしても、ある程度の歳になって再び地方での勤務になれば、それなりの地位に着くことだって夢ではない。逆に自分のような後ろ盾のない人間の方が、地方貴族の目付け役として、都合がいい場合だってあるのだ。
そんな夢を、未来を描いていた。ただし、昨日迄はだ。
だが昨日あの女が現れて、省内のこの貴族部の申請を受け付けるこの課をひっかきまわしてからというもの、セルヒオは自分の人生が暗転したことを悟った。彼の目の前に置かれた一枚の紙には、王立学園に対する内務省からの意見書の写しがあり、そこには自分の署名が書かれている。
王立学園は内務省の管轄であるから、意見書とは名ばかりで実質的には命令書に近いものだ。本来ならセルヒオのような新人に毛が生えたような存在が署名するようなものではない。しかし、この課の者達がお互いに署名を押し付け合った結果、もっとも立場が弱いセルヒオが署名をさせられたのだ。
セルヒオは昨日現れたカスティオールの代理という丸顔のまだ若い女性を思い出した。いや若く見えるのは見かけだけに違いない。あの中にはきっとあらゆる法律をそらんじていて、どんなに小さな文字で書いてあってもそれを見逃すことなく、さらにその文言を組み合わせて自分の都合のよい解釈へと組み上げ、それを一文字一句、文句のつけようのない書類へと仕立て上げる事が出来る悪魔が間違いなく宿っている。
その女はここに現れるや否や、学園による僭越行為によって、他家に不当に占拠されている学園内の宿舎の部屋を、カスティオールに明け渡すように要求してきた。女の根拠は一体いつのものなんだという古い書類の束だが、そこには200年以上前のカスティオール侯爵家による学園への貢献に対する感謝として、宿舎の最上級の部屋を永遠に提供する旨を約束したものだった。
そもそもこの手の物は、栄誉を称える物であって、それを権利として明確に行使するものなどいない。いや聞いたこともない。なぜならそのような栄誉を与えられる者であるなら、そんなものをいちいち声高に叫ばなくても普通に提供される、あるいは自前で用意できるものだからだ。しかし、近年のカスティオールはその例外だ。あの家は明らかにこれが交わされた時と今では立場が異なる。
普通はそれでも威厳というか、意地があるからこんなものを持ち出してきたりはしない。けれど、そのモニカとかいう女はその覚書を盾に学園に対する命令書を出せと言ってきた。気が狂っているとしか言えない。だがその覚書自体は学園や、その上位機関である内務省、さらに王家の公式印まで押されているものだから、まともにそれを出来ませんと言う事はできない。
こちらとしては一般的な対応方法、「善処します」、「結果をお待ちください」という、こちらとしてはやる気はないという返答をしたのだけど、それに対する女の反撃も見事としか言えなかった。
女はさらに貴族の特権に関する法律や、契約、覚書等をだして、この件について内務省は一両日中に結果を出すこと。拒否するのであれば、内務大臣名での明確な理由が書かれた拒否理由書を出す事。カスティオールはその理由書に書かれている内容について異議があれば、内務大臣に対してそれを直接問いただすことが出来る事などを示した。
それだけではない。これをこの場で処理しないのであれば、この件について、法務省に対してカスティオールの特権の一つである、申請事項に関する司法的な判断の即時の開廷を申請するとまで言った。それも法務省内の官僚の不正や怠慢を扱う高等検察にだ。そもそも内務省と法務省は官僚機構の覇をあらそう関係にあり、犬猿の仲だ。例えそれがどんな理由だとしても、法務省がこちらに乗り込んでこれる機会を絶対に無駄にしたりはしない。
それを示された時点で、この課のもの及び、その上の貴族部はこのモニカというカスティオールの一会計係に完全に白旗を上げた。そこまで話が大きくなるぐらいなら、どこかの貴族の恨みを少々買うぐらいの方がよほどましだ。だが一方で学園というところは貴族の子弟が集まっているところであり、そんなところに内務省が手を突っ込んで色々な所から恨みを買うなんて事は、普段なら絶対にやってはいけない事である。
問題は誰が署名して、誰がその恨みを直接に買うのかと言うことになった。課にいるもの全員が必死に逃げ回った。これは言葉だけではない。本当にモニカという少女から走って逃げ回った。セルヒオの先輩の一人は後で、
「女房以外の女から本気で逃げたのはこれが初めてだ」
と真顔でセルヒオに語ったぐらいだった。だが誰かが署名しなくてはいけない。セルヒオは必死に机の下に隠れて目立たないようにしていたが、何の後ろ盾もない、ある意味では他家の陰謀の結果とはならないであろうセルヒオに衆目一致で決められてしまった。
何人かの男達に受付の机にまるで押さえつけられるように座らされる事になり、一方、怒った女が法務省に向かって歩いていこうとしたのをやはり何人もの男達がもみ手で必死に押しとどめて、受付の机へと案内した。
そして震える手で署名したのがこの書類だ。唯一の救いは、署名したセルヒオに対してその女性が丁寧にお礼を言ってくれたことと、その子の顔立ちがどことなく自分の初恋の相手、すでに子供が二人いる幼馴染に似ていて、その子よりも遥かにかわいく見える女性だったことだ。だが見かけに騙されてはいけない。その中身は間違いなく悪魔だ。
初恋の幼馴染だって、実家に母を訪ねた時に近くの家から子供と誰かを叱る声が響いていて、子供と一緒に旦那迄どなりつけていたのはその初恋の相手だった。やはり女性は見かけで判断してはいけないのだ。
昨日署名したこの書類は今日には学園のみならず、関係者のところへ回っているだろう。自分がこの中央本省の席に座っていられるのも、もうほんの数日ぐらいの事かもしれない。セルヒオは課内で自分の送別会の予定の確認が取られている事を確信していた。
「セルヒオ二等事務官殿ですね」
事務机の前で、自分のあまりの境遇に流れそうになる涙を必死に抑えていたセルヒオに、背後から声が掛かった。振り返るととても美人でスタイルの良い女性が立っている。その姿は劇場の女優以上にすら見えた。それでいて知性と有能さも存分に感じられる女性だった。
「私は大臣秘書室のクラウディアと申します。急なお願いで申し訳ありませんが、貴族部の許可は取ってありますので、私と一緒に来て頂けませんでしょうか?」
そう言うと、セルヒオに向かってにっこりと微笑んで手を差し出してきた。セルヒオも慌てて立ち上がって、その手を握り返す。
「セ、セルヒオです」
と声を絞り出して挨拶した。とうとう来るべきものがきた。けれど大臣秘書室とはどういうことだろう。呼び出されるとすれば貴族部の部長からだと思っていたが、事は予想よりも重大な問題と認識されているのだろうか?
何処かの地方勤務になる覚悟はできていたけど、もしかしたら越権行為として懲戒免職になってしまうのかもしれない。周りを見渡すと、皆机の上の書類を一心に見つめて見て見ぬふりをしている。その様子にセルヒオは嘆息した。
『今の自分には頼る者もなければ、逃げる場所もない』