左遷
「アルベール主任執行官、少しいいかしら?」
「はい、ダリア執行官長殿」
ダリアから直接声を掛けられたアルベールは、自分の執務机から立ち上がるとその後ろをついていった。ダリアが秘書を介さず直接に声を掛けに来るのは珍しいことだ。普通に考えればあまりいい話とは思えない。日勤明けに近い時間であまり人数はいなかったが、部屋に居る者達もこちらを興味深そうに見ているのが分かった。
「アルベール主任執行官、そこの椅子にかけて頂戴」
ダリアは執務室に入るなり、自分の少し大きめの執務机に座ると、その前においてある肘掛椅子を指さした。やはり良い話ではないらしい。アルベールは素直にその椅子に座ると、もうすぐ西の方に沈もうとしている黄色い光を背後に、席に座るダリアの整った顔を見つめた。光の陰になってその表情ははっきりとはしないが、ダリアがアルベールと二人だけの時に見せる少し砕けた表情は何処にもない。
「貴方には、執行部を離れて出向してもらいます」
「出向?」
「そうです。出向先も内務省管轄、実際は王宮直轄であることは同じですが、今までの貴方の業務とは少し変わった場所になります」
「どちらになるのでしょうか?」
「王立学園です」
「学園!?」
「ちょっと待ってくれ。いや待ってください。私が、王立学園に行って何をするのですか?」
「学園の警備部の部長付きの内示が出ています。日付は異動の準備が出来次第という事です。ここを離れる準備があるでしょうから、私がそれを受け付けて処理する時間と言う事で二日ほどもらいました。なので、赴任日は明後日以降になります。アルベール主任執行官、あなたのここでの日々の仕事とこれまでの業績に感謝します」
ダリアはそう告げると、机の向こうからアルベールに向かって右手を差し出した。
「分かりました。謹んで拝命させて頂きます」
アルベールも椅子から腰を上げると、その右手を握り返した。自分の手を握るダリアの手が少しばかり強く、そしてわずかに震えているようにも感じられる。
「ダリア執行官長殿、これで私に関する業務上の指示は終わったと思ってよろしいでしょうか?」
アルベールは椅子に腰を下ろすと、ダリアに向かって口を開いた。
「そうです。他に伝える事はありません」
「では、ここからはかつての同僚として少しの時間だけ、思い出話などをさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「短時間に限り許可します」
「ダリア、これは一体どういうことだ?」
「どうもこうもないわ。私も王宮魔法庁からの内示の書類を受け取っただけ。人事の連中に確認しても察してくれという態度だけだった」
「つまり、上の方から降って来たという事か? 俺のような下っ端の執行官についてか?」
「貴方は自分の事を過小評価し過ぎよ。執行1部で一番優秀でいながら出世にも何も興味がない男と言う点では、とても有名人だと思うけど?」
「君にお世辞を言われると寒気がするよ。思いつくとしたらただ一つだな。君にまで迷惑をかけてしまうことになったら申し訳ない」
「もし、あなたが思っている事が理由だとすれば、私も左遷でも何でも甘んじて受けるわよ。自分だけが悪いなんて台詞をもう一度でも言ったら、あなたのアレを切り落とすわよ」
ダリアが少しばかり怒ったような顔をしながらアルベールをにらみつけた。
「フフフフ、君らしいな。ばれてしまったものは仕方がない。ダリア、君の部屋に置いてある僕の荷物は後で学園の方へ送ってもらえないか? それとエドガーだが、精神的にまだまだ甘いが、素質としてはなかなかいいものを持っている。育て方を間違えなければ伸びる。だから組ませるのであれば、アンドレアかレジェス辺りがいいと思う。間違っても、一匹オオカミのエジディオ辺りとは組ませない方がいい」
「アルベール、人事と労務管理は私の専任事項よ。だけどあなたの意見は参考にさせてもらうことにする。それと学園の宿舎は手狭だと思う。貴方の荷物は私の方で預かって置くから、今度尋ねてくるときには堂々と訪ねてきて」
「悪いなダリア。そうさせてもらう」
* * *
「少しは涼しくなってきたか?」
アルベールはそう独り言をつぶやくと、自分が出てきた建物と、それを囲む様に立つ建物を見あげた。一階の受け付けの辺りを除くと、各階の窓には煌々と明かりがついている。それは反対側の建物、警備庁も同じだ。この二つの組織が相手にしている者達は、これからの時間が活動時間なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
アルベールは二つの建物に背を向けると、建物の間の狭い路地、自分の宿舎に向かうための僅かばかりの近道へと歩みを進めた。仕事の都合上、遅い時間でも宿舎までの馬車は存在するが、アルベールとしては今日は少しだけ秋の気配を感じさせる夜風に当たりながら、歩いて宿舎まで戻るつもりでいた。
建物の間の狭い路地の石畳に、アルベールが持つあまり魔法職らしからぬ質素なステッキが当たる音が響く。その音を耳にしながら、アルベールは自分が今日受けた異動について、思いを巡らせていた。
『職務規定違反。まあ、単純な話だな』
普通はどこか田舎の街にでも飛ばされるところだが、学園とは想像もつかなかった。ダリアは美人だ。それに誰も彼女の有能さを疑う者などいない。それと同衾している自分の事を誰かが相当に嫉妬したのだろう。ダリアが一緒に左遷されなかっただけでもありがたいことだ。もっとも、執行部をあの若さで仕切れているダリアの代わりなど居ない。その分、自分の処罰が重くなっただけと言うところか。
ダリアとは王宮魔法学校での同期で、近い存在だった。だがダリアも自分もそれぞれに目標があって忙しかった。ダリアは没落貴族の実家を一身に背負って必死に努力し、努力に見合うだけの出世をした。結果としてそれがダリアを自分から見て遠い存在にした。
だが遠くなったからこそ、自分もダリアもお互いを意識し、お互いがお互いの足りていない部分を補い合える存在だと認識した。少しばかり仕事にも慣れて油断していたのもある。それがお互いにとって危険な事だと、特にダリアにとってはとても危険な事だと言うのを忘れていた。
「ダリアには申し訳ないことをしたな」
アルベールは自分の口から洩れた独り言が、建物の壁に反響して、いささか大きな音となって自分の耳に届いたのに驚いた。どうやら自分の心も相当に痛手を受けているらしい。頭を振って、建物の狭い路地を抜けて裏通りへと出たアルベールは、その角を宿舎の方へ曲がろうとした。視線の先に、この辺りにはそぐわない少しばかり立派な感じがする馬車が停まっている。おかしなことに立派な割には紋章も何もない。
「アルベール主任執行官殿ですね?」
アルベールの背後から声が掛かった。背後には何の気配も無かったはずだ。ダリアの件に思いを馳せていたとしても、気配を感じられないなんてどういうことだ? アルベールが驚いて振り返ると、そこには黒い侍従姿に身を包んだ男が、まるで闇に溶け込んだかのように立っている。
「僭越ではございますが、宿舎の近くまでお送りさせていただけませんでしょうか?」
そう言うと男は、前に停まっている馬車の方へと腕を差し出した。ここで拒否しても相手にそれを受け入れるつもりはないだろう。アルベールは小さく男に頷いて見せると、馬車の方へと歩みを進めた。
どういう動きをしているのかはよく分からないが、特に急ぎ足には見えないのに、侍従がアルベールの先回りをして、馬車の扉を開けて小さく頭を下げる。アルベールはそれを横目に見ながら、馬車の中へと進んだ。中に明かりは無かったが、アルベールと同じような杖を持った男の影がある。目隠しの布の間から漏れてくるわずかな街灯の明かりだけでは、その人物の顔は良く分からない。
「失礼します」
外から先ほどの侍従が顔をだしたかと思ったら、扉の内側に小さな角灯を付け、一礼して扉を閉めた。闇に慣れた目にその黄色い光が染みる。だがその明かりが質素ではあるが最高級の皮張りの内装と、そこに座る初老の男性の姿をはっきりと映し出した。
「私が誰か分かるかね?」
男はそうアルベールに問い掛けた。
「はい、コーンウェル候」
まるでアルベールが答えるのを待っていたかのように、馬車の車輪が石畳に当たる音が響き、馬車がいずこかへと走り始めたのが分かった。
「ならば話は早い。卿に頼みたいことがあってここに招待した」
「コーンウェル候、一介の執行官に頼みたいことが何なのかは分かりませんが、私は公僕ですので、侯爵家であろうがなかろうが、私人の頼みを聞いていい立場にはありません」
アルベールは自分の答えに、目の前の男が小さく含み笑いを漏らすのを聞いた。
「卿は噂通りの男だな。私としてはやはり卿以外の者は思いつかない」
「侯爵家の当主ともあろうかたが、私の様な執行官の事について、何かをご存じだという事自体が信じられないのですが?」
「周りの者の卿への評価が、自分を過小評価しすぎているというのがよく分かった。おそらく卿の基準自体が間違っているのだろうな。卿はあの建物にいる執行官の中で、もっとも優秀だと聞いている」
「語った者の認識の間違いです。私より優秀な者は山程居ます」
「これは魔法職としての術の腕のみの評価ではない。その冷静な判断に基づく適切な行動、他の者との協調性、様々な面において卿は十分に優れている。もっとも重要なのは卿がすぐれた客観的視点を持っていることだ。それを他の者が過小評価と捉えているのは残念な事だな。唯一の欠点はそれを積極的に自分自身の為に用いようとはしないこと。それだけだ」
「恐れ入ります。候のような方からそのような評価を頂いていること自体が信じられない思いです。ですが、やはり私は候のお役に立てるような人間とは思えません」
「アルベール卿、今の発言は公僕としての君の美徳だと思う。だが勘違いしないで欲しい、私は卿に私自身やコーンウェル家の利益の為の何かを頼むつもりはない」
アルベールは男の発言に違和感を覚えた。貴族の、それも四侯爵家の筆頭、コーンウェル家の当主が家と関係のない話とは何だろう。
「では、内務省の貴族部を通じて、正式に要請をすればよいだけの話だと思いますが?」
「言葉が足りなかったな。これはこの国などすら超えた、この世界の為の依頼なのだ」
「どう言う事でしょうか?」
「卿は学園の出身者ということで、間違いないな」
「はい。平民ですが機会があって、学園を卒業することが出来ました」
アルベールが通っていた私塾を、王宮魔法職が引退後の暇つぶしでやっていた縁だった。今思えば、それで自分の人生の大部分が決まってしまったような気もする。
「卿が卒業する時に、入学した者全員が無事に卒業できただろうか?」
「いえ、残念な事に事故で何名かの学友を失いました」
「アルベール卿、それは本当に事故だったのかね?」
「どういうことですか?」
学園はこの国の創立からの長い歴史があるせいか、単なる学校とは違う。どちらかと言うと士官学校的な部分であったり、ロストガルの出自を思い起こさせるような一人の戦士を育てるような部分もある。
平民を受け入れるというような大胆な改革をしてきた割には、時には死者すらも出す時代錯誤も甚だしいところはそのまま残されている。学園はある意味、この国が創立した頃の世の在り方をそのまま残しているとも言えた。
「それは一部の者達の保身の為に仕組まれたものだと思ったことはないかな?」
そう言うと、エイルマーは馬車の目隠しをわずかに開けて見せた。どうやら馬車はメナド川沿いを走っているらしく、その先の小高い丘に、灯に彩られた王宮が見えた。その光はメナド川の暗い川面の上にも揺らめくように映っている。アルベールはその見慣れたはずの景色が、自分が知らない全く別な物のように見えた。
「穴を塞ぐための贄だけが、贄なのではない。この世界は本来ある姿から大きく歪められているのだ」
エイルマーは窓の目隠しを閉めると、アルベールにそう告げた。アルベールはその言葉に衝撃を受けた。まだ自分が大人に成り切れていない頃からずっと、心の奥底で棘のように刺さっていた何かについて、一つの回答を得たような気がしたからだった。少なくとも目の前の初老の男は荒唐無稽な夢物語を語っている訳ではない。アルベールはそう感じた。
「私は卿に何かを強制するつもりはない。事の重大さを考えれば権力や権威による強制など意味はない。それぞれが己の信念で成さねばならない事なのだ。卿にその覚悟があるのならば、私は卿に私が知っている事の全てを話そう。だがそれは卿にとっての日常が、卿の世界が変わることと同義だ」
「そのような大事を漏らして迄、候は私に何をやらせたいのですか?」
「卿は学園で警備部に所属することになる。表向きは学園全体の警護だ。だが実際にやってもらいたいのは私の孫娘の警護になる。あの子は鍵だ。そしてここに住むもの全てにとっての希望なのだよ」
「護衛ですか?」
「そうだ。それに私の先ほどの言葉は撤回する。卿に覚悟があろうがなかろうが、私は君に本当の一部の者しか知らない、あるいは気付いていない秘密を語らせてもらうつもりでいる。そして卿がそれに耐えられる人間であることを確信している」
アルベールは学園に通う事が決まった時と同じように、自分の人生の何かがここで決まろうとしている事を理解した。