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遺恨

 アンジェリカは一人で東棟の廊下を歩いていた。


 少し前まで母親のカミラと一緒にフレデリカの学園入学の衣装合わせの為に、東棟のフレデリカの寝室に居たのだが、衣装の箱やらで足の踏み場もないほどになったので、カミラに先に西棟に戻る許可をもらって外へ出たのだった。


 カミラからは先に居室に戻って、そこで待つように言われたのだが、アンジェリカはある人を探して、東棟の廊下をまるで人の家に忍び込んだ猫の気分で歩いている。自分の屋敷の中ではあるが、一人で自分の目的の為に何かをしているのは生まれて初めてかもしれない。歩きながらそんなことをアンジェリカは考えていた。


 アンジェリカの探し人は東棟の一階の長い廊下で、手にした布で窓を拭いていた。その人が窓を布で拭くたびに、頭の上でまとめている栗色の長い髪が、まるで馬の尻尾のように軽やかに跳ねる。比較的体にぴったりとした仕立ての侍従服からは、無駄な贅肉など何処にもない、美しい体の線が良く分かった。すらりと伸びた長い腕と、スカートの下から覗く細い足首も見える。


 アンジェリカはその女性の姿に、自分の心臓が高鳴るのが分かった。彼女はこちらに気が付いたのか、手にした布を素早く背後においてあった掃除道具に掛けると、こちらに向かってとても丁寧にお辞儀をしてきた。思わず会釈だけして、この廊下を駆け戻りたくなったが、ぐっと我慢して彼女に向かって一歩、一歩と足を動かした。


 自分は彼女から見て、ちゃんと侯爵家の令嬢に見えているだろうか? お披露目の時にさえも思いもしなかったことを頭に浮かべながら、アンジェリカはその人の元へと向かった。


「アンジェリカ様、何か御用でしょうか?」


 侍従姿の女性の丁寧でありながら凛とした声に、アンジェリカは自分の首筋が熱くなるのが分かった。


「いえ、用事では無くて、まだ直接には挨拶をしていなかったので、声をかけさせて頂こうと思いました」


「こちらこそご挨拶が遅れまして、大変申し訳ありませんでした。先月からこちらでお世話になっております、マリアンと申します。フレデリカお嬢様付きの侍従をさせて頂いております。どうかお見知りおきの程をよろしくお願い致します」


 マリアンはそう告げると再び丁寧に頭を下げた。アンジェリカから見る限り、その立ち振る舞いは西棟にいるどの女性侍従よりも完璧に見える。


『ああ、なんて素敵な人なんだろう』


 アンジェリカは心の中で溜息をついた。お母さまの前で西棟のモーリッツ侍従長が紹介してくれた時から、アンジェリカは、マリアンの事が気になって仕方が無かった。ジェシカお姉さまに似た感じだが、もっと凛としていて隙が無いような感じがする。西棟の侍従たちの言葉を借りれば、とてもかっこいい人だ。


 彼女が東棟でフレデリカお姉さま付きの侍従になると聞いた時には、本当に残念で仕方が無かった。だけど、やっとこの方とまともに話をする機会を得られただけでも、十分に嬉しい。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 アンジェリカは、緊張に自分の声が裏がえらないように気を付けながら挨拶をした。


「アンジェリカ様」


「はい」


 マリアンがアンジェリカの事をその鳶色の目で見つめている。一体私の何を見つめているのだろうか?アンジェリカがそう思った時だった。


「失礼させていただきます」


 マリアンは一言そう告げると、アンジェリカの方へ一歩、二歩と歩み寄った。そしてそのままアンジェリカの背後に回ると、腰を折って床の絨毯から何かを取り上げた。見ると、その手にはアンジェリカがしていた赤いリボンがある。アンジェリカは慌てて自分の髪に手をやると、そこにあったはずのリボンがない。


 目の前の人に気を取られるあまり、挨拶をした時に自分の髪からリボンが取れて落ちたのに気が付かなかったらしい。私の髪は広がって残念になってしまっている。せっかくこの方と二人だけでお話が出来たと言うのに、何て事だろう。アンジェリカはそう思うと、少し恥ずかしい気持ちになった。


「少しの間だけ、じっとしていて頂いてもよろしいでしょうか?」


 だが、慌てるアンジェリカの背後から声がかかった。わずかに動く気配がしたかと思ったら、マリアンの手がジェシカの髪に軽く添えられて、彼女がいつの間にか手にした櫛で、アンジェリカの髪が手早く整えられていく。


 その長くきれいな指がうなじに添えられたのを感じて、アンジェリカは自分のうなじの辺りがさっきより熱く、まるで燃えているかの様な気がした。そして、それがマリアンにばれてしまうのではないか、そう思うと気が気では無かった。


「パン」


 小さくリボンのピン止めの開く音がして、アンジェリカは自分の髪がそれでまとめられたのが分かった。


「いかがでしょうか?」


 アンジェリカが我に返ると、目の前には自分の肩越しに腕を伸ばした手と小さな手鏡があり、その鏡の中に、背後にもう一つの手鏡を持つ侍従姿の女性と、自分の髪とリボンが映っているのが見えた。髪は全く跳ねることなくきれいにまとまっている。とても一瞬でやったとは思えない。朝に自分付きの侍従がとても時間をかけてやっているのが一体何なんだろうと思うほどだった。


 それに背後から肩越しに手鏡を差し出しているので、マリアンの吐息が自分の耳元に直接感じられる。その何とも言えない感触に、アンジェリカは頭の中がぼーっとなってくる様な気がした。


「リボンはもう少し上の方がよろしいでしょうか?」


 アンジェリカが無言でいるのを不満ととらえたのだろうか、マリアンがアンジェリカに問い掛けた。


「いえ、十分です。とてもきれいにまとまっています」


 アンジェリカは慌てて答えると、マリアンの方をふり返った。少し背が高いマリアンの顔が、見上げた自分の視線のすぐ先にある。アンジェリカはその鳶色の目をうっとりした気分で眺めた。


「アンジェリカ様の髪は本当におきれいですね」


 マリアンの言葉にアンジェリカの心が躍った。アンジェリカがマリアンに何かを答えようとした時だった。背後で人がこちらに来る気配がする。


「アンジェリカ様、こちらにおいででしたか。カミラ奥様がお部屋に戻られるとの事ですので、アンジェリカ様も居間の方へおいでください」


「はい、承知しました」


 自分に向かって丁寧に頭を下げているマリアンの姿を見ながら、アンジェリカは後ろ髪を引かれる思いで、自分付きの侍従の方を振り向いた。


 そこにあるのは、自分を仕事の相手としかとらえていない侍従の姿だ。アンジェリカはドレスの裾を持つと、自分付きの侍従の方へ向かって歩き始めた。だがその完璧な歩み方に対して、その心は千々に乱れている。


『どうして、どうしてなの!?』


 アンジェリカは心の中で叫んだ。


『どうして、フレデリカお姉さまは自分が欲しいものを、私が持っていないものを全部持っているの!?』


 お姉さまには、コリンズ夫人も、ロゼッタさんも居る。東棟の人達はみんなフレデリカお姉さまのことを心から大事にしている。だけど自分には何もない。お母さまはいるが、私がお母さまの為にいるのであって、お母さまが私の為にいるのではない。私には、私には、何もない。


 そして、今のお姉さまにはあの方までいる。お姉さまにはジェシカお姉さまだって居るのに。ジェシカお姉さまは決して態度には出さないが、私には分かる。ジェシカお姉さまが常に気にかけているのはフレデリカお姉さまだけだ。


 アンジェリカは自分の心の中で消えることなく燃え続けている嫉妬の暗い炎が、より大きく、そして抑えられなくなっているのを感じた。


 私は、私はここではただの人形だ。お母さまの操り人形にすぎない。小さな子供がままごとで使う人形と同じだ。お母さまは認めないだろうけど、この家の全てはフレデリカお姉さまの為にある。それはアンジェリカがもっともっと幼い時から絶えず感じていたことだった。


『例えどんな手を使っても、いつか、きっとあの方を私のものにする』


 アンジェリカは自分の頭の後ろに手をやってリボンに触れると、心の中で燃え盛る嫉妬の暗い炎にその身を焼きながら、そう固く決意した。


* * *


「これは、絶対にあの女の仕業なんです!」


 プラシドは年が離れた二人の兄に向かって叫んだ。二人が父の死を完全な事故として扱っている事に、父の死よりも今後の身の振り方についてのみ相談している事に腹が立って、とても黙っている事が出来なくなったからだ。


「プラシド。これはどう見ても事故だ。父さんもだいぶ年をとっていたのに、それを忘れていることが多かった。もっと体を大事にしていれば、こんなことにはならなかったのだろうが、本当に残念だ」


 二番目の兄がプラシドの肩に手をやって、諭す様に語った。比較的優しい二番目の兄はそう言ってプラシドを慰めてくれたが、父のテオドルスに似ていると言われている長兄は、プラシドに向かって冷たい視線を送っているだけだ。明らかに長兄は自分の事をただ鬱陶しいだけの存在だと思っている。


 二人の兄や、姉とも年が離れている自分は全くの子供扱いだ。亡き父の為に何も出来ないでいる。プラシドはそう思うとやるせない気持ちになった。


 プラシドにとって父のテオドロスは偉大でとても頼りがいがある存在であると同時に、自分のやりたいようにさせてくれる正に庇護者だった。実際、テオドルスは末っ子のプラシドにとても甘かったのだが、当のプラシドにはその自覚はない。この間のお披露目の騒ぎで、初めてテオドルスから叱責らしい叱責を浴びたことに、とても衝撃をうけたぐらいだった。それからまだ立ち直れないでいる間に父親の死を迎えていた。


 プラシドにとって今回の父の死は、カスティオール家のあの蛇の様な長女がやった事は明白だった。誰がどう見てもそうだ。だから直ぐにカスティオールに復讐すべきだ。そう思っていた。だがプラシドがいくらそう主張しても、二人の兄は全く耳を貸してはくれない。


 唯一自分の味方をしてくれそうな母親は、女の身であるが故にこの相談の場にすら入れてもらえていない。他家にすでに嫁いでいる姉はこの場にまだ間に合っていないし、来ても母と同じで兄達には何も意見などは出来ないだろう。それ故に兄から口を閉じているように言われても、プラシドとしては兄達に訴えかける以外に方法は無かったのだ。


「プラシド。これは我が家の行く末を決める大事な話だ。当家の一員であるお前が何の根拠もない話をするのは止めなさい。お前もお披露目が終わったという事は既に大人の仲間入りをしているのだ。その発言は決して子供の戯言扱いにはならないのだぞ」


「ですが!」


「プラシド、これ以上妄言を吐くのなら、次期当主として私はお前を部屋に閉じ込めておくように言わないといけない。私としてはそんな事を指示したくはないのだよ」


 長兄がプラシドに向かってそう冷たく告げた。


「兄さんの言う通りだ。お前は父さんからとても大事にされていたから、父さんの死を誰かのせいにしたくなるのは分かる。だがこれはどう見ても事故だ。内務省も確認済みでそう報告されている事なのだよ。それ以外の結論を誰かが、ましてや当家のものが言うのは間違いだ」


 次兄がそうプラシドに告げた。その語り口は長兄よりは優しかったが、プラシドから見れば、言っている内容そのものは長兄の言葉と同じだ。プラシドは口の中に血の味を感じた。下唇を強く噛過ぎたのだ。これは父親から、テオドルスから初めて殴られた時と同じ味だった。兄たちは全く当てにならない。兄たちが当てにならないのであれば……。


『たとえどれだけ時間がかかろうとも、自分が父さんの無念を晴らすしかない』


 プラシドはそう思った。プラシドは今迄自分が何のために生きているのか、何をしたいのかも真面目に考えたことなどなかった。


 ただ年が近い貴族の次男坊、三男坊、取り立てて末子連中とつるんで冗談を言ったり、狩りや女侍従に近頃した大人としてのあれやこれやなど、本当にやったかどうかかなり怪しい話を自慢しあうだけだった。あるいは将来のありもしない戦での活躍話などだ。


 だがプラシドの心の中に、その思いははっきりと刻み込まれた。それを果たす前に、その以外の何かなどありはしない。


『あの女にこの報いを絶対に与えてやるのだ』


 そう無言で決意したプラシドを、二人の兄はやっと聞き分けられた子供を見るように一瞥すると、グローヴズ伯爵家の未来の在り方の話に自分達の会話を戻した。だが二人ともプラシドの心の中で何を、どれほど固く、そして深く決意したのかを全く理解してはいなかった。

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