先輩
男はその仕事のやり方からフクロウと呼ばれていた。あまりにもその名前で呼ばれてきたため、もう自分の名前が何だったのかを思い出すのにも苦労するほどだった。
男がどうしてフクロウと呼ばれるかと言うと、男が夜に仕事をするからだが、それはこの世界では普通の事だ。それを真昼間にやるやつなんかほとんどいない。単に夜にやるからだけではなく、前もって忍び込んでじっと夜になるのを待つからだった。
さっと忍び込んで、さっさと逃げる事が多いこの世界では、確かにそのやり方はちょっとばかり変わっていた。
男は一日以上かけてたどり着いた建物の屋上、その煙突がついた尖塔の陰で、黒い布を被ってじっとしている。もう夜半をすぎた時刻だ。ここに半日以上隠れているが、誰かに気が付かれた気配はない。
夕刻の日が落ちる頃、点検だろうか、女侍従の一人が屋上をぐるりと見渡して、扉の錠を確認して降りていっただけだった。その時も男は夕刻のわずかな光の陰になる位置で、じっと身を隠していた。人と言うのは二本足で歩くせいか、常に足元ばかりを気にする。点検にきた侍従も、屋上とそこから下をぐるりと見ただけだった。
しばらくの間、煌々と夜を照らしていた二つの月はない。新月だ。それに今日は薄い雲もかかっていて、星明かりすらない。建物の入り口に置かれた油灯の明かりだけが、黄色い光でところどころを照らしているだけだ。
例え月明かりが無くても男は困ったりはしない。むしろ邪魔だった。本物のフクロウほどではないが、男は夜目が効く上に、すでに頭の中に目標まで到達する手順と、そこから離れる手順も入っている。男はそれがあれば、目をつむっていても正確に動くことが出来る。
目標が寝入ってからまだ一時間ほどになる少し手前、一番眠りが深くなる時間になった。本来夏は眠りが浅くなるのでこの仕事には向かない。だが目標の部屋から漏れる灯は、かなり遅くまで庭に小さなぼんやりとした黄色い明かりを映していた。
それに男の鋭敏な耳には、その部屋から漏れる家庭教師の叱責の声と、それに答える目標の声がずっと聞こえていた。疲労しているであろうから、例え夏の夜であろうとも、ぐっすりと寝ている事だろう。
男は隠れていた布から顔を出すと、それを素早く畳んで黒い服の内側へと入れた。何かに光らぬように目の周りなど、どうしても露出する部分も真っ黒に塗ってある。男はまるで蜘蛛を思わせるような動きで塔から屋上に降りると、目標の部屋の真上の位置へと移動した。
ここから細く目立たぬ綱を下ろして、目標の窓の位置まで降りるのだ。相変わらず辺りには何の気配もない。何かあるとすれば、遠く入り口に置かれた油灯の周りを回る羽虫の音ぐらいだ。
だが男が服の内側から縄を取り出そうとしたところで、体の中心にとてつもない衝撃が走った。そこから熱い何かと痺れが全身に広がって行く。何だ。目をおろすと、自分の胸のところから何かが突き出している。これは……これは……何なんだ……。何処にも……何の気配も……無かったはずだ。
男にはそれ以上何かを考える力はもうなかった。男の耳に遠くでフクロウが泣く声が聞こえた様な気がした。だがそれは、力を失った男の肺から漏れでた息が、気管を通り抜けた音だった。
* * *
「そんなところから覗いていないで、出て来ていただけませんでしょうか?」
マリアンは、頭の上にある小さな尖塔の陰に向かって声を掛けた。
「一人だと下まで運べませんので、手伝って頂きたいのです。それに不要な音を立てて、フレデリカ様のお休みの邪魔はしたくありません」
「そう言う事なら、それは男の力仕事と言う事でしょうな」
影の中から男性が一人、姿を現した。その手には小さな鉈のようなものが握られている。
「なかなかの手際ですね。直前まで、私も気配が分からなかった。私の師匠は殺気や気配と言うのを本当に消してしまえる人だったので、とても懐かしい気がしましたよ」
ハンスは自分の言葉に無言の相手を見て、頭をかいて見せた。
「これは嫌味じゃないですよ。純粋に褒めているのです。私は現場を離れてからずいぶん立つのですが、もしかして貴方は私の後輩ですかね?」
「何の事です?」
「『例の筋』とか呼ばれる組織です。もっとも最近ほとんど、あちらの世界にいったはずですが」
「『例の筋』とか言うのはなんの事ですか? さっぱり分からないのですが?」
「でしょうね。もしそうなら、こんなところにずっと居られるわけではないですからね。これも褒めているのですよ。貴方が『例の筋』の一員だとしたら、今すぐにでも10人衆の一人ぐらいにはなれるでしょう」
「私にとってはどうでもいい話です。すみませんが、頭の方を持って頂いてよろしいでしょうか? これをさっさと始末して、これを送り込んだところまで行かないといけないのです」
「今晩ですか?」
ハンスは少しばかり驚いた顔をして、侍従姿の少女を見た。
「もちろんです。フレデリカ様の命を狙った者がこの世に一分、いや一秒でも長くいるなんて事はとても許せることではありません」
「なるほど。貴方のフレデリカお嬢様に対する忠誠心は見事なものですね」
「それも褒めて頂いているのでしょうか? それとも嫌味ですか?」
「もちろん褒めているのですよ。ですが元がどこか当てはあるのですか?」
「はい。フレデリカ様の命を狙うとしたら、グローヴズ伯爵以外に居ません」
「この間、カミラ奥様のところに、それはそれは丁寧な謝罪をしに来た見たいですが?」
「そんなものを真に受けるのは、ここの奥様ぐらいではないでしょうか?」
そう言い切ったマリアンに向かってハンスは苦笑した。
「なるほど、良く分かっておいでですね。あなたは本当に見かけ通りの歳ですか? ですが、もしかしてその短剣を片手に、グローヴズ伯爵家まで行かれるつもりですかね」
「それが何か?」
ハンスの言葉にマリアンが首を傾げて見せた。
「マリアンさん、今はほとんど失われているようですが、かつてのこの世界の仕事には色々と約束、いや、ある種の美徳という物がありましてね」
「一体何のことでしょうか?」
「明白に暗殺だと分かる様な暗殺は、暗殺とは呼べないものだという話です」
「暗殺と呼べない?」
マリアンの問いかけに、ハンスが頷いて見せた。
「そうです。どう見ても事故か、自然死にしか見えない。でもちょっとだけ都合が良すぎるようにも思える。そういうものであるべきだという考え方です」
「それでは、その者に負わせるべき報いを十分に与えられていないような気がしますが?」
「それでいいのです。明確に分かったりしたら、お互いに仕返し合戦になって、最後は頼む者も、頼まれる相手も居なくなってしまいます。何事もほどほどと言うのが丁度いいのです」
「要するに、ハンスさんがおっしゃりたいことは……」
「はい。今回はここで先に働く先輩の顔を立てて、私に任せて頂きたいのですよ」
マリアンはしばし考える表情をしたが、ハンスに向かって頷いて見せた。
「こちらも任せておいてください。私が飼っている犬の一匹はちょっと変わったやつでしてね。たまにこういうのを与えてやると大層喜ぶのですよ」
「分かりました。では後片付けもお願いしてよろしいでしょうか?」
「はい、マリアンさん。喜んで引き受けさせて頂きます。ではおやすみなさい。短剣は抜くと掃除が大変なので、後で洗ってから届けます」
ハンスはマリアンにそう告げると、暗殺者の死体を肩に担いで、階下への扉の向こうへと去って行った。
「上には、上がいるのね」
マリアンはそう一言呟くと、ハンスが去った扉をじっと見つめた。
* * *
グローヴズ伯爵テオドルスは、侍従が持って来たお茶と報告書を見ながら、朝の着替えをしていた。背後で侍従頭が彼の頭からナイトキャップを取るのを待って、侍従頭が手にした上着に手を通す。彼が送った長い手からの報告は未だないが、テオドルスはさほど心配はしていなかった。
あの者はともかく用心深い男だ。おそらく脱出にも時間をかけているのだろう。報告を待たなくても、カスティオールで何が起こったかは、内務省を通じてこちらの耳に入ってくるはずだ。
この世界では相手が頭を深く下げている時ほど、その手の中に短剣を隠し持っていると考えるべき世界だと言うのに、あの家の者は安心して、己の虚栄心を膨らませている。全くもって愚かな事だ。
最初からこうすれば良かったのだ。魔法職なんてものを使って、こちらのやることを派手に宣伝して見せようと思ったのが間違いの元だった。
テオドルスは既に終わった過去の何かではなく、未来の何かについて考え始めた。カスティオールの後釜争いはここからが本番なのだ。これで誰も、グローヴズ家がそれから降りたとは思わないだろう。むしろ、こちらの動きに、次の一手に注視してくるはずだ。テオドルスは心の中でほくそ笑んだ。
やっかいごとが一つ片付いたせいだろうか、今日は少しばかり浮ついた気分がする。そのせいか、胸の鼓動が直接耳に響いてくるような感じだ。起きがけに動悸を感じるだなんて、自分もいささか年をとって来たと言う事なのだろうか?
そんな事を考えながら、着替えが終わったテオドルスは侍従長が開けた扉を抜けると、階下の食堂へ向かうために、吹き抜けになっている階段を一階に向かって降り始めた。何だろう、何かおかしい。さっきから感じている動悸がより酷くなってきたような気がする。
その時だった。吹き抜けの先、正面にある大きな硝子の明り取りの先から何か眩しい光がテオドルスの目に入って来た。なんだこれは、庭の池に日の光でも反射しているんだろうか?
だがそこで、テオドルスは自分が自分の体を全く制御できていないことに気が付いた。階段へと一歩踏みだした足が宙でそのまま固まっている。
テオドルスは慌てて手すりの方へと手を伸ばそうとしたが、腕も動かない。テオドルスは自分の体が、まるで石になってしまったかのように感じた。そんなことを考えている間にも、自分の体は階段の方へと傾いている。
『まずい!』
このままでは、まともに下まで転がり落ちてしまう。いやもう転がり落ちようとしていた。テオドルスは自分の体が階段の上を転がり落ちていくのと、誰かが自分の名前を、背後から叫んでいるのを聞いたような気がした。