休日
「明日ですが、日中お休みを頂いてもよろしいでしょうか?」
丁度前を通った侍従の控室から漏れて来た会話に、トマスは耳をそばだてた。
「個人的なお休みですか、それともライサ商会に関する所要でしょうか?」
「個人的なお休みです」
トマスの耳にマリアンの声が聞こえて来た。どうやらコリンズ夫人と休みの件について話しをしているらしい。
「分かりました。貴方については、当家は身柄を預かっているだけで、所属は基本的にライサ商会にあるという事で話がついていると聞き及んでおります。なのでライサ商会に関する所要が何かある場合は、遠慮なく言ってください。最大限に考慮します」
「ありがとうございます。私が出かけている間のフレデリカ様のお世話は……」
「フレデリカ様については心配はいりません。ロゼッタさんが寝る間も惜しんで授業をされるとおっしゃっていました」
「はい、了解しました」
扉の向こうで人が動く気配がする。トマスは慌ててその場を離れて、その奥にある料理場へと向かった。これはいい話を聞いた。マリアンさんが明日、個人的な休みを取るという事は、街にでも行くつもりなのだろうか? トマスは心の中でニヤリとした。
灰の街で会った時には暗い事もあり、おっかない男達に囲まれていたのもあって、その顔をまともに見ることすら出来なかった。だがこの家で侍従服姿の彼女を見てからというもの、トマスは完全にマリアンの虜になっていた。
すらりと伸びた手足に、頭の上でまとめた長い髪がとても良く似合っている。それに、あの何とも言いい様のない、こちらを冷ややかに見つめる目。本当に心の底からゾクゾクする。トマスにとってはもう理想としか言えない女性だった。
トマスから見ると、ロゼッタさんも色白な点を除けば、似たような感じの女性ではあるが、年が違い過ぎるし、口を利く機会もほとんどない。だが彼女は同僚なのだ。例え毒見役をやらされるとしても、毎朝会って言葉を交わすことができる。例えその内容があの能天気娘の食事の件のみだとしてもだ。
最初の朝から面食らったが、ともかく彼女の料理に対する指摘は、まさに微に入り細に入りという感じだった。初日のオムレツの油が多すぎです発言から始まって、その後もパンの発酵時間や焼き方、ヨーグルトの固さやら、それはもう山ほどという感じだった。
最初はトマスがそれをガラムに伝える度に、なぜかトマスがガラムから怒声を浴びる事になった。トマスから言えばとばっちり以外の何物でもない。だが、トマスがマリアンからの伝言を伝え続けているうちに、ガラムの態度が徐々に変わっていった。
いつの間にかその指摘を素直に聞いて、トマスを怒鳴りつける代わりに、もう少し柔らかいだの、固い方がなどとぶつぶつと言うだけになり、そのうちトマスが調理室に戻ってくるのを扉の所で待ち構えて、「今日はどうだった?」と聞いてくるまでになった。トマスには一体何がどうなっているのかさっぱりだった。
トマスとしても、生野菜を冷水にさらさなかったら魚の餌だと言われたので、朝から井戸水を汲んで冷水にさらしてから持っていっている。もちろん目を皿のようにして虫がいないかの確認もだ。一度マリアンから罵倒されてみたいという欲求もあるが、魚の餌になってしまっては元も子もない。
そして昨日はマリアンからの伝言が何もなかったので、そのまま昼前の休憩に入ろうとしたら、何をもったいぶっているんだとどつかれて、「何もありませんでした」と答えたトマスに、ガラムは三回も本当に何も言わなかったんだなと確認した後、トマスの目の前で小さく握りこぶしを作ると、やおら鼻歌を歌い始めた。
トマスから言わせれば、どう考えても以前のガラムならあり得ない話だ。もしかしたら、トマスは自分が知らないところで、ガラムの中身が別の人に入れ替わったのかもしれないと思ったぐらいだった。
トマスは以前に誰かから、ガラムは昔は何処かの有名な料理店で有望な若手と言われていたとか聞いたが、新入りの侍従の女の子の指摘に一喜一憂しているのだから、絶対に嘘だと思った。
だがトマスにとって、今はそんなことはどうでもいい話だった。マリアンが明日休みを取ると言うことは、彼女の私服姿が見れる。いや待てよ、自分も休みを取って、偶然に街で会ったふりをするというのはどうだろうか?
『彼女だって僕と会ったらびっくりするだろうし、もしかしたらそこから食事以外の会話が弾むかもしれない』
トマスは勝手な妄想を次々と膨らませると、ガラムから休みをもらうべく、料理人控室の扉を開けた。
「どうしたトマス。そんなに息を切らして。何か急用か?」
扉を勢い良く開けて入ったトマスに、ガラムが不思議そうな顔をして声を掛けた。トマスが見ると、そこには先客が一人いる。ガラムは休憩中のハンスとカードに興じていた。
「あの、ガラムさん。お願いがあるんですけど」
「お願い?」
「はい、明日お休みをもらってもいいですか? 旦那様がいる間は忙しくて休みが取れなかったのと、色々と街で買いたいものもありまして」
「そうか、そう言えばそうだったな。分かった。明日は一日ゆっくりしてこい。それと帰りに卵を少しばかり多めに買って来てくれ」
「卵ですか? 毎朝、近くの農家が届けてくれるじゃないですか? それだと足りないんですか?」
「ああ、おそらく山ほど失敗するからな」
「え!?」
「トマス、お前に料理を教えてやる。まずは卵料理だ。そしてこれが結局のところもっとも難しい料理でもある」
そう言うとガラムはトマスの方を見てにやりと笑った。
『夢じゃないですよね。それに嘘じゃないですよね』
トマスは心の中で何度もこれが夢ではないことを確認した。これでやっと料理人としてのまともな一歩が踏み出せるのだ。
「はい、ガラムさん。了解です!」
トマスは昨日のガラムと同じように、右手を固く握ってそれを何度も振った。
『マリアンさんがここに来てから世界が変わったような気がするぞ。もしかしたらこれは運命と言うやつじゃないのか?』
トマスは勝手な妄想をさらに膨らませ、口笛を一つ吹くと、明日の準備の為に自分の少ない衣服の中から何を着ていくのか決めようと、階段下の自分の居室へ転がるように駆けて行った。
「若いってのはいいね」
それを見たガラムがハンスに向かって口を開いた。
「だけど、それは無謀や夢想とも同義だな」
「確かに違いない」
二人はトマスが去った扉を見ながら、くぐもった笑い声をあげた。
* * *
朝の馬車駅の一番混雑している時間はとうに過ぎていた。馬車駅の待合場所に座っている者達の数は少ない。そのほとんどは、ほどなくやってくる乗合馬車の中へと吸い込まれていく。
乗合馬車に吸い込まれることなく座っているのは、トマスを含めて三人しか居なかった。この三人の中でもトマスは一番最初からこの待合場所に、この中ではもっとも快適であろう、一番端に近い木陰の位置に陣取っていた。
『まだかな?』
トマスは心の中で朝から何回目になるか分からない台詞を呟いた。トマスは朝の早くからマリアンが馬車でここに来るのをずっと待っていたのだ。最初は後をつけようかと思ったのだが、屋敷の前の人通りも何もないところで、後ろをついて歩くわけにはいかない。丸分かりだ。トマスはそこで先回りすることに決めた。
王都の少しばかり郊外にある屋敷から街の方へ行こうとすると、屋敷の前の道を歩いて、近くの集落から、乗合馬車に乗ってこの王都の中心街の脇の駅にくるしかない。だとすれば先に屋敷を出て、ここで待っていればいいのだ。その方が偶然を装って自然に声を掛けられる。
なのでトマスはともかく一番の乗合馬車に間に合うようにかなり早く屋敷を出た。それに一日の休みを取ったので、マリアンが先に出る事はない。彼女は早くてもあの能天気娘の朝食の片づけが終わってから屋敷を出るはずだ。
だが、彼女は一向に現れない。もしかして、服装が普段と全然違っていて見逃したのではないだろうか? そんな考えがトマスの頭の中を行き来する。だが、朝から屋敷の方から来る乗合馬車を目の皿のようにして確認していたのだ。途中で下車でもしない限りは……。
そこまで考えてから、トマスの頭の中に少し手前にある、食料品市場の方で降りたのではないかと言う考えが浮かんだ。てっきり衣料品を買うつもりだと思ってこの終点で待っていた。そうだとすれば、一日待っても来ないかもしれない。真夏だというのに、トマスの背中を冷たく感じる汗が流れた。
「チリン、チリン!」
近づいてきた乗合馬車が到着を示すベルを鳴らしながらこちらに来た。トマスはその馬車の前に掲げてある看板の色を確認すると、再び木の固い椅子の上に座った。その色は黄色だった。屋敷の方から来る便は水色の看板を掲げている。馬車が到着すると駅の係員が昇降台を置いて扉を開けた。
あまり多くはない乗客が少しばかり身を屈めながら地面へと降りてくる。荷物を預けている者は、御者に言って馬車の屋根から荷物を下ろしてもらっていた。
トマスは白い服を着た自分とそう年が変わらない子が降りて来たのを眺めた。少しばかり距離があるのでその顔立ちははっきりとは分からないが、とてもかわいらしい子の様に見える。
その子はトマスがいる待合場所の方をきょろきょろと眺めてから、片手を上げて手を振った。朝から二番目に長く待っていた男が手を上げてそれに答えた。そして男が女性から荷物を受け取り、二人で連れ立って、トマスの方へと歩いてくる。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって。出がけにお母さんが急に用事を言い出すものだから。ずいぶん待ったでしょう」
「いや、全然待ってなんかいないよ。それより、その服はこの前買ったのかい?」
「そう、どうかな似合っているかな?」
「もちろん似合っている。最高だよ」
二人はぺちゃくちゃとおしゃべりをしながらトマスの背後を通って繁華街の方へと歩んでいく。
『けっ!』
トマスは心の中で二人に向かって毒づいた。何が「全然待ってなんかいないよ」だ。朝から自分なんかよりももっと落ち着きなく、そわそわしていた癖に。
『どうか神様。二人の頭の上に石の雨を降らせてやってください』
トマスが神様に向かって、心の中でとんでもないお願いをしていると、再び「チリン、チリン」とベルの音がして、さらにもう一台の乗合馬車がこちらに向かって来た。水色の看板だ。これでもう来ないようならあきらめて屋敷に帰ろう。そして後の半日は寝て過ごしてやるんだ。
トマスは自分と同じ境遇らしい最後の一人の背中を眺めながら、昨晩からの興奮はどこへやら、もう全てがどうでもいい気分になっていた。
「足元に気を付けてください」
さっきの馬車と同じように係員が、昇降台をもって扉を開けて中の乗客たちに声を掛けた。割烹着姿のままのおばさんと、その手に引かれた子供に、少しばかり長いあごひげを持った中年の男性が降りて来た。その後ろに続く乗客の姿はない。これで終わりか? もうなんだかな。トマスはこの馬車に乗って帰るつもりで椅子から腰を上げた。
「お忘れ物はありませんか?」
「はい、大丈夫です」
トマスの耳に、毎朝能天気娘に朝食を持っていくときに聞く、少女の落ち着いた声が聞こえた。
トマスは慌てて日陰を作ってくれていた木の幹に体を寄せると、首だけを出して馬車の方を覗いた。そこには髪を頭の上の方でまとめた、少し日焼けした肌の少女が馬車から頭を出して、地面に降りてこようとしているのが見える。年はそれほど違わないのに、その落ち着いた雰囲気からだろうか、駅の係員の対応も丁寧だ。
トマスは心臓が高鳴るのを感じながら、その姿をじっと見た。さっきの女の子のような白いワンピースなんてものは期待していなかったが、屋敷で見る侍従の制服とかっこも色も似たような感じの服を着ている。だがもっとゆったりとした感じだ。
『そうか、商会の制服なんだ』
街の中では普通の服なのだろうけど、トマスから見たそれはいつもよりとてもかわいらしく、そして街の少女らしい姿に見えた。トマスの頭の中で、商会で働いているマリアンと、店の仕込みが終わった自分が、ちょっとした休憩時間に裏手の広場で逢引きする場面が映し出されている。
『いけない!』
トマスは勝手な妄想を頭から追い出すと、慌てて木の陰から出て、商会などが並ぶ事務街の方へ歩いていく、マリアンの後ろを追いかけ始めた。そして駅に残った朝からいる最後の一人の背後を抜けようとしながら、
『頑張れよ』
と心の中で声を掛けた。だがトマスの耳にはその男からいびきが漏れているのが聞こえて来る。もしかしてこの男は朝からずっと寝ていただけ?
トマスはさっきの少しばかり勝ち誇っていた気分が台無しになったのをかなり残念に思いながらも、前をいくマリアンを見失わないように小走りに追いかけた。そしてトマスの頭の中では、どうやって偶然を装ってマリアンに声をかけようか?
そんな考えでいっぱいだった。