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研究者

 遥か昔には墓だったのか、それとも集会場だったのか、崩れた大きな岩がいくつもある、その小さな瘤のような丘から見えるのは、田舎の牧歌的な風景そのものだった。


 なだらかに広がった牧草地。そこには白詰草の白い花が広がり、その間を蝶がせわしげに舞っている。遠くには人の営みを表す小さな塔を持つ街も見え、そこから上がった黒い煙が、少しばかり潮気を含む風に西へ西へと押し流されていた。


 メルヴィはそんな景色をぼんやりと眺めながら、夏の厳しい日差しを避けるために、少しばかり大きな岩の影に居た。それでも天高く上った太陽から降り注ぐ光は、メルヴィがかぶっている白いつば広帽子の半分ぐらいまで、燦燦と降り注いでいる。


 この小さな丘の上を吹き抜ける風は爽やかだったが、それでも首筋を汗が一滴、一滴と流れ落ちては、夏用の麻の肌着を濡らしていく。それがとても気持ち悪かった。メルヴィの気分を押し下げているのは背中の汗だけではない。隣にいる、こんなところまで自分を連れてきておきながら、一向にやる気があるように見えない男もそうだった。


「もう、後どれだけ待てばいいんですか?」


 メルヴィはたまらず隣にいる男に声をかけた。男はメルヴィと同じような、でも黒いつば広帽子をかぶっており、薄い茶色の麻の上着と、それより少しは濃い茶色のズボンをはいている。そしてその両足をまるで遊び疲れた子供の様に、だらしなく地面にそのまま投げ出していた。男はメルヴィの問いかけに全く反応することなく、投げ出した足の先の草むらを舞っている黄色い蝶を目で追っている。


「教授!」


「えっ何、何か言った?」


 隣の男が夢から覚めたみたいに驚いて見せた。


「ハッセ教授!」


『もしかして目を開けたまま気絶していました?』


 メルヴィは心の中で文句を言った。この人にこんな文句を言っても、目を開けていても気絶はできるとか、出来ないとか、全く違う話にすり替わるだけだ。


「後どれだけ待てばいいんですか?」


「そうか。いつの間にか昼近くまでなったな。お腹が減ったんだね。朝食の残りのパンがあるからそれでも。あれ、あるはずだがな。おかしいな。食べた記憶はないんだけど。メルヴィ君、僕が食べたかどうか覚えているかい?」


「知りません」


 メルヴィは心の中でため息を山ほどついた。この人の研究室に入ってからこの方、ため息をつかずに済む日などなかった。なので、そのうちにため息を心の中で吐く特技まで習得してしまった。ため息だって山ほどつくとそれなりに疲れるのだ。


「これはもしかしたら、以前僕が研究したものの一つで、穴が開いていないように見えるのは、常に穴が開いては閉まってを繰り返している結果、それがあたかも閉まっている様に見えるという現象で……」


 だめだ。これがはじまると鬱陶しいだけでなく、うるさくなってしまう。


「パンなら朝食の後に、道で鳥に撒いていました」


 男が拳で手の平を叩いて見せた。どうやら思い出したらしい。


「なんだ。せっかくいい事例をみつけたと思ったのにな。その仮説は我々が認知できない微細構造が前提だから、パンなんかを飲み込むことはないか。それにそれが認知可能な構造に適用できた日には……」


 メルヴィは最初の質問の答えを得るのを諦めた。よく考えれば聞いたところで、この人からまともな答えなど返ってくるはずは無かった。それに待つ時間が短くなるわけでもない。


 この男が少し前までは王立上級魔法学校付属研究所の主任研究員、いわゆる教授だったという事が未だに信じられない。ずっと落ち続けていた王立上級魔法学校付属研究所に採用されて、有頂天になっていた時に、敷地の端の倉庫のような建物に連れていかれ、君の上司だと紹介されたのがこの少しばかり痩せすぎの男だった。


 ともかく挙動不審で言っていることは意味不明。だが時折述べるまともな意見というのは、あまりにも鋭く洞察にあふれており、メルヴィを驚かせた。だがやはり意味不明というのは問題だったらしく、メルヴィが配属になってから一年もしないうちに、王立上級魔法学校付属研究所を首になった。


 路頭に迷う寸前だったが、どこかの金持ちが道楽か何かで研究資金を出してくれるとかで、郊外の一軒家で研究そのものは続けられることになった。


 そこで「できれば、君に手伝ってもらえると嬉しいのだが」と少しはにかんだ顔で頼まれた時に、間違って「はい」と答えてしまったのが運の尽きだった。明らかにそこでまともな人生と言うものから足を踏み外した。


 子供のころ隣に住んでいた、年の離れたあこがれのお姉さんが、「ダメ男には気を付けてね。泥沼だから」と真顔で言っていたのを後で思い出した。


 「自分が居なくなったら、この人はどうやって生きていくんだろう?」なんてことを考えてしまった時点で、ダメ男の泥沼に思いっきり両足を突っ込んでいたのだ。その時に思い出したら、絶対に「はい」だなんて答えは言わなかったのに!


 例え研究員補だとしても、やっと努力が実って、あこがれの研究所勤務ができたというのにどうしてしまったんだろう。そこで頭脳明晰、容姿端麗な男性を捕まえて家庭を持つという、ささやかな願いも泡と消えてしまった。もうすべては後の祭りだ。


 このダメ男のおかげで、王都を遠く離れ、カスティオールの地までやってきて日の光に焼かれている。いや日の光だけではない。鼻には何かが焦げる匂いまでしている。街に上がっている黒い煙は、決して日々の営みのものではない。そこでは何かが起きていたのだ。


「そもそもカスティオールになんか来て、大丈夫なんですか? 研究員がこの地に来るのは禁止されていませんでしたっけ?」


「もう僕も君も研究員じゃないからね。関係ない話だよ」


「あっ、そうでした」


 ハッセの返事に、メルヴィはまたもいやな現実を思い出させられた。

 

「それに、ここまで来ないとなかなか会えないものもあるからね」


 そう言うと、ハッセはいつの間にか彼の指先に止まっていた黄色い蝶を、自分の目の前まで持っていって、それをしげしげと眺めていた。


 その小さな蝶は飛び立つこともせずに、ハッセの指の上でその可憐な羽をゆっくりと上下させている。まるで私だ。メルヴィがそう思っていると、ハッセはおもむろに口を大きく開け、蝶をぱくりと口の中に入れてしまった。


「教授!」


 いつもの事とは言え、その奇行にメルヴィは声を上げた。


「違うよ。腹が減った訳じゃない。穴の向こうに返したんだ。術を唱えるより簡単だからね」


「え”!ちょっと数が多いなとは思っていましたけど、この辺を舞っている蝶って、教授が呼び出した使い魔ですか?」


「まさか、本物だっているよ。ただどれが使い魔だったか分からなくなって、困っていただけだ」


 この人の台詞は何処までが本気で、どこからが冗談なのか全くもって分からない。そもそも口に入れて送り返すなんて聞いた事もない。


「それで、さっきからその辺りをじっと見てたんですか!?」


「まあね。でももう大丈夫だよ。見つけた」


 そう言うと立ち上がって、尻についていた土ぼこりを手でパンパンと払って見せた。そしてつば広帽を少しだけ押し上げて、この低い瘤のような丘の下にある、細く曲がりくねった道を見ている。そこには灰色の帽子を被った腹周りが緩い男性が、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来ていた。その出で立ちを見る限り、普通の近くの村か、街の者の様に見える。


「まずは、比較実験というところだね」


 そう言うと、ハッセはメルヴィにも立ち上がるように即した。立ち上がってもメルヴィの頭はハッセの胸元ぐらいまでしかない。ともかくこの背の低さはメルヴィの悩みの種だった。


 普通に買い物に行って「お手伝いかい、偉いね」なんて店番のおばあさんから言われたりすると、本当に落ち込む。メルヴィとしては、すべての栄養は自分の頭に行ったのだという事にして、無理やり自分を納得させているが、このままだと子ども扱いから、いきなりおばあさんになりそうで、女性として扱ってもらえる時が無さそうで怖い。


 そんな自分の体形について思いを馳せていたメルヴィは、いきなり心像に映った黒い影と、その周りを飛び交う、帯電した粒子の渦に慌てふためいた。


「教授、ちょっと待ってください。いつの間にあんなのを仕掛けていたんですか!?」


 メルヴィの心像には、丘の下をノンビリと歩いて行くおっさんの周りに、とてつもなく大きな穴が開こうとしているのが映っている。もしかして、「暁の大鳳」を呼び出そうとしています!?


「術の発動中に声を掛けないでくれ。間違わなくても死んじゃうじゃないか。あれ?」


 ハッセ教授が首を傾げて見せた。まずい、絶対にまずい。穴の開き方が基準外だ。この人が「あれ」とか言った時には、間違いなくろくでもないことが起きる。


「教授!」


 メルヴィは飛び上がってハッセの襟首を掴むと、慌てて岩の後ろまで引きずっていった。そして地面に身を伏せる。この人は並行思考をしていても、していなくても、いつもどこかに思考が飛んでいるから大丈夫だろう。このぐらいの邪魔で穴の向こうに行くぐらいなら、もうとっくの昔に行っているはずだ。


 ズドン!ドカン!ズドン!ズドン!


 この世のものではない使い魔、暁の大鳳らしき者が周囲に破壊の嵐をまき散らしている。おかしい、絶対に頭がおかしい。呼び出す者自体を間違えているし、それを手加減なしに暴れさせている。頭の上に土埃やら細かい岩の破片やらが山程落ちて来た。間違いない。お気に入りの白い帽子は絶対にもう白ではなくなっている。この岩が無かったら、体ごとどこかに吹き飛ばされているところだった。


 ズドドドドン!


 最後にひときわ大きな一撃があたりに響き渡り、頭の上から袋で砂をぶちまけたんじゃないかと言うほどの土砂が降ってきた。辺りには一面の砂ぼこりだ。


「げ、げほげほ」


 メルヴィの耳に、隣にいるはずのハッセが咳き込む音が聞こえて来た。どうやら教授も無事だったらしい。風が砂ぼこりを少しずつ押し流していき、再び辺りに夏の強烈な日差しが戻ってくる。


「きょ、教授。穴は、穴は閉じましたよね」


「げほ、閉じたよ。君だって魔法職だろう。そのぐらいは分かると思うけどね」


 確かに先ほど感じた大穴の気配はなくなっている。どうやら無事に穴は閉じられたようだ。というか、絶対にやり方を間違えている。こんなものを呼び出したら、直ぐに騎士団が捜索の為にやって来る。それにさっきのおっさんはどうなったのだろう。とても生きのびれた様には思えない。


 まずい、こんな大穴を開けた上に、市井のおっさんの魂を穴送りにした、なんて事が明るみに出たら、私達は間違いなく大罪人として吊るされる。もしかして、とんでもない偶然で助かったりしていないだろうか?


 メルヴィは一縷の望みをかけて、岩の向こうを覗こうと立ち上がった。隣で立ち上がったハッセを見ると、つむっていたらしい目の周りを除き、土埃で真っ白に見えた。まるでアライグマだ。きっと自分もそうなのだろう。


「メルヴィ君、実験はまだ続いているよ。これからが本番だ。気を付け給え」


 そう言うと、せっかく立ち上がったメルヴィの体を横へと突き飛ばした。メルヴィの子供の様な小さな体はそれにあがらう事など出来ない。メルヴィの体は土埃の上を鞠の様に転がった。


『何なのこの男は!?』


 やっと転がるのが止まったメルヴィが、文句を言うために口を開こうとした瞬間だった。


「ザン!」


 目の前を何やら突風のようなものが過ぎ去ったかと思ったら、先ほどまで自分が背にして立っていた、背後の大きな岩が真っ二つに割れていた。


『な、なに!』


 メルヴィの目の前では、その吹き抜けた突風に帽子を奪われないように、片手で帽子を押さえたハッセが立っており、割れた岩の上の方を見つめている。メルヴィがその視線の先を追うと、そこには少しばかり大きすぎる使い魔のような者がいるのが見えた。


 メルヴィはその黄色く光る眼と、その下にある蛇の様な口を見て息をのんだ。大きさや見かけの問題じゃない。


『何なの、この威圧感は?』


 ハッセは帽子を押さえたまま、じっとそいつを眺めている。こいつを封じないと。私だってもしもの時の為に、ここに陣を張っていたんだ。メルヴィは既に用意してある呪文、「穢れなき水霊の守り手」の最後の一節を唱えようとした。


「な、ない!」


 メルヴィの口から思わず言葉が漏れた。どうやらさっき、ハッセが呼び出した「暁の大鳳」が、メルヴィが用意した術の準備も全て吹き飛ばしてしまったらしい。


「このダメ男!」


 メルヴィの口から心の声が、叫びが漏れた。


「フフフフ。愚かなもの達が」


 メルヴィ達を値踏みするかのように、岩の上で、まるで羽を休めるように止まっていたそいつが、こちらの心の中に向かって嘲りの言葉を送ってきた。そしてその長い尾をゆっくりと上へと持ち上げていく。


「『愚か』と言うのは相対的なものだから、比較対象がないと評価できないな。それは君を基準にした僕達に対する評価と言う事でいいのかな?」


この人は死にそうな目に合っている時でも、何でいつもと変わらないの!?


「教授!」


 メルヴィはハッセに向かって叫んだ。そんなどうでもいいことを言っている場合じゃない。術を展開するか、逃げるかのいずれかをしないといけない。だがきっとどちらも、もう間に合わない。


「愚か、愚か……フフフフ」


 持ち上げたやつの尾の先端が二つに分かれた。教授と私を同時に二つにするつもりなんだ。もうだめだ。岩と同様にこちらの体も間もなく真っ二つだ。メルヴィは心の中で祈りを唱えた。


『お母さん、助けて!』


 何かが振り下ろされる音がし、メルヴィは思わず目をつぶった。固くつむった瞼の向こうで何かが光ったような気がする。これは、あの世に行くときに見るという光だろうか?


 カラン、カラン、バタン!


 だがその光は一瞬で過ぎ去り、メルヴィの耳には何かが岩の上を転がっていく乾いた音と、それが地面に落ちたらしい振動が響いた。おそるおそる目を開けてみると、ハッセが何やら枯れた枝の様なものを、割れた岩の下の地面から拾い上げようと、手を伸ばしているところだった。


「メルヴィ君、喜んでくれ。実験は無事に終了したよ」


 ハッセは手にしたそれを、まだ地面に転がって空を見ているメルヴィの前へ差し出すと、砂だらけの顔に笑みを浮かべて見せた。


「アルストロメリア。どうしてこんな気持ちが悪いものに可憐な花と同じ名前をつけるのかね? 名前をつけたやつの感覚を疑うよ」


「教授が殺ったんですか?」


 メルヴィはその焦げた枝の様な赤黒いものを、恐る恐る指さしながら聞いた。


「殺った? 固定化したとでも言うのが正しいと思うね。仮説は正しかったな。こいつらは、粒子と言うより波動に近いんだ」


「なっ……何なんです!? 一体どんな術です。何も感じませんでしたが……」


「それはそうだよ。穴を開けて何かを呼び出した訳じゃないからね」


 ハッセはメルヴィに向かっていたずらが成功した子供の様ににんまりと笑って見せた。


「どういうことです」


「詳しい事は後だ。まずはさっさとずらからないといけない。カスティオールが色々と忙しいとしても、これだけやれば、騎士団が捜索に来る」


「あんたが、あんな大穴を開けるからでしょうが!」


「ほら、さっさと逃げるよ」


「きょ、教授」


「どうしたメルヴィ君、もしかして怪我でもしたのか?」


 ハッセが少しだけ、ほんの少しだけ心配そうな表情をして見せた。


「ち、違います。腰が抜けました。う、動けません。」

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