出立
夏の朝は早い。上った朝日が頭の上の羊雲を黄色く照らし、遠くにはもう入道雲らしきものが昇っているのが見える。そして私の耳には朝を待っていたらしい、椋鳥の群れのさえずりが聞こえて来た。
御者やお共の方々が2台の馬車に荷物やら何やらを忙しく積み込んでいる。お父様とジェシカお姉さまが、また領地に戻ってしまうのだ。黒塗りの馬車の前ではカミラお母さまが、アンと共にお父様に別れの挨拶をしている。私の視界の隅でアンがお父様に抱き着くのが見えた。
私より二歳年下のアンジェリカにとって、物心がついた時には、お父様がここにはほとんどいない時しか知らないはずだ。カミラお母さまはアンをたしなめていたが、私から言わせれば、アンがその温かみをいつでも思い出せるぐらいまで、ずっと抱き着いているべきだと思う。アンにはもっともっとお父様に甘えるだけの権利がある。
「フレア」
私は自分に声をかけて来たジェシカお姉さまを見た。ジェシカお姉さまは長旅用の麻の上着を掛けているが、その裾からわずかに銀色に光るものが見える。お姉さまが中に着ているのは細い針金をよって、さらにそれで編んだ帷子だ。そしてその腰にはカスティオールの薔薇の紋章が入った銀灰色の短剣の柄があった。
「貴方ももうすぐ学園への入学ね。人生で一番色々な事を感じる時間よ。一日一日を無駄にしないように精いっぱい楽しんで来てね」
「はい、ジェシカお姉さま」
もう、なんてかっこいいんでしょう。こんな人が自分のお姉さんと言うだけで、もう鼻高々です。これが前世なら、私がお姉さまに比較して、ちょっとばかりがっかりな妹だとしても、ありとあらゆるところに連れて行って皆に自慢しまくります。
「貴方の様に楽しむだけでは困ります。学生なのですから、その本文を忘れる事なく、多くの事を学んでもらわないといけません」
背後から声が掛かった。この時間でも日傘に、日焼け対策の肘までの長い手袋をしたロゼッタさんが立っていた。ロゼッタさんも見送りに来てくれたんだ。でもちょっと待ってください。もしかしてジェシカお姉さまと、ロゼッタさんは、学園での同期だったんですか?
「ロゼッタ、余計な事を言わないで。たまには姉らしいことを言わせて頂戴」
ジェシカお姉さまの文句に、ロゼッタさんがわずかに肩をすくめて見せた。
「ロゼッタと私は学園での同級生なの」
ジェシカお姉さまがまるで何かの秘密を打ち明けるみたいに、左手の甲を口元に当てながら、私に向かって語った。そして上目使いでロゼッタさんの方を見る。
「たまたま、教室が一緒だっただけです。貴方のような男子生徒に囲まれて、勉強をおろそかにして過ごすような人と、私を一緒にしないでください」
理由はよく分からないが、ロゼッタさんがジェシカお姉さまに怒っている。何で? いやそれよりも、さっきの『男子生徒に囲まれて』というところがとっても気になる。すごく気になる。
「やっぱり、ジェシカお姉さまって、学園ではもてもてだったんですね」
ジェシカお姉さまが左手を顔の前で振ってみせた。
「そんなことないわよ。私は単に付き合いやすかっただけね。それにもっと別な理由もあったのよ」
嘘ですね。これはあれですね。もてもてと分かっている人が、わざとらしくもったいぶって知らない振りをするやつですね。ジェシカお姉さまのようなさわやかな人なら許されますが、間違っても私なんかがしたら、生涯の敵を作りかねないやつです。
同じ姉妹なのに、神様はやっぱり不公平です。神殿であんたに祈りを捧げるなんてのは、やっぱりごめんこうむります。どちらかと言えば、そのお尻を蹴っ飛ばしてやりたい!
「ロゼッタの方こそ、陰で親衛隊がいて、ずっと遠巻きで見ていたのよ。それはもう窓辺の美少女そのものだったんだから」
え”!!ロゼッタさんは美人ですけど、美人だっただけでなく、もてもてだったんですか!?
「そんなことはありません!」
ロゼッタさんの声に、馬車の準備をしていた御者さんが不思議そうな顔をしてこちらを見る。ロゼッタさんは、慌てて横を見た。だがその顔は何だか火照って、赤くなっているような気がする。
「嘘よ。それはもう山ほどという感じよ。木陰で詩集を読んでいるロゼッタを藪の中辺りでこそこそ見つめているものだから、その一派はみんな蚊によく刺されていて、鼻の頭辺りを赤くしていたから一目瞭然よ」
「そうなんですね」
詩集を読んでいるだけで、学園の男子生徒を影で支配するとは、さすがはロゼッタさんです。前世でも人形の方がその人のまねをしているんじゃないかという超絶美少女な方が居ましたが、その方と同じですね。何も言わなくても、周りにいる殿方全てを支配できる人です。
「そんなことはありません!!」
もうロゼッタさんの顔は明らかに真っ赤だ。
「私のところに貴方が好きなものは何かとか聞きに来る男子生徒が山ほどいたのよ。だから私がもてたなんて言うのは大嘘。寄ってくる男は皆が皆、ロゼッタ目当てだったんだから。もしかしてロゼッタ、本当に全く気が付いていなかったの」
「全てあなたの作り話です。もうさっさと行って頂戴」
うわ、あのロゼッタさんが明らかに狼狽えています。
「まあいいわ。今回は色々と世話になったから、そう言う事にしておいてあげる」
ロゼッタさんは、ジェシカお姉さまの言葉に気分を害したらしく、手を軽く振ると、門をくぐって屋敷の中に戻って行ってしまった。いつも冷静沈着なロゼッタさんにしてはとても、とても珍しい事だ。もしかして、ジェシカお姉さまはロゼッタさんの天敵なのではないだろうか? 何の根拠もないがそんな気がする。
「ロゼッタ、元気でね」
ロゼッタさんの後ろ姿に声を掛けると、ジェシカお姉さまが小さく笑った。
「フフフフ、相変わらずね」
そして顔をそっと私の耳元に寄せた。
「一杯ときめいて、いっぱい恋をしてきなさい。それが乙女の特権なんだから」
えっ!こ……恋ですか!? まだ14、もうすぐ15才ですけど。少し早くないですか? ジェシカお姉さまの言葉に耳の後ろが熱くなる。ジェシカお姉さまが、ロゼッタさんの天敵なのが少しだけ分かったような気がします。
「フレデリカ、ジェシカ」
私達の背後から声が聞こえた。どうやらカミラお母さまとの話は終わったらしいお父様が、私達に遠慮がちに声を掛けて来た。
「残念ながら、学園への入学式には出れそうにないが、お前が学園に入学できる年になったことを心からうれしく思う」
「はい、お父様。有難うございます」
アンのお披露目も残念でした。でもとっても、とっても素晴らしいお披露目でした。
「ジェシカ、準備はいいか?」
「はい、お父様」
お父様は私のお願いを聞いてくれたんだ!ジェシカお姉さまの答えに、私は思わずお父様に思いっきり抱き着いた。後でカミラお母さまに小言を言われると思うけど、それは後で耐えればいい。
「フレア、あなたも元気でね。そして有難う」
ジェシカお姉さまの言葉に、私はジェシカお姉さまにも、右腕を触らぬ様にしながら、力一杯抱き着いた。
お父様は私の頭を軽くなでると、ジェシカお姉さまと一緒に、西棟の侍従長のモーリッツさんが用意した踏み台を登って、馬車の中へと入った。モーリッツさんが踏み台を手にしてぐるりと馬車の周りを回って、何も問題がないかどうかを確認すると、御者に向かって手を上げる。
「ハイホー!」
御者の掛け声と共に車軸が軽やかに回り、遠出用の馬車がカスティオールに向かう東街道を目指して、屋敷の前の道を進み始めた。その姿は瞬く間に小さくなっていく。私はその姿が豆粒ぐらいになるまでずっと手を振った。東に見える丘を越えて登って来た朝日が、私の視界を黄色く染める。
誰かが私の背後で動く気配がして、日傘を掲げると、私の顔に直接朝日が当たるのを遮った。その視界の先では、もう豆粒より小さくなった馬車が、丘の向こうを目指して走っていく姿が見える。
私はその黒い影を見ながら、まだ意識が戻らなかったジェシカお姉さまを看病していた時に見た、寝姿を思い出した。その腕にも、背中にも、多くの切り傷や、打撲の跡があった。
お父様やジェシカお姉さまがカスティオールの地で、傷だらけになるような、命がけの大変な思いをしている時に、私はそれを何も知ることなく、花壇の薔薇の心配などをしていたのだ。
ここから逃げて、どこかの商会ででも働いて生きて行こうだなんて、私はどれだけ無責任な事を考えていたのだろう。マリの言う通りだ。私が冬に凍えることなく、日々の食事を得られている事には代償が、いやそれ以上の責任が伴っているのだ。
「マリ、学園を卒業したら、一緒にジェシカお姉さんの居る所に、カスティオールに行こう。そして私達ですべてやっつけてやろう!」
「はい、フレアさん。貴方の敵は私の敵です」
そして、ジェシカお姉さまの体に傷をつけたやつらは全てけちょんけちょんにしてやる。いや消し炭一つ残してやるものか!
私はもう目には見えなくなった馬車が居る辺りをじっと見ながら、自分の心に固く誓った。
これにて、第二部「始動」終了になります。もしよろしかったら、楽しんでいただけた点、至らぬ点などコメントなど送っていただけるととても励みになります。是非よろしくお願い致します。