少年
本来なら既に学習の時間だったが、私はロゼッタさんの部屋の前の廊下に立っている。
「ロゼッタさん」
少し、いや、かなり後ろめたい気分になりながらも、扉の向こう声を掛けた。
「フレデリカお嬢様、大変申し訳ありませんが、体調がすぐれないため、午前中の学習は自習に、させていただけませんでしょうか?」
「あの、大丈夫でしょうか?」
そう問いつつも、心の中では焦りまくってしまう。もしかして、量を入れすぎました!?
「はい、大丈夫です。お嬢様。単に気分が優れないだけです」
バン!
私がもう一度ノックして、容態を聞こうとした時だ。扉が急に開かれて、青ざめた表情をしたロゼッタさんが顔を出した。
「さっさと部屋に戻って、自習してください!」
そう言うと廊下を先へと駆け去っていく。
「ごめんなさい」
私は廊下の角から姿を消したロゼッタさんに、頭を下げた。本当にごめんなさい。やっぱり少し入れすぎました?
ロゼッタさんは健康と美容のためと言って、毎食必ず野菜を取る。時にはそれを生で塩と油にお酢、または果実の汁を掛けたもので食べている。それを食べている姿は、とってもおしゃれでかっこいいのだけど、今朝はそれにあるものを、ちょっとだけ混ぜさせていただいた。
花壇の水仙の葉だ。
水仙は丸ごと毒のような植物で、しかも見た目はニラやネギと変わらない。前世で八百屋をやっていたときに、とあ農家がニラに水仙の葉を混ぜてしまい、得意先に卸す寸前に気がついた事があったぐらいだ。
それに苦みや匂いもあまりしない。球根なんて食べたら本当に死んでしまうような代物だ。茎や葉を間違って食べても、吐き気や嘔吐で半日程度は苦しむことになる。
ロゼッタさん、本当に、本当に、すいません。色々と知恵を絞ってみたのですが、これ以外に方法が思いつきませんでした。いつか白状して、頭を床にこすりつけて謝ります。
もしロゼッタさんが亡くなってしまったりしたら、私も死んでお詫びします。でも……許してもらえるかな? あっさり殺されそうな気もする。
だがこれで自習時間、つまり私は行動の自由を手に入れることが出来た。と言っても、せいぜいがこの屋敷の中をウロウロ出来る程度です。でも急いては事を仕損じます。
やらかして、安全の為とか称して地下室辺りに監禁なんてされたら、元も子もありません。その点については前世で十分に学びました。
もしかしたら魔法職と言うのは、私がもったささやかな毒すら簡単に克服する存在なら厄介だが、どうやらそんな事はないらしい。私はロゼッタさんが、お手洗いからしばらく戻ってくる気配がないのを確認すると、さっそく行動を開始した。
この時間は早朝からの朝の支度や片付けが終わって、侍従さんやらお手伝いさんも休憩している時間だ。それに私が居る東棟は、カミラお母さまやアンとは別棟で特に人が居ない、と言うか全てロゼッタさん任せで、ほったらかしにされている。
人気のない廊下を進む。それにこの為に今日はともかく黒を基調とした、目立たないかっこうをしている。気分はもう忍びの者だ。因みにこの黒い服はいらぬ疑いが掛からぬように前日から着用している。
急に黒い服を着た私を見て、ロゼッタさんが怪訝そうな顔をしたが、昨日花壇で鳥さんの亡骸を見つけたので、それに祈りを捧げたいのですと、前世の私なら言った本人が恥ずかしさに爆死しそうな理由を告げると、ロゼッタさんはなぜか納得してくれた。
やっぱりフレアと私は別物かもしれません。いや、そんなことはありません!単に育ちの違いだけです! 全て周りのせいです!
そんなことを考えている間にも、私は階段を降りて、目的の場所に到着した。少し薄暗くて、普段はあまり来たことがない場所だ。まだ私が幼かったころ、第一夫人だったアンナお母さまは私を連れて、結構色々なところに顔を出していた。
もちろん侍従長のコリンズ夫人からは、小言の山を言われていたと思うのだけど、記憶中のお母さまは、それを気にしていたそぶりは全くなかった。
そうか!
お母さまは聞いた振りをして、全く聞いていないという技を持っていたのですね。流石はお母さまです。生きている間に、私に伝授しておいて頂きたかったです。
トン、トン!
私はランプの明かりだけが頼りな薄暗い中で、目の前の簡素な戸を叩いた。
「何すっか? 今は一応は休憩時間なんですけど」
中から私とそう年が違わない、だけど精いっぱい虚勢をはったような声が聞こえてきた。フフフ、きっと誰か大人のまねをしているんだろうな。東棟の料理番のガラムさん辺りかな?
ガチャという把手を回す音がして扉が開いた。
「お休みのところ、大変申し訳ありません」
私は扉の向こう側に立っている人物に向かって、丁寧に頭を下げた。
「フ、フッ、フレデリカ、お嬢様!?」
「はい」
私は顔を上げると、目の前の少年に向かってにっこりとほほ笑んで見せた。私を見た彼が震えている。ちょっと待て、その恐怖に満ちた表情は何ですか?
こっちは花の14歳の乙女ですよ。前世で散々追い回された森のマ者じゃないんです。どうしてそんなに恐れているんですか?
「あの……」
目の前の少年が私にどう答えていいか分からずに言い淀んでいるが、そんなのは無視です。
「トマスさん、失礼します」
私は彼の横を、正しくは、ほとんど突き飛ばして通って、料理人の控室に入ると、後ろ手で扉を閉めた。彼は背後に在った机に寄りかかる感じで、相変わらず恐怖の表情でこちらを見ている。もしかして、私に怒られるとでも思っているのだろうか?
机の上にはほとんど手を付けないで下げた、ロゼッタさんの朝食が乗っている。もしかしてお前はそれを食べようとしていた?
「トマスさん。そちらの食事ですが、その生野菜は食べない方がいいと思います。と言うか絶対に食べてはいけません!」
「はっ?」
「虫がついています。それもお腹がいたくなる虫です。分かりましたか?」
「はっ、はい」
少年、まだ声が裏がえっているぞ。それに何、脱いだ料理服やらが散らかっているこの汚い部屋は?この汚い部屋をそのままに、君達は私の食事を作っている訳?
まあ、他の人に作ってもらえるだけでもすごく幸せな事なので、これは見なかったことにします。コリンズ夫人が見たら大変ですよ!
「トマスさん、トマスさんにお願いがあります」
「お、お願いですか?」
だから、そのお化けでも見るような顔はそろそろ止めてもらえませんか? 19、もとい14歳の乙女としてはかなり傷つくんですけど。
「はい。お忙しいことはよく分かっていますが、私の質問の相手になっていいただきたいのです。それと秘密のお使いもお願いします」
私はここでもう一度頭を下げた。これは私の単なるわがままだ。彼にとっては本当に迷惑以外の何物でもない。
「質問、それにお使い!?」
「はい。ここではパンは、一つおいくらでしょうか? その前にお金の単位はどうなっていますか? 金貨とか、銀貨とかあるのでしょうか?」
「あの、ロゼッタ様に聞けばよくありませんか? それにお嬢様はそんな心配など……」
ロゼッタさんにいきなりそんなことを聞いたら、不審に思われるに決まっているだろうが!
「私は世の中の事を、本当の生活を知りたいのですが、そのような事を聞くと、コリンズ夫人やロゼッタさんに心配されます。というか、しかられてしまうかもしれません。ですがそれを知らずに生きていくことなど、私には出来ません」
「フレデリカお嬢様?」
トマス、この料理人見習の少年の顔には、さっきまでの恐怖一色の表情から、少しは感心するような、それでいて不思議がるような表情に変わった。
「それとちょっと前に、私はある方に命を救われたのですが、残念な事に、その方に会いに行くことも、こちらに招待することもできません。トマスさん、私の代わりにその方に会いに行って、私の言葉を伝えてもらいたいのです。またその方からの返事も頂いて来て欲しいのです」
「それもハンスさんに……」
「それでは私の本当の気持ちを、感謝の言葉をお伝えする事は出来ません。残念ながら、私はその為のお金をトマスさんにお支払いすることも出来ません。ですが私が少しでも自由になるお金を得る事が出来た時には、必ずお礼はさせていただきます」
お願い!これ以上は余計な事を言わないで、『うん』と言ってちょうだい。じゃないとあんたがロゼッタさんの湯あみを、外から覗こうとしていたのをばらすと脅しますよ。
窓から見えた小さな影は、間違いなくお前だろう? ばれたらきっと大変な事になりますよ。間違いなく遠いところに送られます。あっさり殺されたら幸運なぐらいだと思います。
「僕は……私はいいですが、お会いすることなど、とても出来ないと思いますけど……」
「それについては、考えがあります。私の食事はトマスさんから侍従さんに渡されて、そしてトマスさんのところに戻るはずです。そこに私が質問したい事やお願いしたいことを紙に書いて、皿の下に糊か何かで張り付けておきます。トマスさんも、回答を同じようにつけて返してください」
「文通ですか!?」
「そうです。トマスさんは私の文通相手のお友達です。ですから、もし二人きりで会う時は私を『フレア』と呼んでください。お願いします」
「あの、本当に!?」
「はい。あまり時間もありません。お使い先の場所の確認と、そして私が先ず聞きたいことを、質問させていただきます」
これ以上、グタグタ言ったら、本当にロゼッタさんにばらしますよ。