威厳
「そういう訳でフレデリカさん、学園の入学は宿舎にこの家にふさわしい部屋が用意されるまで待つことにします」
「は、はい。カミラお母さま」
「ですがカミラ奥様、旦那様から入学の件につきましては、善処するようにとのお言葉があったと思いますが?」
「コリンズ夫人。この件は、このカスティオールの名誉にかかわる重大な問題です。侯爵家が下々と同じような平民宿舎などから学園に通うなどと言うのは絶対にあってはなりません。それこそありとあらゆる者達から侮りを受けます。この件については、学園から正式な回答をもらうまで、当家としてどの様な態度を示すかも含めて保留です」
「はい。それについては奥様のおっしゃられる通りですが、供託金の支払いが遅れたという点においてこちらも落ち度はございます。フレデリカ様につきましては、一度入学して頂いてから、学園側に善処を申し立てるという手順の方がよろしくはないでしょうか?」
「なりません。それでは当家の威厳を損ないます。話は以上です」
そう言うと、カミラお母さまは居間からご自分の寝室の方へと去って行かれてしまった。私の横に立つコリンズ夫人から小さくため息が漏れたのが聞こえた。コリンズ夫人にしては珍しい事だ。
「フレデリカ様、いずれにせよ宿舎の件については学園からの回答を待たねばなりません。だからといって入学の準備をおろそかにすることもできません。衣装とかは私どもの方で準備をしておきますが、フレデリカ様もロゼッタさんとの授業をおろそかにすることなく、続けて頂きますようお願い致します」
「はい、コリンズ夫人。分かりました」
「フレデリカ様。大変申し訳ありませんが、学園に持っていく荷物の件について、他の者と少し相談がございますので、こちらで失礼させていただきます」
「はい。私の方はマリアンさんと勉強室に行ってロゼッタさんをお待ちします」
コリンズ夫人は私に向かって、まるで棒が体に仕込まれているのではないかと思えるような見事な礼をすると、私に対して扉を開けてくれた。そして廊下で控えていたマリの方へ、小さく頷いて見せると足早に廊下を去っていく。きっと小さな部屋になった場合に備えて、荷物の調整など、色々な手配をしに行くのだろう。
「お疲れ様でした」
マリが私に小さく声を掛けてくれた。思わず体中から力が抜けて廊下にへたり込みそうになる。たとえコリンズ夫人が隣にいてくれたとしても、カミラお母さまとお話しをする時はともかく緊張しまくりだ。
ジェシカお姉さまがロゼッタさんの天敵の様に、私は絶対にカミラお母さまには勝てないような気がする。私が勝ち誇る場面なんて想像すらできない。猫に睨まれた鼠だ。あれ、蛇に睨まれた蛙だっけ?
そんなどうでもいいことを考えながら、マリと一緒に西棟から東棟へ抜ける渡り廊下を通って、三階の図書室に隣接する勉強室に向かった。
少しは暑さは和らいできたものの、まだ十分にうだるような暑さの中で、頭が爆発しそうになる数学とかを学習するのかと思うと、私の歩みは自然と遅くなる。前をすたすたと歩いていくマリとの間で距離が開きそうになるくらいだ。私はこれから始まるロゼッタさんとの学習の重圧に耐え切れなくなって、前を歩くマリに向かって話しかけた。
「マリ、どうもしばらくは花壇の手入れが出来そうよ。秋に向けて色々とやることがあるから、丁度良かった」
「どういう事でしょうか?」
前を行くマリが歩みを止めて私の方を振り返った。
「学園への入学は新学期に合わせてでは無くて、当分先になりそうだと言う事よ」
「供託金の支払いは無事に終わったとお聞きしましたが?」
「そう、それは埋蔵金で何とかなったんだけど……」
「あっ、フレデリカ様、マリアンさん、おはようございます」
私が話を続けようとした途中で、突然に図書室からモニカさんが顔を出してきた。その姿にマリと二人で思わず顔を見合わせる。彼女の目の下にははっきりと分かる睡眠不足らしいくまがあり、その肩までで切りそろえられている黒い髪にはうっすらと何か白いものが、どう見ても埃としか思えないものまでついている。
「あの、モニカさん。こんなところで一体何を?」
「コリンズ夫人から許可を頂きまして、御家の過去の契約やら証文などを見させていただいておりました。ライサが持つ証文と合わせて、突合処理をさせていただいております。ですが何分手際が悪いもので、時間がかかってしまいまして」
モニカさんは私達二人に向かって小さく首をすくめると苦笑いをして見せた。
「証文って、図書室の奥の物置の様な所に放り込まれている、古い紙束ですか? あれって、捨てるのが面倒だからって、とんでもない量の古い書類をため込んでいるだけですよね?」
私の言葉にモニカさんの表情が厳しいものに変わった。私は何か彼女にとんでもなく悪いことを言ってしまったのだろうか?
「フレデリカ様!何を言っているのですか。証文とは商会にとって、命以上に大切なものです。そこに書いてあるのが全てです。もちろん御家にとっても大変大事な物です」
モニカさんの目は真剣そのものだ。いや、殺気すら感じられる。
「はっ、はい、モニカさん。すいませんでした」
私はモニカさんの前で『書類なんか』とかいう発言は絶対しないことに決めた。
「残念ながらまだ半分です。こんな体たらくではいつ終わるか分かりませんが、これが終わらない事には前に進むこともできません」
ですがあの棚に一杯あるやつですよね。いくらなんでも一人では無理だと思いますけど、というか普通は絶対にやる気にならないですよね?
ちょっと待って下さい。今半分とか言いました? 一体どこまでこの短期間に見たんですか? あり得ません。死んじゃいます。私は隣りにいるマリに目配せをした。
「モニカさん、私の方で何か出来る事があれば、フレデリカ様がロゼッタ様と学習されている間はお手伝いさせていただきますが?」
マリの発言を聞いたモニカさんの顔がぱっと輝いた。そのあまりに嬉しそうな表情に思わず笑いたくなってしまう。モニカさんは仕事がとても、とても出来る人ですが、私と同じで心の声が駄々洩れの方ですね。
「フレデリカ様、よろしいでしょうか?」
私だけがロゼッタさんから数学とかいう意味不明なものの相手をするのは耐えられません。マリも共に数字と戦っているかと思うとかなり心強いです。今の私の心はそう思うぐらいに病んでいる。
「もちろんです。それにモニカさん、ちゃんと寝てくださいね。睡眠不足はお肌の大敵ですよ」
本当に大敵です。もう集中授業のやり直しを食らってからというもの、ニキビとの戦いも始まってしまいました。だけどモニカさんが何かを思い出したようなそぶりを見せると、急にとても申し訳なさそうな顔をした。
「手伝って頂けるのはとても有り難いのですが、マリアンさんは学園への入学の準備もあって忙しいのではないでしょうか? 私と致しましても、発注済みの品で漏れるものが無いように、納期の確認については密にやらせていただく所存です」
「モニカさん、そちらは余裕がありますから大丈夫だと思います」
「どう言う事でしょうか?」
モニカさんが不思議そうな顔をしてこちらを見ている。分かります。あれだけ予定を詰め込んで頑張ったモニカさんとしては、間に合わなくても大丈夫だなんて聞いたらびっくりですよね。
「学園の宿舎に空きがないとかという話で、どうも新学期に合わせて入学できそうにないんです?」
「空きが無いとはどういう事でしょうか?」
「全くないわけではないんです。普通の部屋に空きはあるんですが、侯爵家というか、貴族向けの侍従部屋とかが付いている部屋に空きがないらしくって、それに空きが出てからですと、もしかしたら来年になってしまうかもしれません」
「部屋ですか?」
「はい部屋です」
「申し訳ありません、ちょっと色々と思い出した事がありまして、こちらで失礼させて頂きます」
そう告げるとモニカさんは図書室の向こう側へと駆け去って行った。マリと私はモニカさんが慌てて閉めた図書室の扉を二人であっけにとられて見ている。ぱっと見は良家のお嬢さんみたいな人なのに、やっぱり変わった人だ。
その扉を見ながら、私はカミラお母さまの「威厳」という言葉について思い返していた。カスティオールは侯爵家だ。カミラお母さまがカスティオールの威厳とか言うものを大事にしているのも理解できない訳ではない。
だがその威厳とやらを大事にするのであれば、それは学園の宿舎が広いとか狭いとかと言う話ではなく、もっと別のところでそれを示すべきなのではないだろうか? ジェシカお姉さまの体についていた多くの傷。それこそがカスティオールの威厳、いや献身というべきものだ。
ジェシカお姉さまの傷には相当に古い物もあった。ジェシカお姉さまは日々、カスティオールの地で何かを守るために戦っているのだ。私はと言えば、同じカスティオールの人間なのに、一度もカスティオール領にすら行った事がない。
学園に行ってお茶会なんかをしている暇があったら、カスティオールの地に行って、お父様やジェシカ姉さまの手伝いをするべきではないだろうか? 今の私は単なる足手纏いかもしれない。ならば足手纏にならないように、その準備にこそ時間を使うべきではないだろうか?
私はマリのように剣を上手に使える訳ではない。鍛えても決してジェシカお姉さまや、マリの様になれるとは思えない。でも何かと言うのは別に剣を揮うだけの事ではないはずだ。モニカさんからもっと会計を教えてもらえば、領内の経営の手伝いだって出来る。
私はこの屋敷の中に籠っていただけだ。竪琴を習いに行っていた時ぐらいしかこの家から碌に出たことはない。いや本当に閉じ籠もっていただけなのだろうか?
私はむしろ閉じ込められていたのではないだろうか?
頭の中に今まで思いもしなかった考えが急に浮かび上がった。カミラお母さまが操られたのも、ジェシカお姉さまに憑りついていたあの気持ちが悪い蛇もどきも、それをやっつけてくれたあの光の壁も、未だにすべては謎だ。あえて誰にも話さなかったが、誰も私に何も説明をしてはくれなかった。
私は一体何なんだろう?
貴族の家の娘で、役に立たないからといって、ほったらかしにされているだけにしてはあまりにおかしすぎる。この家には私に告げられていない多くの秘密がある。これはマリに相談できる話ではない。カスティオールの娘として、私が自分自身でそれが何かをはっきりさせないといけない。学園になんて行くのはそれからで十分だ。
それに14歳の私の心はカミラお母さまの言葉にむしろ安堵していた。学園に行けば、ロゼッタさんとお別れになってしまう。もしかしたら私が学園に行った後でも、アンの家庭教師としてこの家に残ってくれるかもしれない。でもロゼッタさんと毎日顔を合わせる事は出来なくなってしまうのだ。
私にとってロゼッタさんは単なる家庭教師なんかでは決してない。私をいつも守ってくれていた存在だ。そしてロゼッタさんが居たからこそ、私は人として成長できたのだ。それはコリンズ夫人やハンスさんも同じだ。いつかは皆とお別れしないといけないことは良く分かっている。だけど私の心はまだみんなと別れたくないと叫んでいた。例えそれが単に私の我がままだとしても。
「フレデリカさん」
図書室の隣にある勉強室の扉が開くと、その扉の前から聞きなれた冷静な、勉強中には冷酷にすら聞こえる声が響いて来た。その声に私は自分の中で渦巻いていた答えがない問いから引き戻された。
「はっ、はい、ロゼッタさん」
「もうとっくに開始の時間は過ぎています。いつまで待たせるのです」
「すいません」
「本日は学習の進捗確認のための試験をやります。もし、今回も点数がとれないようでしたら……」
ロゼッタさんの目がかすかに天井の方を見た。何かを考えているらしい。
「次は寝る時間などないと思いなさい」
ロゼッタさんが庭の小鳥を狙う猫の様な目で私を見ている。思い出しました。カミラお母さまよりも何よりも私が絶対に勝てない人達が居ました。ロゼッタさんは間違いなくその一人です。もう一人はコリンズ夫人です。この二人には天と地がひっくりかえっても絶対に勝てません!
「はい、ロゼッタさん。頑張ります」
隣でマリが同情に満ちた目で私を見ている。今からでも遅くないですから立場を変わりませんかね。その方が世のため人の為だと思うんですけど。
でもどんな目にあわされても、私はロゼッタさんを尊敬していますし、愛しています。ロゼッタさんも私の事を愛してくれているはずです。全てはロゼッタさんの愛情です。
だから……多分、試験の結果が悪くても大丈夫です。