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閑話

 暑い。ひたすら暑い。


 私が何をやっているかと言うと、夏の炎天下の下、一季咲きの薔薇の剪定作業です。カミラお母さまがやっているのを見よう見まねでやっているのですが、どうもうまく切れません。


 カミラお母さまは、何も考えていないみたいに、パチパチと古い主幹枝を切って行かれるのですが、私は一本切る度に、切りすぎではないか、あるいはもっと身軽にしてやらないといけないのではないかと、いちいち悩みながらの作業です。


 それにこの時期の直射日光は薔薇の大敵です。マリに手伝ってもらって作った、黒い布を張った幕のようなものを花壇の前において、日影を作ってあげる必要があります。


 ともかく薔薇は、今迄私が育てた水仙のような球根の品種と比べると、段違いに手間がかかります。薔薇に関して言うと、カミラお母さまはロゼッタさんと同様、とてつもなく偉大です。私が決して超えることが出来ない大きな壁です。


 本当だったらこの時期は学園への入学の為に、授業を受けるための服とか、私室での服とか、お茶会に出るときの服とか、ともかく色々と準備が山ほどあって忙しいのですが、私の場合はそれ以前に、カスティオールにお金がないために、現時点では何もすることがありません。つまり、金策の方が先という事です。


 それにかこつけて、毎日の薔薇の手入れと、ひそかに花壇の拡張作業に従事しています。花壇の拡張は倉庫に煉瓦とか、材料だけがあるのを偶然に見つけてしまいました。これはきっと今よりまだお金があったときに用意して、そのまま忘れ去られたものだと思います。


 これは私にとっては宝の山です。この家は古いですから、探せば色々ともっと出てきそうな気がしますが、古い家にはお化けも居そうな気がするので、二の足を踏んでいます。いけません。そんな事を考えると夜にお手洗いに行けなくなるので、頭の中で歌でも歌って追い出します。


 私の花壇の一部は野菜の栽培に使われていて、そこには茄子とトマトという夏野菜が植えられており、収穫の時期を迎えています。花壇と称して、野菜の栽培場所を拡張することを企んでいる次第です。食べ物は大事ですからね。前世で八百屋をやっているときに、農家の機嫌を取るために我慢して聞いていた苦労話が、こんなところで役に立つとは思いませんでした。


 私の育てた野菜はロゼッタさんをはじめ、一部の人に好評らしく、ハンスさんも土を掘り返すのを手伝ってくれました。もっともそんな姿や、泥だらけの服が露見すると、コリンズ夫人から大目玉を食らいますが、その辺りはマリが汚れた服を事前に洗ってくれるおかげで、大分融通が利くようになりました。


 もっとも花壇での作業だけでなく、学園へ入学するための準備として、侯爵家のものとして恥ずかしい成績を取ることが無いようにと、ロゼッタさんから集中授業も受けています。理解できているかと聞かれると、ちょっと自信はありませんが、今までよりは遥かに真面目に受けています。


 昨日はそれの試験までやらされました。前に真剣に勉強することを誓いましたが、当分の間、授業はもういいです。しばらく休ませてください。これ以上、授業とか言うものを受けたら、間違いなく壊れてしまいます。


 ジェシカお姉さまは、学園に行ってときめいてこいなんて、前世で読んだ乙女本そのままの台詞を私に吐いてくれましたが、よく考えると、学園なんかに行くと、マリと一緒に居られなくなるじゃないですか。それにロゼッタさんともお別れです。もしかしたら学園に行かなくても、ロゼッタさんとはお別れになってしまうんだろうか?


 色々考えると、お金が無くて学園にいけない事は決して悪い事じゃないような気がしてきた。いや、どう考えてもお披露目で会った連中がさらに大きくなって、より意地悪になった巣窟に行くことになるかと思うと、近寄らないのが一番なのではないだろうか?


 これについては、混じりっけ無しのフレアも同じ考えだ。うん、やっぱり無理はやめておこう。ときめきとか言うのはもっと後で十分です。


「フレアさん」


 私の背後で日傘を持ってくれているマリが私に声をかけてきた。私は少しばかりはしたないけど、首に巻いていた布で額と首筋の汗を拭うと、腰に背を当てて、背伸びをしながらマリの方を振り返った。比較的薄着の私に対して、マリは首元まで襟がある、侍従服姿で立っている。さすがにマリの額にも汗が噴き出しているのが見えた。


「マリ、ちょっと待って、汗を拭いてあげる」


 私は襟元のタオル地の布を首から外すと、それでマリの額と首筋を拭いてあげた。流石にこの侍従服で外は厳しいらしく、顔が少し赤らんでいる。もっと薄着というか、風通しがいい侍従服は無いのだろうか? これはもう懲罰と言っていいような気がします。


 コリンズ夫人が長年これで通せるのが不思議でしょうがない。あの人は汗をかかないのだろうか? もしかしたら蛇や蜥蜴と同じ類?


「少しだけ、お側を離れてもよろしいでしょうか?」


 マリの問いかけに、私はコリンズ夫人が実は人ではないのではないかと言う妄想から解き放たれた。


「ええ、大丈夫です」


 もちろんです。いくら親友でも四六時中一緒だと疲れますよね。私だって寝台の上で誰にはばかることなく大の字になって、『疲れた~~』とかぼやく時間が必要です。でも、マリは私の側から離れて何をしようとしているのだろうか?


「どこかにお出かけですか?」


「いえ、違います。ライサ商会から新任の会計係が派遣されている事はご存じでしょうか?」


 会計係? 今までは西棟のモーリッツ侍従頭がしていたはずだけど、いつの間に変わったのだろうか?


「ごめんなさい。知りませんでした」


「ここに来る前に少しの間だけ、ライサ商会で働いていて、その時の同僚なんです。彼女から簿記の基礎を教わる事になっていまして、それを受ける為に1~2時間ほどお側を離れさせて頂きます」


 えっ、マリは商会で簿記を習っていたんですか? なんて羨ましい。前世ではこれでも、父が亡くなってから女手一つで八百屋を経営していたんです。居候は居ましたけど、帳簿に関しては何の役にも立ちませんでした。


「それはどこで受けるの?」


「はい、東棟の図書室で受ける事になっています」


「お願いがあります!」


「な、何でしょう?」


「是非、私にその方を紹介して頂けませんでしょうか? それにできれば、その授業を一緒に受けさせて頂きたいのです」


「一緒にですか?」


 私のお願いにマリがびっくりした顔をしている。


「もちろんです」


 前言撤回です。簿記の授業なら喜んで受けます。いや、私に是非受けさせてください。お願いします。前世の八百屋同様、カスティオールだって、いつまであるか分からないじゃないですか!?


* * *


 モニカはとてつもなく戸惑っていた。自分が住んでいたカスティオール領の領主、カスティオール侯爵家の長女である、フレデリカ様が目の前に座っている。ここはカスティオール侯のお屋敷なのだから、フレデリカ様がいること自体は不思議ではない。


 だが、よく分からないが、これから簿記の説明をすると言うのに、とてもニコニコした顔をしてマリアンさんの隣に座っている。この方は簿記と言うのを、何かの物語と勘違いしているのでは無いだろうか?


 この部屋で久しぶりにマリアンさんに会った時には、そのあまりにも似合っている紺色の侍従姿に、耳の後ろが熱くなるくらい心がときめいたのだけど、その後ろから現れた赤毛の少女が、自分に対してとても丁寧なあいさつをしてくれて、「フレデリカ・カスティオールです」と名乗った時には本当に心臓が止まるかと思った。


「あの、これから簿記と言いますか、会計の基礎について説明させて頂きますが、本当によろしいのでしょうか?」


「はい、モニカさん。よろしくお願い致します」


 マリアンさんと同い年らしい赤毛の少女が目をキラキラさせてこちらを見る。簿記の説明を目をキラキラさせて受けること自体が異常だ。自分だって最初は嫌で嫌でしょうがなかったのを、父からの手ほどきで無理やり覚えさせられたぐらいだ。


 モニカは助けを求めてマリアンの方を見た。普通なら自分の主人が商会の者から簿記を習うなんて事を言い出したら、驚くか呆れるかのいずれかだと思うのだけど、マリアンの表情からは何も読み取ることは出来ない。いや、むしろ当たり前のこととして受け止めているように思える。全く持って意味不明だ。


 エイブラム代表の口振りでは、マリアンさんはもともとここで働きたいと希望していたみたいだけど、この赤毛の女性がマリアンさんが仕えたい相手? 正直、貴族の令嬢としての何かを感じさせるところは無い。普通の市井に居る私と同じ様な女性にしか見えない。


「では、始めさせて頂きます」


 モニカは頭の中に浮かんだ山ほどの疑問を振り払うと、マリアンの方に向き直った。自分がエイブラム代表や、コリー会計頭に出した計画の遂行には、マリアンさんに是非とも力になってもらわないといけない。


「では、前回の続きで支払いを手形で受け取った場合についてです。決済を手形で行う理由は何か分かりますでしょうか?」


 マリアンさんが、少しばかり首を傾げて見せる。そうですよね、すぐには思いつかないですよね。モニカが答えを言おうとした時だった。


「はい!」


 赤毛の少女が元気よく手を上げた。


「あ……あの、フレデリカ様、何か質問でしょうか?」


「マリアンさんに代わって、私の方から回答を述べてもよろしいでしょうか? それと、モニカさんは私の先生ですから、この場では、どうか私の事は『フレア』と呼んでください」


「あの、ちょっとそれは……」


「お願いします!」


「では、フレアさん。理由を教えてください」


「それは、直接の取引相手以外とも決済を出来るようにするためです」


「えっ!」


「流石はフレデリカ様です」


「マリも私の事を少しは見直した?」


「見直すも何も、私は常にフレデリカ様の事を信じています」


「マリさん、それって間違いですよ。これは信じるかどうかの問題では無くて、正しいかどうかの問題です。モニカ先生、そうですよね?」


「あ……はい。当たっています。失礼ですが、フレデリカ様はどこかで簿記というか、会計の事を学ばれたのでしょうか?」


「お願いですから、『フレデリカ様』は止めてください。母が家業として八百屋をやっていまして、その手ほどきなので自己流ですけど……」


「八百屋ですか!?」


 やっぱり理由は良く分からないが、赤毛の少女がしまったと言う顔をしている。それに家業が八百屋って一体どういう事なのだろう。


「フレデリカ様が小さい時に、お母さまと八百屋さんごっこをしていて、そこで学ばれたという事でしょうか?」


「え、仕入れとか……。あっ!そうでした。母と八百屋さんごっこをしながら学びました」


「そんなに小さい時にですか?」


「えっ、そうです。亡くなった母は商家の方と色々と付き合いがありまして、これからは八百屋だとか言って居た様な気がします。そうですよね、マリさん?」


「はい。おっしゃる通りです」


 モニカは二人のやり取りをあっけにとられて見ていた。良く分からないが、この赤毛の子が言っている事に間違いはない。極めて本質的かつ簡潔な答えだ。


 モニカはここの会計係という侍従長を兼ねている男性と話をした時に、頭が痛くなる思いがしたのを思い出した。その男性は会計と言うのは金庫番だと思っているのではないかと思うぐらいのど素人だった。この家には、自分と一緒にここを立て直す人材なんてとてもいない。やはりマリアンさんと自分で頑張るしかないと思っていた。


 だが、この赤毛の少女の答えは、まるで商売をしたことがあるような発言だった。まさか自分が欲していた人材が、カスティオールのご令嬢だったなんて。エイブラム代表になんて説明すればいいんだろう?きっと、いや絶対に信じてなんてくれない!


「バタン!」


 その時だった。講義の部屋として使わせてもらっている、図書室の扉が勢いよく開いた。


「こちらに、フレデリカお嬢様は居ますか?」


 まるで法務省の裁判官のような声が図書室の中に響いた。その声にモニカが扉の方を向くと、そこには自分より年上の、色白の美しい人ではあるが、少しばかり冷たい感じがする女性が、何やら書類の束のようなものを手に立っている。誰だろう? 商会の制服のようなものを着ているが、もっと地味な、やはり裁判所の書記の制服のような感じだ。


「ロゼッタさん?」


「フレデリカ、そこに居ましたか。今すぐ勉強室までおいでください」


「あの、今はモニカ先生から、会計の基礎を教えて頂いていまして……」


「モニカ先生?」


「あ、はじめまして。ライサ商会からこちらに会計係として派遣されてきました、モニカと申します。これからこちらに住み込みで働かせていただきます。どうかよろしくお願い致します」


「ロゼッタと申します。こちらのフレデリカ様の家庭教師をさせて頂いております」


 これは、家庭教師の制服なんだ。


「フレデリカ様は学園への入学を控えておりまして、現時点の学力では、学園での授業について行けるかどうか極めて心もとない状況です。一分、一秒を惜しんで勉学に励まないといけません。つきましては、大変申し訳ありませんが、こちらの授業を中座させていただきたいと思います」


「え……でも集中授業は終わったはずでは……」


「フレデリカ様、何を言っているのですか? 先ほどフレデリカ様の試験の採点が終わったところです。その結果を見る限り、とても終わったとはいえません。いえ、終わるどころか始まってもいないようです。では、時間がありませんので、今すぐ私と共に勉強室迄来てください」


「あ……あの……ロゼッタさん。耳を……耳を引っ張るのは止めてください。痛い、痛いです、ロゼッタさん!」


 モニカは、家庭教師と言う女性から耳を引っ張られながら、赤毛の少女が図書室の外へと連れ出されていくのを、またもあっけにとられて見ていた。この状況に、目の前にいるマリアンさんには全く動じたところはない。


「モニカさん、私は早くフレデリカ様に追いつかないといけません、どうか続きをお願いいたします」


「はっ、はい」


 モニカは慌てて手形による複数の商会の決済を行う場合の説明の図を机の上に広げながら、自分達の領主であるカスティオール侯爵家について考えていた。自分が噂に聞く貴族の家とは全く違う所らしい。モニカはそう思った。


 いや、他の貴族が同じとは到底思えなかった。

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