矜持
カスティオール侯ロベルトは、傍らにいる西棟の侍従長兼、会計係を務めるモーリッツと、東棟の侍従長を務めるコリンズ夫人とで、この屋敷の予算について打ち合わせを行っている最中だった。渡された書類に書かれている数字は、決してロベルトを楽しませるような物ではない。
先日のライサ商会との商談で、ライサが持つカスティオールに対する債権の返済について、大分猶予をもらったおかげで、領地からの税収を領内の為に使える目処が立った。しかしこちらは未だに火の車だ。いやもう燃えるものすらない状態だ。
モーリッツは東棟を閉鎖して、すべて西棟に人を集めるべきだと提案していた。つまり東棟で働いている者のほぼすべての首を切れと言っている。
それに期限を過ぎているにも関わらず、フレデリカの学園への供託金も払えていない。それが遅れたからと言って、入学させないとは言ってこないだろうが、やはり侯爵家の面子が立たない。何か対策を告げてやりたいところだが、口を開けば、溜息しか出てこないだろう。
「トントン」
ロベルトは執務室の扉が叩かれた音を聞いて、書類から目を上げた。
「失礼します。旦那様とお話があってこちらに参りました」
ロベルトが何かを答える前に扉が開くと、一人の女性が部屋の中へと進んできた。首には何か布のようなものを当てていて、手にも白い布で包んだ何かを持っている。そしてその顔はとても疲れているように見えた。
「ロゼッタさん。旦那様の許可を得る前に、部屋に入ってくるとは何事ですか?」
コリンズ夫人が、部屋の中に入って来たロゼッタに向かって叱責した。
「皆さま、お忙しいことはよく分かっておりますが、少々旦那様とお話しをさせて頂く時間を頂きたいのです」
ロゼッタはコリンズ夫人の叱責を全く意に介することなく、そこに居る人々に向かって自分の目的を告げた。
「ロゼッタさん!」
ロゼッタの言葉に、コリンズ夫人が少しばかり声を荒げた。
「コリンズ夫人、待ちなさい」
続けて何か小言を言おうとしたコリンズ夫人を、ロベルトが制した。
「どうやら大事な話らしい。悪いが二人とも席を外してくれないか。彼女との話が終わったらまた声を掛ける」
「はい、旦那様」
二人は侍従長らしく声を合わせて答えると、ロベルトに礼をして、素早く扉の向こうへと消えた。
「ロゼッタ、それで私に用事とは?」
ロゼッタはロベルトの問いかけに答えることなく、執務机の前まで進むと、手にしていた白い包みをその上に置いた。
「ドン」
それはそれなりに重さがあるらしく、執務机の上で低く固い音を立てた。
「これは?」
ロベルトの言葉に、ロゼッタがそれを包んでいた布を開いた。そこには干からびた蛇のような、蜥蜴のような黒い塊があった。
「『アルストロメリア』。ロベルト、あなたが封じたの?」
「ああ、だがやはり私ごときの腕では完全には封じ切れなかったようだな。ジェシカは?」
「眠っている。おそらくは命に別条はない。それよりもジェシカは貴方の『盾』でしょう。どう言う事か説明してくれないかしら?」
「君が知ってどうする?」
ロベルトの答えに、ロゼッタが微かに眉をひそめて見せた。
「私もこいつに命を狙われたのよ。おそらくジェシカを経由して私にとりつこうとした。私がまだ生きているのはそのおかげね。もし殺すのが目的なら、すでに死んでいる。だから事の顛末ぐらい聞く権利はあると思うのだけど」
ロゼッタの有無を言わせぬ言葉に、ロベルトはため息をついた。
「君の想像の通りだよ。今のカスティオール領は魔族たちの遊び場のようなものだ。穴を全く制御できていない。君も理解している通り、この件についてはロストガル王家、国からの援助は全く期待できない。我々はカスティオールなのだからな。だからと言って奴らが好き勝手をするのをみすみす指をくわえて見ている訳には行かない。派手に暴れていたそいつをジェシカと共に封じ込めたつもりになっていた」
「つもり?」
「そいつはむしろ我々が出てくるのを待っていたような感じだった。おそらくそうなのだろう。こちらの封印の裏をかかれた。ジェシカが盾として、身を挺して私を守ってくれなければ、娘達には二度と会えなかっただろうね。私はジェシカに憑りつこうとしたそいつをやっとの思いで封じた。だが分かったよ。それは全然不十分だった。いや、不十分なんてものではない。そいつは私に封印された振りをしていただけだったのだね」
ロベルトに対してロゼッタが頷いて見せた。
「裏をかかれた上に、さらに裏をかかれた。でもどうしてこちらまで連れて来たの。危険は分かっていたでしょう」
「ロゼッタ、君は信じないかもしれないが、これでも私は人の親なのだよ。一個人としても大事なものは守りたいのだ。このままではジェシカの魂は奴に侵食されてしまう。死よりも恐ろしい救いがない最後だ。だが彼女を一思いに殺してやることもできない。そうすれば、奴はその場で解放されてしまう。それでこの屋敷にかけられているという封印の術に望みをかけた。それにここに連れて来る事が、私が彼女にしてやれる、精一杯の贖罪だった」
「フレデリカに会わせてあげたのね」
ロゼッタの言葉にロベルトが素直に頷いて見せた。
「封印とは、この屋敷に張り巡らされていた封印の事?」
「そうだ。私としては先祖代々伝えられていたおとぎ話のようなものだったが、本当にあったようだ。戻ってきてから、それを発動する手段に関する記録がないか、古文書を当たっていたが、杞憂だったようだ。正直な所、例えそれが発動しても、出来る事はジェシカに普通の死を与えてあげられること、彼女の魂を救ってやれることだけだと思っていた。まさかそれが、ジェシカの命まで救ってくれるとは思っていなかったよ」
そう言うと、ロベルトは机の上にある黒い奇妙な物を指さした。
「この件は済まなかった。それに助かった。礼を言う。君が発動させたのかい?」
首筋が痛むのか、ロゼッタがゆっくりと首を振って見せた。
「違うわ。私は気を失っていただけ。何もしてなどいないし、何も分からなかった。だから貴方に礼を言われる覚えはない。気が付いたらハンスに抱きかかえられて、泣きさけぶフレアに縋りつかれていただけよ。あなたのご先祖様が優秀だったのね。貴方は何か分かったの? 何が起きたかを感じられたの?」
ロゼッタの問いかけに、ロベルトも首を振った。
「カスティオールの末裔の恥だな。何も分からなかったよ。ただ普通の耳に、テーブルと椅子が飛ばされた音と、その後の騒ぎが聞こえて来ただけだ」
「ここはカスティオールだから、何が起きても驚きはしない。だけど魔法職になってこの方、何が起きたのかすら分からない、と言うのは初めてよ。貴方達は一体何者なの?」
ロベルトが口元に、自虐的に見える笑みを浮かべた。
「子供が読むおとぎ話の通りだ。建国の英雄、『ロストガル』を支えた4人の従者。その魔法職だったものの血を受け継ぐはずの末裔だ。もっとも今ではその血の一滴すら、私の中に流れているかどうかは分からないがな。それでも我々はカスティオールだ。他の三家のように単なるこの国の、ロストガルのための奴隷商人になどなれない。自分達の領民を穴をふさぐための贄になど出すことはできない。先祖がなしてきたように、我々は我々の手で穴をふさぐのだ。それがカスティオール家の矜持だよ」
「それがアンナが私を救い、貴方がアンナを失った理由ね」
だがロベルトはロゼッタの言葉に首を傾げて見せた。
「どうだろう? 私は違うと思う。アンナは君を救おうとしたのではない。君にそれをさせていた者達に、自分達が生き残るために、他の者が犠牲になることを何とも思わない事に、心から腹を立てていたのだよ。君の為ではないし、ましてやカスティオールの矜持なんて物の為でもない。アンナは、彼女の中の良心に忠実だったのだ」
ロゼッタは天井を見上げて、しばし何かを思い出すような仕草を見せた後に、ロベルトに向かって小さく頷いて見せた。
「貴方はフレデリカにも、その業を負わせるつもりなの?」
ロゼッタの心配そうな表情に、ロベルトは苦笑して見せた。この表情は、この子が初めてアンナに会った時を思い出させる。
「そんな気はない。今まで通りに、カスティオールが自分達の矜持を守るのか、それともロストガルの下に下って、領民の生活の見かけの安定を第一に望むのか、それはフレデリカがその伴侶と共に自分で決めればいい」
「本気で言っているの?」
「フレデリカの魂はフレデリカの物だ。他の誰かの物ではない。あの子自身がそれを決めれば良い。私はアンナと一緒になった時に、自分はカスティオールの矜持を守ると決めたのだ。決して誰かに強制されたわけではない」
「魂とはそう言うものよ。いや、そうあらねばならない」
「アンナが君にフレデリカを託したのは、単にその安全を守って欲しかったのではない。自分に代わって、フレデリカが自分で自分の事を決められる様な人間に育ててくれる様に願ったのだ。彼女はそれが、とても我儘な願いだと言う事はよく理解していたよ」
ロゼッタの顔には、この部屋に入って来たときの様な疲れた表情など、もうどこにも無かった。そこには何かしらの信念を持つ人が漂わせる、厳しさだけを見せている。
「フレデリカは私が守る。そのためなら、貴方を含めて、どれだけの人間を穴の向こうに送り込む事になろうともよ。私は貴方の事も、このカスティオールの事も、決して許しはしない。だけど今回の件については、あなたがジェシカを助ける為に努力したことだけは認めてあげる。それと後でフレアに会ってあげて。あの子は貴方に何か伝えたいことがあるみたいよ」
「分かった。そうしよう。それと、」
「何?」
「いや、何でもない」
ロゼッタはそう口ごもったロベルトを一瞥すると、執務室の外へと去っていった。
「縋りついていた? フレデリカは、あの子はあの場に居たのか?」
ロベルトはそう呟くと、執務机の上にあった黒く干からびた蜥蜴のようなものを手にした。そして窓を開けると、おもむろに窓から外へと放り投げた。その黒い何かは執務室の窓から下の石畳に落ちると、乾いた音を立てて粉々に砕け散る。
ロベルトは砕けて出来た粉が、風に舞ってどこかへと消えていくのを満足そうに眺めると、庭の先にある花壇を見つめた。そこには赤毛の少女の姿と、その頭の上に日傘をさす侍従の姿が見える。
「やはりあの子は鍵なのだな。アンナ、君が命をかけて、この世界の為に守ったものだ。そして今は、至らぬ私に代わって、あの子がそれを守ってくれている」
そう小さく呟くと、窓を閉めて、机の上の呼び鈴を小さく鳴らした。
* * *
「はい」
扉を叩く小さな音にジェシカは声を上げた。もしかしたらフレアが戻って来たのだろうか? ジェシカはそう思って含み笑いをもらした。ジェシカの視線の先には、フレアが摘んで来てくれた薔薇の花が、小さな青い花瓶に飾ってある。
「ロベルト様!?」
ジェシカは扉を開けて部屋に入って来た人物を見て、思わず声を上げた。そして慌てて寝台から体を起こそうとした。
「そのままでいい」
ロベルトはジェシカにそう声を掛けると、寝台の横に置いてあった小さな椅子に腰をかけた。
「どうやら先客がいたようだね」
そしてナイトテーブルに置いてある、花瓶に飾られた薔薇の花を見た。摘みたてらしい薔薇からは華やかで甘い香りが漂っている。
「はい、フレデリカお嬢様がわざわざ持ってきてくれました」
「あの子も忙しい子だな」
ロベルトの言葉にジェシカが少しばかり首を傾げた。
「あの子はさっき、私の執務室に押しかけて来たよ」
「ロベルト様のところへ直接ですか?」
「そうだ。何やらお願いがあると言ってね」
「お願いですか?」
「何だと思う?」
ロベルトが少しばかり意地悪そうな顔をしてジェシカを見た。
「さあ、何のお願いなのでしょう? 想像もつきません」
「そうだろうね。あの子は、私にお前に家族の前では『お父様』と呼ぶように言って欲しいとお願いに来たのだよ」
「お、お、お父様ですか!? わ、私はロベルト様の盾として便宜上、娘役をさせて頂いているだけで……」
うろたえるジェシカに、ロベルトは苦笑して見せた。
「ジェシカ、そうだろうか。お前はフレデリカやアンジェリカにとっては紛れもなく姉、長女なのだよ。それに私はお前を単なる自分の盾だとは思ってはいない」
「ロ、ロベルト様……」
「出来る事なら、私もフレデリカやアンジェリカと一緒に、君から『お父様』と呼ばれたいのだが、どうだろうか?」
ジェシカはロベルトの問いかけに沈黙を守ったまま、寝台の横にある薔薇を見つめていた。
「私はフレデリカ様が、何か別の者に代わってしまったのではないかと勘違いしていました。あの方は、あの方の優しさや、人を思いやる気持ちは何も変わっていないのですね。フレデリカ様、いえ、フレアは強くなったのですね」
ジェシカに向ってロベルトが頷いて見せた。
「そうだな。父親としては何もしてやれてはいないが、あの子はロゼッタやコリンズに囲まれて、間違いなく成長している。何より、アンナに似てきたな。娘と言うのは長じると、母親そっくりになると言うが本当だな。だが私の様な情けない男を、伴侶に選んでだけは欲しくない」
「そうですね。その通りですね、お父様」
寝室に二人の笑い声が響き渡った。