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召喚

「こんな物でも意外と長持ちするものだな」


 男の頭上では大きな歯車やカムが時折大きな軋み音を立てながら動いている。そこからは先頭に大きな金色の円形の重りが付いた振り子も伸びていて、右に左へとゆっくりと揺れていた。


 男はメナド川を挟んで王宮とは反対側の丘にそびえる時計塔の下に居る。辺りに人影はない。そして夕暮れの中を黒いつむじのように舞う椋鳥の群れに目をやると、その向こう側の王宮の方を眺めた。男の視線の先には王宮の手前を囲む様に立つ、装飾をほどこされた趣味の悪い塔が見える。


「本当に使えるのかどうか分かるのはこれからか」


 男はそう呟くと、右手にしていた黒い手袋をはずした。その人差し指はまだピンク色のあたらしい肌で覆われている。


「わが魂のよりどころにて、その帰るべきところの盟に基づき、我は汝をこの地へと呼びだす」


 男の右手が黄金色に光る西日よりあかるく輝くと、その手の甲に複雑な紋章が浮かび上がった。その光が手から雫の様に落ちて、男の足元で水紋のように広がる。そしてそれは見えない何かに跳ね返ると、再び中央に集まり、上へ上へと昇っていった。やがてそれははっきりとした形を形成すると、金色の光の中から、黒い髪に真っ白な肌、そして漆黒の目を持つ、若い魅惑的な女性が現れた。


 ただそれが普通の女性と違うとすれば、その黒い瞳には瞳孔がなく、ただただ黒い闇が広がっている。そして世の男性が夢に描くような体の線は、背中から回された黒い羽根によって隠されていた。


「お久しぶりですね」


 女が男に向かって口を開いた。その声も人間の若い女性の声そのものだ。


「そうかもしれないな。だが君達にとっての時間は我々にとっての時間と同じものかどうかは分からない」


「あら、そうですの。日が登って日が沈む。それを感じる事は同じではないのかしら?」


「そうかな? 私には生まれてすぐに死ぬ羽虫が時間をどのように感じているかは分からない。彼らだって日の光は感じる事は出来るかもしれない。だが彼らの感じている時間が、私の感じている時間と同じものだとは思えないがね」


「フフフ、相変わらずですね。この時計台も懐かしい。まだ残っているのね」


「そうだな。年代物だがまだ使えるようだ。これがお前達の波動を打ち消してくれないと、召喚したことが向こう側の塔にばればれだからな」


 そう言うと、男はメナド川の先で王宮を囲むように立っている、細い塔の群れを指さした。


「そう言えば、あの子の姿が見えないけど、お使いにでもいっているのかしら? あの子は貴方の事が大好きだから、私なんかより前に戻って来たのでしょう?」


 そう言うと、女は男の周囲を見回した。


「あの子は君より先に戻ってきて、君より先にまた眠りについた」


「眠りについた?」


 女が怪訝そうな顔をして男を見つめた。


「私が眠っている間に何かが大きく変わったのかしら?」


「何も変わってはいない。ある意味では君が眠りについた時と同じだ」


「と言うと。まさか、あの女が……」


「ご名答だ。カスティオールに赤毛が戻ってきている。それにこれは未確認だが、今回はコーンウェルにも戻ってきている気配がある」


「フフフ、私は良いときに目を覚ませたみたいね」


 女の顔に恍惚の表情が浮かんだ。あるいは良き獲物にあった猟師の顔と言うべきものかもしれない。だが男が女に向かって首を横に振って見せた。


「それは私の努力の結果だ。これでも私は君を起こすために相当に苦労したのだよ。少しは感謝してくれないか。まあ、いずれにせよ間に合ってよかった」


「私はそのカスティオールの赤毛に憑りつけばいいの?」


 女が男に向かって嬉しそうに語った。だが男が再び首を横に振って見せた。


「まさか、その子が自主的に何かをしないとだめだ。それはすでに前回の失敗から分かっているはずだろう」


 男の言葉に女は小さな子供の様に地団駄を踏んで見せた。


「そんなことはない。あれは外から邪魔がはいったからよ」


「違うな。そもそも我々はやり方を間違ったんだ。同じ失敗を真面目にもう一度やるのは愚の骨頂だ。君にはある女性の中に潜んでもらう。間違っても操ろうとなんかしないでくれよ。誰が見ても助けてあげたくなるような薄幸な子で、君と違ってとてもいい子なんだ」


「それでどうするの?」


「赤毛の友人になってもらう。赤毛の性格を鑑みれば、必ずその子を助けようとするはずだ。人間の承認欲求と言うものがどれだけ強く、そしてそれを深く欲しているか、君は良く分かっているだろう。それこそが君の専門分野なのだからな。それにこれは世にいう善行だ。少なくともその子の命を助けてやれる」


「結局は私が操るのと大した違いは無いように思うのだけど」


「魂が望んでそれを為すかどうかは、極めて重要な問題なのだ」


 男の言葉に、女がフンと拗ねたように鼻をならしてみせた。


「まあいいわ。確かにあなたが言う通り私の専門分野よ。だけど承認欲求と言うのは人だけの物ではない。私にだってあるのよ」


 そう言うと、女の体から羽が消えてその裸身が露わになった。そして先ほどまで何も無かった彼女の目の闇の中に、はっきりとした美しい彩光を伴った瞳が現れた。その姿はまぎれもなく世の芸術家達が理想像として描く女性の姿そのものだ。


「せっかく人型になっているのよ。私を抱いてみたいとは思わないの? 人生は楽しむものでしょう」


 そう言うと、赤い唇を舌で小さく舐めて見せる。だが男は女に向かって小さくため息をついただけだった。そして先ほどの砕けた態度とは打って変わり、少しばかり厳しい表情をしている。男の表情を見た女にまるで本物の人の様な恐れの表情が浮かんだ。


「ブリエッタ、私は魂の操をたてているのだよ。それが何に対してかは君はよく分かっているはずだ。君の主でもあるのだからな。君が今やろうとしている行為は私に対する侮辱だとは思わないか?」


 男がブリエッタと呼んだ存在の目は、その恐れを表すかの様に、ただの漆黒の闇に戻っている。


「大人を馬鹿にするものではない」


「はい、大変申し訳ありませんでした」


 女は手を胸の前へ持っていくと、侍従が主にするかの様に丁寧に男に向かって頭を下げた。


「ブリエッタ、私は固すぎるのも嫌いなのだよ。肩がこって仕方がない。人生とは楽しむべきものだ。これは私の魂の伴侶が私に教えてくれた事でもある。なのでその点についてはお前に同意するよ」


「そうね。そうだったわね」


「ではブリエッタ、夜の帳も落ちて来た。早速その子の下を訪ねてみようじゃないか。その子が死んでしまっては元も子もない」


 ブリエッタと呼ばれた女は小さく肩をすくめると、身にまとった羽を黒いドレスに変えて、男の後ろを歩き始めた。


* * *


 オリヴィアはもう何度目になるか分からないが、自分が生まれて来たことについて後悔の念を抱いていた。そして涙を流していた。


 オリヴィアは生まれてからこの方、まともにこの部屋を出たことすら無い。ありとあらゆることが自分では何もできないのに、多くの人の労力によって生かされてきた。自分がやってきた事と言えば、ただ苦しみに耐えてきただけだ。


 おそらく自分が伯爵家の娘でなかったらとうの昔に死んでいたことだろう。だが母は私が生き続けることに執着した。間違いなく、私がこの様な体で生まれてきたことへの自責の念によるものだろう。私から言わせればこれは母のせいではない。むしろ神様を恨むべき話だ。


 そもそも自分が14歳まで生きながらえたこと自体が奇跡だった。誰も直接口にはしないが、母でさえも私がお披露目まで生き延びれるとは思っていなかったと思う。だから自分がお披露目の年を迎えた時に、母は出れもしないお披露目の為に、とても立派な衣装を作ると、それを私に見せた。だが母はそれが私をどれだけ苦しめる事なのか、全く理解していなかった。そして今も理解できていない。


 伯爵家の一人娘として生まれてこの方、私の事を除けば、何一つ思い通りにならないことなど無かった母だ。仕方が無いことなのだろう。婿養子である父は母に意見などできない。その日、私は母の見えないところで涙した。それは数少ない、私が自分で出来ることの一つでもある。そしてどういう訳か私は14歳まで生き延びてしまった。


 母は今日、私に学園に行く為の衣装や道具をこの部屋に運びこんで見せた。私にとってそれを見ることは、2年前に受けた苦しみと同じものを感じること以外の何ものでもない。そして2年前と同じ涙が今日も流れ続けている。母はきっとそれが私の嬉し涙だと思ったに違いない。いや、そう信じたいのだ。


 今の私の体は母の行為に対する嫌悪感すら表すことも出来ない。でもこの悲しみも長くは続かない。私はこの苦しみからやっと解放されようとしている。


「はあ」


 オリヴィアは小さく、とても小さく息をついた。それだけでも体の節々から耐え難い痛みが上がる。自分は一体何の為にこの世に生をうけてきたのだろう。私は一体何なのだろう。せめてただ立ち上がることだけでもいい、この世から去る前に、何か自分で出来たと思えるものがあれば、もうそれで悔いはないのに。


「愛情と憎しみは同じものよ。あなたは、自分が自分で何かをできることを誰かに、あなたの母親に見せたいのね」


 オリヴィアは見知らぬ声に驚いた。誰だろう。幻聴ではない。確かに耳に聞こえた。オリヴィアは唯一自由に動かせる目を使って、辺りを見回した。オリヴィアの視線の先、寝台の横に自分を見下ろす人影がある。


 暗闇の中ではその表情はおろか、姿もはっきりとはしない。新しい侍従さん? でもそれにしては口調が変だ。この家では誰もが私のことを腫物の様に扱う。扱い方が難しいからだけじゃない。何かあれば母からとてつもない叱責があるからだ。


「貴方は自分がそう思っている程、さっさと死にたいとは思っていなかったようね。その執念が貴方の命の炎をここまで持たせた。だけどそれももう限界に来ている。このままだと貴方の命はそうね、貴方の中の生命の炎を見る限り、明日まで持つか持たないかかしら」


 その人物は私に向かって明白(あからさま)に告げた。私の死期をついに認めた母が呼んだお医者様?


 雲が切れたのだろうか、窓から僅かな月明かりが差し込んできて、私の顔を覗き込んでいる人物の顔をかすかに映し出した。


『誰だろう?』


 見たこともない美しい人だ。だがその美しさ故だろうか、得体が知れない何かも感じられる。


『死神?』


 オリヴィアはやっとこの人物が何か分かったような気がした。私はやっと死ぬ。だからそのお迎えが来たのだ。


「もしかして、私の事を死神とか、そんな可愛げのあるものだと思っている?」


 目の前の女性が、まるで心の中を目で見れるかのように告げた。


『違うの?』


「私は貴方にこのまま死ぬか、私を受け入れて生き延びるか。その選択肢を与えに来ただけ。もちろん生き延びた場合は、こんな狭い部屋で横たわっているんじゃなくて、陽の光の元を、普通の女の子と同じように過ごせることを約束してあげる」


『どういうこと? どうしてそれが選択肢になり得るの?』


「普通なら二つ返事で承諾すると思うのだけど。貴方はこんなところに寝ていただけなのに、相当に頭がいいのね。何が代償なのか、何が起こるのかを恐れている」


『ええ、そうよ。この体が失われるのはいい。だけど自分の心までもが何かに囚われるのは許して欲しい。私は十分に苦しんできた。ならばせめてその後の安らぎぐらいを求めてもいいでしょう』


「貴方が私を受け入れても貴方が失われるわけではない。貴方は貴方のままよ。ただ貴方の中に私というものが少しばかり混じるだけ。ただそれだけ。貴方が私に助力を貴方自身で求めない限り、私は私の持つ直接的な力を振るったりはしない」


『それだけなの? 本当にそれだけなの? それで貴方は何を得られるの?』


「フフフフ、疑い深い人は好きよ。私は貴方の一部になることで、私が一番大好きなものを得られるの」


「何なの?」


「慈悲と同情、それを他者に施せた時の欲深い心。その全てよ」


『ならば私が失うものなど何もない、それは母が私に向けているものの全てなのだから』

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