犬の餌
「気を付けろ!」
渡り始めた途端に、道を走って来た馬車の御者から怒声を浴びた。トマスの目前を馬車が走り抜けていき、トマスの何の変哲もない茶色い髪が、吹き抜けた風にぐちゃぐちゃになるのが分かった。それだけじゃない。車輪から飛んだ泥が、自分の一張羅の明るい灰色の服に茶色い点々をいっぱいつけている。
『何だかな!!』
トマスは誰かを怒鳴りつけたくなるような衝動にかられたが、命があっただけましだったのと、マリアンを待たせてはいけないと思い返し、今度は道の両側に気を付けながら、円環道路の真ん中の公園らしきところまで足を運んだ。木陰のテーブルの前で、水筒らしきものを手にしているマリアンがこちらを見ている。
「ぐ、ぐう、偶然だね」
トマスは必死に作り笑いを浮かべて声を絞り出した。
「そうですね。トマスさんも街までご用事ですか?」
マリアンがトマスに問いかけた。その言葉に違和感はない。
「用事? あっ、旦那様が居た時は休みが取れなかったんで、買い物でもと思って……」
「買い物ですか?」
マリアンが不思議そうな顔をして辺りを見る。
『しっ……しまった』
トマスはマリアンの視線の先を見て焦りまくった。ここは事務街で何かの買い物をするようなところじゃない。何んか、何か考えないと……。
「買い物ついでに、事務街に美味しいお店があるってガラムさんから聞いて、足を運んでみたんだけど、見つからなくって。もう帰ろうかと思っていたところで……」
「そうなんですか? それは残念でしたね」
マリアンが納得したように頷いて見せた。やった、何とか誤魔化せた。トマスが心の中で安堵の溜息を山ほどついた。ガラムさんはいつも僕の事を小馬鹿にするけど、僕だって必死に考えればそれなりに思いつけるんだ。そう自分を山ほど褒めた。
「でもこんなところでマリアンさんに会えたのなら、お店が見つからなかったのも全然残念じゃないよ」
トマスは自分の口から気が付かないうちに勝手にでた台詞に、思わず耳の後ろどころか全身が燃え上がるような気分になった。
「きょ、今日も本当に暑いね」
「そうですね。本当に暑いですね。それに私としても、トマスさんとここで会えて良かったです」
『え”!』
今のは空耳や僕の妄想ではないよな。今確かに、「会えて良かったです」と言ったよな。トマスの頭の中でマリアンのさっきの台詞が、まるで木霊の様に繰り返し響いた。気のせいだろうか、マリアンの表情も、毎朝見る、あの醒めた表情とは違って見える。
『さっきのカップルめ、聞いたか今の台詞を。世界はな、お前達の為だけにあるんじゃないぞ。この僕の為にも、いや僕とマリアンさんの為にあるんだ!』
トマスは心の中でそう叫ぶと、あの二人連れに向って拳を突き上げた。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもないです。本当に、本当に何でもないです」
「トマスさんはまだ何かご予定がありますか?」
「ありません。何もありません!」
「そうですか。では一つお願いがあるのですが?」
「はい。何でしょう」
『買い物に付き合ってとかかな? いくらでも付き合いますよ!』
トマスの心は、今や期待と希望にはち切れんばかりだった。
「私が持って帰るには少しばかり重い荷物がありまして、それをお屋敷まで持って行ってもらってもいいですか?」
「えっ!いいですけど。荷物って……」
「はい。これです」
マリアンが、黒い革の角が丸まったマチが広い鞄をトマスに差し出した。トマスは何気なくそれを手にして驚いた。
『何なんだこれは!?』
トマスは手にかかった重みに思わず前かがみになった。ずっしりなんてもんじゃない。もしかしたら中に石でも詰まっているんじゃないか?
「では、お願いします」
そう言うと、マリアンは毎朝朝食を運んでいく時と同様の、あの冷ややかな表情に戻ると、馬車駅の方へ向かってすたすたと歩きだした。トマスは鞄の重さに足がよろめきそうになりながらも、その後を必死に追いかけて行くしかなかった。
* * *
「ただ今戻りました」
東棟の勝手口のところでマリアンが声を上げた。トマスはというと、もう汗みどろでふらふらだった。最後の近くの集落からこの屋敷までの距離がこんなに遠く感じられたのは初めてだった。どうして人間の体と言うのはこんなにも汗がかけるんだろうか?
だがトマスは歩いている途中でマリアンが自分に水筒を差し出してくれたのを思い出した。これって、彼女が公園で飲んでいた水筒だよな。それを自分が口にしたという事は……。その感動とその後の妄想が無かったら、とてもここまでたどり着けなかったかもしれない。
「お帰りなさい。お二人で出かけていたのですか?」
勝手口の向こうにある侍従の控室から、威厳に満ちたと言うか、触らぬ神にたたりなしと言うか、トマスにとってはあまり聞きたくない声が聞こえて来た。そして部屋からどうやって着ているのかは未だに理解不要な、樽の様な体を侍従服に身を包んだ、コリンズ夫人が顔を出した。
「いえ、街で偶然にお会いして、こちらまで荷物を持ってきていただきました」
「そうですか」
コリンズ夫人は、マリアンの答えにそう返すと、トマスの方をじっと見た。トマスとしてはまるで蛇ににらまれた蛙の様な気分だったが、必死に作り笑いを浮かべて、何度も頷いて見せた。
「フレデリカお嬢様はいかがでしょうか?」
「まだ、ロゼッタさんと勉強室に居ります。なので、夕飯の時までは特にお世話は必要ないと思います」
「はい、了解しました」
「ロゼッタさんも少しやりすぎですね」
コリンズ夫人はそう一言呟くと、用事があるのか奥の方へと去って行った。マリアンと一緒に戻ってきたことについて、山ほどの小言を言われると思っていたトマスの口から、思わず安堵のため息が出る。
「では、僕はここで……」
「すいません。もう少し私の手伝いをしていただけませんでしょうか?」
マリアンはそう告げると、トマスの方へ一歩近づいて両手を顔の前で組んで見せた。マリアンのお願いにトマスが逆らえる訳などない。トマスはマリアンに向かって頷いた。
「あ、はい」
トマスが答えるや否や、マリアンはトマスの手を引いて、奥の方へと入っていく。トマスは握られた手の柔らかさにどぎまぎしながら、ひっぱられるがままにマリアンの後をついて行った。
マリアンは一階の端の通用口を出ると、回り込むように、庭の奥の木立の方へトマスを引きずっていく。庭の木立の中は夕方の陽ざしの陰になって少しばかり薄暗い。それにここは木立が陰になって、屋敷の方からも見えない位置だ。
『これって、何。もしかして僕に何かお礼をしようとしている?』
トマスの心像はどぎまぎなんかを通り越して、今や爆発しそうな勢いで鼓動を打っている。トマスの目の前には軽やかに跳ねるマリアンの髪と、その下にある少し汗ばんだうなじが見えた。今では片手で持つかばんの重さすら感じられない。
ああ、このまま彼女に抱き着くことが出来たらなんて幸せなんだろう。死んでもいい。そこまで考えてトマスは灰の街で彼女に会った時の事を思い出した。
『きっと抱き着いたりしたら本当に殺されるだろうな……』
そんなことを考えているうちにトマスは、庭の少しばかり奥まったところにある東屋の手前、あの能天気娘が新しく花壇を作ろうとしている場所にでた。目の前には新しく土が掘り起こされた後やら、花壇を囲うための煉瓦等が置いてある。
『でももしかしたら……』
この人目がない場所に、トマスが淡い期待を抱いた時だった。マリアンがそこにあったシャベルを手にすると、それをトマスに向かって差し出した。
「トマスさん。では穴を、少し深めの穴を掘る手伝いをお願いします」
そう言うと、シャベルを受け取ったトマスに向かって頭を小さく下げた。
「えっ、穴ですか?」
「穴です。ではよろしくお願いします」
「それと……」
「パン!」
「えっ!」
トマスは驚いてマリアンに打たれた左頬を抑えた。
『確かに、確かに今頬を打たれたよな?』
トマスはあっけに取られた顔でマリアンを見た。マリアンの顔は毎朝朝食を持っていく時と同じく、とても冷たい表情でトマスを見ている。
「相手が誰であろうと、女性の先回りをしたり、後をつけたりしては絶対にいけません。今回だけは特別に見逃してあげます。次は理由の如何に関わらず、即刻、犬の餌です」
「えっ……あの……」
トマスは何か言い訳を言おうとしたが、口からは何も出てこない。
「分かりましたか?」
「はい」
『これって、僕を埋める為の穴じゃないですよね?』