情報屋
「ちょっと席を外してもいいかしら?」
妙齢の女性は目の前の席に座った男にそう言うと、小さなバッグを片手に立ち上がった。
「もちろんですよ、イレーニアさん。でもちょっとの間でも、貴方の顔を眺められないと、私はとても寂しい気持ちになるのです」
「もう、本当にお口が上手なんだから」
「私の目を見てもらえれば、私がどれほど本気で言っているか、すぐに分かると思います」
「もう、ロニーさんたら。ちょっとの間だけですよ。すぐに戻って来ます」
そう言うと、女性はロニーと呼んだ男に向かって小さく手を振ると、離れ屋になっている個室から外へと出て行った。二人が座っていた席には食後の紅茶のカップに、少しばかり強いお酒で香りづけをしたデザートの皿が乗っている。男は女の足音が間違いなく遠ざかっていくのを確認すると、
「口紅ぐらいを直したところで、大して見かけが変わる訳ではないのだけどね」
そう独り言をつぶやいて、肩をすくめて見せた。男は内心では少しばかりやりすぎたかと、後悔していた。
さっさと済ませるつもりで、落とすのを焦りすぎたか? もう少し焦らして、向こうがこちらの歓心を買うためにはどうすればいいか、自分で考えさせるべきだったか?
そちらの方が結局は早いし、手切れも楽だったかもしれない。このままだとあの厚化粧の女と寝台迄ともにしないといけないことになる。
「トントン」
男がそこまで考えを巡らせていると、扉を小さくたたく音がした。扉を叩くと言う事はイレーニアではない。
「どうぞ」
「お茶のお代わりをお持ちしました」
お代わり? もしかしたらあの女が少しは気を回して頼んだのか?
「そこに置いておいてくれ給え」
白い制服を着た給仕が銀の台に、縁にピンクと赤の花の意匠があるティーポットとティーカップを乗せてテーブルへと近づいて来る。男は女がこんな気を回せることに少しばかり驚くと同時に、意外と手強いかもしれないと考えを変えた。
「ドン!」
手が滑りでもしたのだろうか、給仕がいささか乱暴にティーポットをテーブルの上へと置いた。ポットの先から漏れた紅茶が、テーブルクロスに薄茶色の染みを作る。
「君!」
男がその手際について一言か二言、文句を言おうとした時だった。
「バン!」
給仕の手によって、男の体がテーブルの上へといきなり押し付けられた。驚いた男は給仕の方を見あげようとしたが、後頭部が押さえつけられていて、身動きすることも出来ない。テーブルに押さえつけられたまま自分の耳元へ相手の顔が近づいてくるのが分かった。
『どこの手の者だ?』
男は脳裏に浮かんだ自分が殺される理由と、それから助かるためには何を材料にすべきなのかを必死に考えた。首筋にナイフを突き立てられてからではすべてが遅い。だが男がその考えをまとめる前に、耳元に声が響いた。
「今日の名前は『ロニー』か?」
その声に男は安堵すると同時に恐怖を感じた。相手がこの男ならこちらをすぐに殺す事は無いだろう。だが殺される時には、ナイフを突き立てられて死ぬよりもはるかに恐ろしく、救いのない死を迎える事になる。
「トカスか? 一体何で?」
「ドン!」
男の頭が少しだけ持ち上げられて、またテーブルへと叩きつけられた。男の口から低い唸り声のようなものが響く。
「こんなところで悠長にネタの仕入れをやっているところを見ると、俺があのどぶ川と一緒に穴の向こうにでも行ったと思って安心していたか?」
「あんたがあんなもんであっちの世界に行くとは思っていない。現にこうして俺の後ろにいる」
「だとすれば、俺が現れる事ぐらいは分かっていたはずだ。それをこんなところで優雅に年増女とお茶をしているのだから、お前の言う事は、お前の情報同様に信用できないな」
「俺はあんたには忠実に……」
「ドン!」
「う……うぅぅ」
「言葉に気を付けろ。顔はお前の大事な商売道具の一つだろ?」
「顔も大事だが、こちらにだってこの商売をする者としての理というものがある。俺はあんた相手にはまともに商売してきたつもりだ。今迄俺が嘘の情報をあんたに流したことがあったか?」
「かつては無かったな」
「どう言う事だ」
男の首筋から押さえつけていた手が離された。男が見上げると、女が座っていた席にトカスが足をテーブルの上に乗せて座っている。そして自分が持って来たティーポットから手直にあったカップにその中身を注ごうとしていた。
だがトカスは持ち上げたティーカップを見ると無造作にそれをテーブルの上に放り投げた。そして銀の台の上から新しいカップを取り出して、それに紅茶を注ぎ始めた。男の目の前に転がって来たティーカップにはくっきりと口紅の跡がついているのが見える。
「どうせ失われてしまうのに、わざわざ何度も塗りなおすのは理解が出来ないな」
「人生と言うのも同じようなものじゃないのか?」
男がトカスに向かって答えた。
「ハハハハ!」
男の言葉にトカスは口に入れていた紅茶を噴き出すと、腹を抱えて笑い出した。
「もうすぐ穴の向こうに行く人間らしい台詞だな。お前に哲学の趣味があるとは知らなかったよ」
「殺すつもりなら、とっくにやっているだろう。一体何が聞きたいんだ?」
「どうしてあの女の事を黙っていた」
「あの女?」
「カスティオールの使用人だ」
「その件か……」
「やはり心当たりがあるんだな。俺が聞かなかったからとか言うなよ。お前は情報屋としては情報の取り方には色々と問題があったが、少なくともこちらの意図を組んで、余計な情報は無しに必要な情報をまとめて送ってくるので、それなりに便利だった。こちらとしてもお前には相応の払いをしていたつもりだがな」
「その通りだ。それが俺のこの仕事をやる上でのささやかな矜持だよ。聞かれる前に聞くべきことを見つけて聞くだ。俺の師匠のやり方だった」
「矜持? だが仕事ぶりはそれに追いついていないな」
「この件は王宮魔法庁の古株で、とうの昔に出世をあきらめていた奴を口説いて聞いたんだ。唯一聞けたのは、泥酔した口から洩れた、『触れてはいけない』だけだった」
「触れてはいけないね。さっきの例え話と違って、作り話にしては酷すぎるぞ」
「本当の話だ。その後で言った奴は急に酔いが醒めたらしくて、自分が俺に何かもらしたか聞いてきたよ。もし、俺が『はい』なんて答えたら間違いなくあの世に送るつもりの目だった。裏が取れた訳ではないが、この件は漏らした奴や聞いた奴は口を塞がれる類の話だ。だから俺が聞いたり、聞いた俺があんたに話せば、それは二人で死神と契約するのと同じことだ」
「ご丁寧に俺から漏れる心配をしたという事か?」
「そんな話じゃない。だが俺があんたに『理由はよく分からないが、この仕事は止めるべきだ。やばすぎる』と言ったところで、あんたは止めたか?」
男の言葉にトカスは無言だった。
「出来れば、あんたには詰まらん仕事だと思って、興味を失ってもらいたかったぐらいだったんだ。だがもうそれも過ぎた話だな。ここにあんたが来たという事は、あんたはあの女とまたやりあうつもりなんだな。それにそもそもこの話をあんたに持っていったのは間違いなくあの男の差し金だろう?」
「何が言いたいんだ?」
「あんたは信じないかもしれないが、俺は俺なりにあんたの事を応援していたんだ。トカス、俺はあんたの事が好きなんだよ。憧れていたと言ってもいい。この仕事は全てががんじがらめだ。俺の足は重りを付けられて、今にも沈む船をこいでいるのと同じだ。そんな世界なのに、とても自由に自分のやりたいようにやっているあんたは、とてもまぶしいぐらいだった」
「お前の愛の告白とやらを真に受けるのは、さっきの女ぐらいじゃないのか?」
「これは真剣な話だ。トカス、あんたはあの男から離れるべきだ。さっきの俺の台詞は嘘じゃないが、それが間違いだって事に後で気がついたよ。あんたは自由にやっているんじゃない。自由にやっているようにあの男に操られているだけだ。あの男は間違いなく、あの女なんかよりも遥かにやばい」
男はそこで一度言葉を切るとトカスの顔をじっと見た。そしてトカスが何も反論しない事を確かめると再び口を開いた。
「あいつはその女のように隠れている訳でも、隠されている訳でもない。だが誰もあの男の事を口にしたりはしない。それがどういう意味かはあんたもよく分かっているだろう。この事を口にした俺が明日の朝日を拝めるかどうかも分からない。だがこれは俺から世話になったあんたへの、情報屋としての理抜きの話だ」
トカスは紅茶の最後の一滴を飲み干すと、ゆっくりと席から立ち上がった。男はその姿をじっと見つめている。
「クンツ、さっきのロニーという名前同様に、お前にはこの世界は似合わないな。ネタの仕入れに女のケツを追いかけるのなんかはさっさとやめて、溜めた小金でどこかの農園でも買え。長生きという奴ができるぞ」
「トカス!」
だがトカスは男に何も答えることなく、扉の外へと姿を消した。
* * *
「支払いはもう済ませておきました」
化粧直しから出てきたイレーニアは背後から掛かった声に驚いた。振り返ると離れで待っているはずのロニーが立っている。それにどういう訳か鼻の頭を赤くしていた。
「ロニーさん? こちらで待たれていたのですか? それにそのお顔はどうされたんです?」
「いろいろと考え事をしていましたら、柱の角にぶつけてしまいました。本当にドジな男です。それよりも、お茶はもう少し静かな所で、できれば私の自宅に貴方をご招待したいのですが?」
「ロニーさん、お誘いはうれしいのですが、まだ色々と気持ちの整理が……」
だがイレーニアは自分を見つめる男の目が先程迄とは違う事に気がついた。
「イレーニア、人生はいつ何があるか分からない。だから今を精一杯生きて、楽しむべきだと私は思うのです。今と言う時は今しかないのです。そして私はそれを貴方と過ごしたいと思っているのですよ」
イレーニアは男の言葉に小さく頷くと、差し出された腕にそっと手を添えた。