侵入者
「ロゼッタ、こんなところで一人だけで朝食?」
庭のテラスで皿の上に置かれた小さなトマトを口に運んでいたロゼッタは、声がした方へ顔を向けた。そこには、動きやすい服装に薄い上着を肩から掛けたジェシカがこちらを見ている。朝の訓練をした後だろうか、その顔はわずかに上気し、その額や首筋には汗が光っている。
「フレアと一緒では無いの?」
「新しいお付の侍従さんが来ましたから、私が朝からあの子の世話をする必要はなくなりました。ありがたいことですね」
「そうかしら?」
ジェシカはそう告げると、皿の上から赤い粒を一つ取って口に放り込んだ。
「新鮮ね。もしかしてこの庭で取れたもの?」
そう告げるとジェシカは、ロゼッタの横に座って首に巻いた布で汗を拭った。
「フレアが私の為と言って植えてくれたものよ」
「やっぱり少し寂しいのではなくて?」
ジェシカが少しばかり意地悪そうな表情でロゼッタに聞いた。
「子供の成長とはそういうものです。離れていくのと同義です」
「成長ね。私が昨日言ったことを覚えている? フレアの事よ。絶対に何かおかしい。この手は貴方の専門外でしょう。上級魔法学校の付属研究所にこの手の憑依に詳しい人間がいるから、彼のところに連れて行って、調べてもらった方がいいと思う」
「付属研究所? ジェシカ、あなたは本気で言っているの?」
「もちろんよ。かわいい妹ですもの、ほっておけないわ。この件は、お父様にもお願いする。あれは絶対に本物のフレアではない」
「ジェシカ、その腕だけど」
「これ、だから大した傷じゃないって。単なる骨折よ」
「私にその傷を見せてもらえない?」
「そんな、大丈夫よ。確かに貴方は薬師としても優秀なのは知っているけど、もう骨はくっついているし……」
「見せなさい。これはお願いでは無いの。フレデリカ・カスティオール付きの者としての貴方への命令よ。既に術は発動してある。私は貴方が私に声を掛けるのを待っていたのよ。]
ロゼッタの言葉に、ジェシカは呆れたような表情をした。
「相変わらず、誰も何も信用しないのね。一人で朝食を食べていたのは、私がここにきて声を掛けるのを待っていたという事?」
そう告げると、ジェシカはテラスの周囲を見回した。ジェシカもロゼッタが既に術を、『昏き者の御使い』を呼び出し済みな事に気が付いたらしい。
「分かったわ。大したことじゃないもの」
ジェシカはロゼッタに向かって肩をすくめて見せると、自由になる右手で左手の包帯をくるくると外していった。
白い布が彼女の膝に、そしてテーブルが置いてある芝生の上へと落ちていく。だがその包帯はある場所を境に違う色へと変わっていた。真っ黒な何かに染まっている。ロゼッタの目からはそれはもはや白い包帯などでは無かった。
「あれ、いつの間に汚れたのかしら。何、何なのこれは!?」
ジェシカが驚いたような声を上げてロゼッタを見た。
「あなたの体の中。正しくは骨の中に紛れてここまで入り込んだのね。ジェシカ、心配しないで、フレアは本物よ。何かに憑りつかれているのは貴方の方ね」
ロゼッタの言葉に、ジェシカもロゼッタへ微笑んで見せた。だがその笑顔はフレアがくれる笑顔とは全く異なる、嘲笑と邪悪さに満ちた笑いだった。
「そうだったみたいね。でもロゼッタ、手遅れよ。中に入ってしまったからには、あなたのそんなゴミみたいな術は私には通じないわ」
ロゼッタがかすかに手を動かすと、テーブルの周りから噴き出した黒い塵のようなものが、ジェシカに向かってそのすべてを覆いつくそうとした。だがそれはジェシカの周りで目に見えない何かに弾き飛ばされると、ロゼッタの方へと向かってくる。それはロゼッタが用心の為に並行思考で展開しておいた『反魂封印』の防御壁に激しくぶつかった。
その衝撃に意識が飛びそうになるのを堪えると、ロゼッタは魔力を集中してそれを穴の向こうへと送り返した。
「反魂封印、即時多重展開!? 何者なの!」
ジェシカの口から、いや、ジェシカを操る何者かの驚きの言葉が漏れた。一気に魔力を消費した反動でロゼッタの息は上っている。だが次の術を、相手を封じ込めるための『鎮魂の扉』を展開しようとする前に、ジェシカの顔が目の前にあった。
「だけどロゼッタ、貴方は私に近づきすぎよ。魔法職としては油断し過ぎね」
ロゼッタの首元にジェシカの手が食い込んだ。気道が押しつぶされ、気が遠くなりそうになる。
『フレア、逃げて。今すぐに!』
ロゼッタは暗くなっていく意識の片隅で、声にならない叫びを上げ続けた。
* * *
「マリさん、この後でロゼッタさんの授業が始まる前に、私のとっておきの場所を紹介したいけどいいかな?」
「とっておきの場所ですか?」
私の着替えを手伝ってくれているマリが私に聞いてきた。変なものが混じる前のフレアにとっても取って置きの場所です。花壇です。ちょうど薔薇が咲き始めたところなんですよ。是非に紹介させてください。
正直な所、彼女に着替えを手伝ってもらうこと自体、とても恥ずかしいのだが、これも役割の一つだと言われてしまうと返す言葉が無い。
前世同様にあちらこちら出ているべきところが出ていなくて、余計なところが出ている、人様に誇れるような体形じゃないんです。でも大丈夫です。前世と違って、まだ成長期です。成長するはずです。
「外に出るので、その準備を……」
「マリ!」「フレアさん!」
私は振り返ってマリの顔を見た。彼女にも分かったらしい。彼女は私の体を窓から直接見えない位置に引きずって行くと、スカートの下から短剣を素早く取り出して、カーテンの隙間から外を伺った。私もマリの背後から頭だけを出して窓の外を覗く。
「何あれは?」
建物のひさしの陰になっているところから黒い何かが噴出している。どうやらそれはマリにも見えているみたいだ。あの場所は、あそこはロゼッタさんのお気に入りのテラスの場所だ。今朝の朝食はロゼッタさんと一緒じゃないけど、間違いない、ロゼッタさんはそこに居る!
「行くよ!」
「はい、お姉さま」
マリには余計な事など言う必要はない。二人で一斉に扉の外に向かって駆けだす。マリがいつの間にか取り出してきた一本の小刀を私の手に押し付けてきた。階段を飛ぶように降りて、テラスへ通じる扉に向かう。
「お嬢様!?」
テラスに向かう途中でトマスさんが私達を見て、驚いた顔をした。
「ハンスさんを呼んで、今すぐに!」
私はトマスさんにそう声を掛けると外に通じる扉に向かった。マリはすでに扉に張り付いて外の気配を伺っている。建物の中にいても、外にとんでもなくやばい奴がいるのが分かった。カミラお母さまの背に取り憑いていたのなんかとは比較にならない。トマスさんは普通の顔をしていた。
何故だ。こんなにやばいのに屋敷の中の他の人は何も気が付かないのだろうか?
『警戒』、『前』、『進む』
マリが私に手信号を送って来た。前世の冒険者での連絡手段だ。
『了解』
私の手信号を確認したマリが、扉にピタリと体を寄せる。私が扉を開けると同時に、マリが外へと飛び出し、前へと進んだ。私も一瞬だけ間をおいて外へと飛び出した。
「ジェシカ姉さん!」
私は目に飛び込んだ彼女の姿に叫び声をあげた。ジェシカ姉さんの右手のほどけかかった包帯から黒い何かが噴出している。さらにその右手は、椅子に座るロゼッタさんの首へと伸びていた。マリが手にした短剣を放つべく素早く振りかぶった。
「待って!」
それを投げたらジェシカ姉さんが死んでしまう。
「右腕を切り落とします」
マリはそう言うと、短剣を片手にジェシカ姉さんに対して体を低くして、一気に間合いを詰める。だがジェシカ姉さんがこちらに右手を振り上げるのを見て、その体を芝生の上に投げ出して一回転させた。
マリがさっきまでいた場所に、右手から流れ出る黒い鞭状の触手の様な物が打ち下ろされ、地面に数本の深いひっかき傷のようなものを作った。だが右手が離れたことで、半分椅子から持ち上げられていたロゼッタさんの体が開放されて、椅子の上へと崩れ落ちたのが見えた。
「ロゼッタさん!」
私の呼びかけにロゼッタさんは何も答えてはくれない。どうやら意識を失っているらしい。マリは私なんかとは比較にならない反射神経で、その黒い鞭のようなものを避けながら間合いを測っている。その鞭の先は……。
何なの? この気持ちの悪い何かは?
フレデリカ姉さんの右腕に、赤黒く見える蛇のような得体の知れない者がまとわりついているのが見えた。
だがそれは蛇なんかでは決してない。不気味に光る大きな目を持ち、背中からは鉤爪がついた羽のようなものが生えている。そして細く長い尾の先端が数本の鞭のようなものに分かれていて、右から左からマリに向かって打ち振るわれていた。
「気を付けてください!」
マリの言葉に我に返った。その触手の一本が鋭く伸びて芝生の上を走ると、私の方へ向かって来る。マリのまねをして、手を地面について体を前に回転させてそれを避けると、マリの左手に位置を取った。
「フフフフ」
ジェシカお姉さまが、いやその体を乗っ取った蛇が笑う。どうする。ロゼッタさんを救おうとすれば、ジェシカお姉さまを殺してしまう。マリの言う通りだ。ジェシカお姉さまを救うには右手を切り落として、あれをジェシカお姉さまから切り離さないといけない。
『ごめんなさい』
私は心の中でジェシカお姉さまに謝った。私がお姉さまの右手になります。
「マリ、力は使える!?」
「行けます」
「使って!私もこいつを種火で牽制する」
私の力は役に立たない。精々が生活技術だ。だがあいつがまとわりついている包帯に種火ぐらいつけてやれば、マリから気をそらすぐらいにはなるはずだ。
「フフフ」
あいつはまだ笑っている。笑っていられるのは今のうちだぞ。隣にいるはずのマリの気配が消えた。マリが前世で冒険者として使っていた力、「隠密」を使ったのだ。
飛んで来る触手を、まるで子供の時の縄跳びのように飛び上がって避けながら、私も鳩尾の下にある塊に意識を集中した。そこにある何かに包帯に火が点く心像を重ね合わせる。時間が無い。急げ、早く点け!
焦る私の心と裏腹に、それは中々まとまらずに、まるで私の心の中で逃げ回っているようにすら思えた。
『さっさと点け!』
私が逃げ回るそれに対して怒りを爆発させた時だった。それが鳩尾の下でまるで何かに吹き消されるようにぱっと消えた。
えっ!? 空になった?
だがマナを使いすぎて空になった感じとは違う。まるで日の光を浴びた霧のように消えてしまった。
「ドン!」
低く鈍い音が響いた。慌てて顔を上げると、私の目の前でマリが、ジェシカ姉さんを囲む目に見えない壁に激突して弾き飛ばされていた。一体何なの?
「トン!」
後ろに向かって飛んで触手を避けたマリが、私の横に着地した。彼女が左腕に手をやっている。どうやらロゼッタさんの様な魔法職と呼ばれる人達が使うのと、同じ様な力が働いているらしい。
それは前世で私達が使っていた力、マナとは全く別物の様だ。ロゼッタさんは別の世界から力を引き寄せると言っていたが、私は全く理解できていない。もっとちゃんと聞いておけば良かった。もっとも分かったところで私が何か出来るとは思えない。現世でも相変わらず私は役立たずだ。
「何かあります。回り込んで……」
「バリバリバリ!」
マリが私にそう告げた時だった。何本もの雷が落ちたような音がして、屋敷を囲む古い煉瓦作りの壁の上に、金色の光の柱の様な物が何本も上がった。それはまるでコガネムシの羽のように広がって、天に向かって伸びていくと、重なり合って網目状に空を覆っていく。やがて空が全て覆われて、初夏の朝の青空の下で薄い黄金色の光を放っている。
それを見た赤黒い羽有りの蛇の様な者が、慌てふためいて羽を羽ばたかせ、その体がジェシカ姉さんの腕から離れて浮き上がったように見えた。
『今だ!』
私はマリから受け取った小刀をその頭に向かって放った。それはマリを跳ね飛ばしたはずの壁に当たることなく、そのおぞましい顔の真ん中へと見事に命中した。前世では師匠のはずなのに、弟子のマリに特訓させられた成果だ。見たか、碌な力が無くたって、私には手も足も口もあるんだぞ!
私の一撃に怒り狂った蛇もどきが、羽を激しく羽ばたかせ、その尾の先の鞭の様な触手の全てを私の方へと向けてきた。まずい、両側に上からで逃げ場がない。だが、私の前に立ちはだかった侍従服姿の少女が、三方から迫ってきた触手を短刀で素早く撃ち落とした。どうやら蛇もどきを守っていた謎の壁の様なものは失われたらしい。
「おのれカスティオールめ!」
蛇が口を開いた。いや違う。その呪いを込めた叫びを私の胸に直接響かせて来た。こいつ蛇の癖にしゃべれるのか? どうやらマリにも聞こえたらしい。マリが手にした短剣を身構えた。そいつがこちらに向かって口を開けて牙を向く。まずい、なんかやる気だ。だけど何をして……。
「バリン!」
心の中で、まるで何十もの皿を床で割ったような音が響いた。空を覆っていた黄金色の透明な格子状の網目が割れて、蛇の体へと次々と突き刺さっていく。
『ギュエ――――!』
蛇の断末魔らしきものが私の胸の中に響いた。その衝撃にジェシカ姉さんと、椅子に体を預けていたロゼッタさんの体が吹き飛ばされる。私は空を飛んだロゼッタさんに向かって必死に体を投げ出して、その背中を受け止めた。視界の先では、マリがジェシカ姉さんの体を受け止めている。流石はマリです。今世でも優秀です。私とは大違いです。
「ううん」
ロゼッタさんが、うめき声をあげた。良かった。意識はある。だけどその首にはジェシカ姉さんの体を乗っ取ったあの蛇もどきが、首を絞めた跡が赤くはっきりと見えた。
「マリ!」
「大丈夫です。息はあります。元々の骨折以外は体も傷は無さそうです」
「ドン!」
背後で扉が勢いよく開く音がした。
「フレデリカお嬢様!」
見るとハンスさんが、手に鉈のようなものをもってこちらにかけて来る。そしてトマスさんがおっかなびっくりしながら、その後ろを駆けて来た。
「ハンスさん、二人をお願いします!」
そうだ、あの蛇野郎はどうした。私は辺りを見回した。テーブルと椅子が弾き飛ばされ、それが置いてあった木の床が、小さく黒く焦げている。その上に木の根の様な黒い干からびた何かが見えた。前世の自分の父が、幼い頃の私をからかうのに使っていた、イモリの黒焼きを大きくしたような物がそこに転がっている。
それ以外は何の気配もなかった。