排除
「ロイス、ここを出たら、ちっとはましな服を着させて、少しは化粧もさせるから、その手配をしておけ」
ロイスのボス、川筋の顔役の一人であるモーガンは、灰の街の入り口に止めた馬車の中で、護衛役のロイスに声を掛けた。
「はい、モーガンさん」
普通に答えを返しながらも、ロイスは目の前の男に対して、吐き気を催すような気分になった。
目の前の男は、まだ14~15の小娘を愛人に迎えるためにここに来ている。ロイスからすれば、そんな子供を横に侍らして、一体どうするつもりなのだと聞き返したくなる。
「ここはごちゃごちゃしたところだからな。その辺りはどうなっている?」
尊大な態度を一生懸命に演じているが、馬車の卸扉の隙間から、あちらこちらへと視線を向けている姿に、この男の小物感がにじみ出ている。
この辺で下っ端だった時から、腹回りが酒樽の様になった今でも、この男が小心者であることについては、何も変わってはいないらしい。
「ミルコの奴を先に送り込んで、周囲の警戒をさせています。特に何も言ってこないところを見ると、大丈夫でしょう」
それにここはあんたのシマのはずだ。ロイスは心の中でそう付け加える。
「それなら大丈夫だな」
モーガンは馬車の扉に手を掛けたロイスに頷いて見せた。ロイスはモーガンに先立って馬車を降りると、辺りを見渡す。そこにはメナド川の堤防の緑と、その下に続く灰色の街、廃材で出来たぼろ小屋の群れがある。
メナド川と運河に囲まれた、僅かな隙間に張り付くように建っているそれは、ロイスにとっては見慣れた、そして懐かしい風景だった。なにせ自分が生まれ育った街なのだ。
その土手の上に、もうこの世にはいない人の人影を追う。ロイスはその人に心から憧れていた。まだほんのガキだったが、いつもその人の後ろを追いかけて、この堤防を駆け上がっていたのだ。
その人はこの薄汚れた街の太陽のような存在だった。ロイスだけではない。この街にいるみんなが、その人に憧れていた。
『だがもうあの人はいない――』
そう心の中で呟くと、ロイスは緑の土手から、灰色のくすんだ街へと視線を向けた。
若くして、しかも女の身でこの辺りを仕切っていたミランダ姐さんが、何であんな軟弱な屑な男になんて引っかかって、足を洗う事になったのか、ロイスには全く理解出来なかった。
確かに外では強面の奴でも、家に帰れば嫁の尻に敷かれているやつは山ほどいる。だがミランダの姐さんはものが違う。それなのに、姐さんは単にあの男に尽くしただけで、子を産んだ後に、あっという間に死んでしまった。
後を継いだモーガン、今では馬車の扉に腹がつかえるような男は、姐さんのような気風の良さではなく、取引と陰険な陰謀と裏切りでシマを広げ、このあたりの顔役になっている。
もっとも裏では、この男の事をよく言うやつなんて誰もいない。ただ執念深く陰険な、この男の復讐を恐れているだけだ。そしてロイスはそんな男の、単なる用心棒としてここにいる。
「懐かしいな。このどぶ臭い匂いも昔のままだ。この匂いがしみついていたりしたらたまらん。スサンナが持っている香水ぐらいは、すぐに振ってやらないといかんな」
モーガンはそう告げると、上着のポケットからハンカチを取り出して、それを鼻へと持っていく。その台詞に、ロイスは今日何度目になるか分からないため息を、心の中で盛大についた。
『あんたは今の愛人に新しい娘、それもまだガキに、香水を渡せなんて言うつもりか?』
どうやらモーガンは、夜に寝台の上で、愛人に首を絞められたいらしい。もちろんモーガンはロイスがそんな感想を抱いていることなど、気が付きもしない。
「それと、あの親父は色々とたかりに来て、めんどくさそうだ。適当な頃合いで締めてしまえ。娘には酒を飲み過ぎたとか言えば問題ないだろう。実際に酒を飲むしかできない能無し野郎だ」
「はい、モーガンさん」
ロイスはモーガンに頷いて見せる。あの父親についてはロイスも同意見だった。娘をモーガンに売るような父親だ。モーガンの指示などなくても、ロイス自身があの世に送ってやるつもりでいた。
もちろんあっさりなんかは殺さない。生きてきたことを、姐さんに近づいた事を、心の底から後悔させてから殺す。そう決めている。
ロイスはどうやって殺すかを考えるのを後回しにすると、薄手のマントの下で短弩を手に、辺りを警戒していた御者に合図を送った。
あっさりと殺られでもすると、跡目争いが起きて、色々とややこしいことになってしまう。こんなごみみたいな男でも、この辺りで死体がいくつも転がるような事にならない程度の抑えにはなっている。
「では迎えにいくとするか」
モーガンは土手の上を吹く風に乱れた髪を、ポケットから出した櫛で撫でると、肩をいからせながら歩き始めた。ロイスから言わせれば、櫛など当てても、大して変わりなどしない。
たとえそれを直したとしても、髪も薄くなりかけた、腹周りもえらくたるんだ、おっさんであることは一目瞭然だ。
ロイスはモーガンが何を望んでいるのか、よく分かっていた。ミランダ姐さんに対して、腹の底で抱いていた欲望という奴を、その娘に対して晴らす。父親みたいな男の手垢が着く前に、己の欲望の全てを、そこに吐き出すつもりなのだ。
『なんで、こうも腐った奴らばっかりなんだ!』
全く変わっていない、灰の街のあばら家とも呼べない小屋を見ながら、ロイスは心の底から毒づいた。
あんなくそ親父はどうでもいい。奴なんかの代わりに、俺達はミランダ姐さんの娘に、陰からそっと手助けをしてやるべきじゃないのか!
そんな思いが、ふつふつとロイスの心の中に湧き上がってくる。こんな奴の片棒を担いで、その背中を守って歩いている。結局は自分も奴と同じ、汚物の中の蛆虫だ
『俺は一体何をしているんだ?』
ロイスは心の中でそう叫ぶと、頭の上から照り付けてくる太陽をにらみつけた。
* * *
「お嬢様、日差しが強いので、日焼けには気を付けてください」
「はい、ロゼッタさん」
真っ黒な日傘に、真っ黒な手袋迄つけて、万全の日焼け対策をしたロゼッタさんが、背後から私に声を掛けてきた。彼女は手に革のカバーをつけた、私には決して見せてくれない詩集なる物を読んでいる。
同じようなものを読んでいても、飽きたりはしないのだろうか? そんな素朴な義門が浮かぶが、きっと私とは頭の出来も、感性も、全然別物なのだろう。
私はというと、庭の花壇の手入れをしていた。この花壇は私、フレアが大事に育てている花壇で、今はちょうど水仙が終わりの季節を迎えている。なのでその花がら摘みだ。私は白い手袋をした手で、花を摘みながらその葉を何本か切り取った。
記憶を取り戻してから何日かたって、改めて気づいた事がある。私は常にロゼッタさんの監視下だ。ロゼッタさんは、私の家庭教師であると同時に世話係、つまりロゼッタさんがいる限り、私に自由など存在しない。
コリンズ夫人、この王都でのカスティオール家の侍従頭も私に小言を言うが、彼女は用事がない限り私のところには現れない。
一応はそれとなく実季さん、この世界のマリアンさんにお礼を言いに行きたいと、コリンズ夫人に申し出てはみたが、あんな危険な所に行く必要はありませんの一言で、却下されてしまった。
それはそうだろう。一度襲われた所に、もう一度行っても良いと言われるとは思えない。出来ればあれはたまたまですと説明して欲しいと、ロゼッタさんに言っても見たが、完全に無視されたままだ。
ロゼッタさんとしても、コリンズ夫人からものすごく小言を言われていたので、行きたくないのは理解出来る。それでもマリアンに会うためには、何としても行かないといけない。
「どうしました?」
ロゼッタさんが不意に声を掛けてきた。
「はい、何でしょうか?」
「手が止まっています。何か考え事ですか?」
「はい。今度は白い水仙も、植えてみたいなと考えていました」
「そうですか、それならいいのですが……」
そう言うと、彼女は詩集とやらに視線を戻した。恐ろしい人だ。束の間の間、私が色々と作戦を練っていたことすら察知している。もしかしたら、魔法職と言うのは、人の心を読む力もあるのかもしれない。
ただ最近は、ロゼッタさんの授業を相当に気合を入れて受けているので、その点については感心している様だ。ちょっとだけ、前よりは機嫌が良くなった気もする。まあ、これについては、今までが酷すぎただけだとも言える。
ロゼッタさん、私はあなたに恨みなど全くありません。今回だけです。いつか地面に頭をこすりつけて謝ります。それにちょっとだけですから、すぐに回復すると思います。
私に少しだけ自由をください。
* * *
「邪魔するよ」
モーガンはそう声を掛けると、小屋の扉を開けた。周りを他の建物に囲まれているため、小屋の中は薄暗い。それに隙間だらけの小屋なのに、思わず鼻をつまみたくなるぐらいに、安酒の匂いが充満している。
その匂いを嗅ぎながら、ロイスはそもそもここまで来る必要があったのかと思い始めた。だがすぐに考えを改める。いや、あったんだな。この男はこの灰色の街で、ミランダ姐さんの娘を、その腕に抱く事に拘ったという事か……。
「おい、灯ぐらい無いのか?」
モーガンがイラついた声を上げた。次第に闇に慣れてきた目に、細身の少女らしい影が浮かぶ。どうやら箱か何かの上に座っているらしい。
「それに返事ぐらいしろ」
モーガンが安酒の匂いと、部屋の中を舞う埃に顔をしかめながら、ハンカチを持つ手を振った。だがモーガンの呼び掛けにも、ハコに座る影は何も答えない。
「聞こえているのか!」
モーガンが声を張り上げた。本人はドスを効かせているつもりだろうが、その声は裏がえり、むしろおかしみさえ感じられる。
だがロイスとしてはここで苦笑の一つも見せるわけにはいかなかった。この男、モーガンはそういうのを見逃さない。そしていつか必ず、こちらがそれを忘れた頃に復讐をするような男だ。
そこでロイスは娘がモーガンに答えないだけでなく、何かが根本的におかしなことに気が付いた。
ミルコの奴は何処だ?
それにあの屑男はどこに行った?
モーガンが来たら、揉み手で飛んできて、娘を目の前に差し出すぐらいは平気でやる男のはずだ。
「ギャーー!」
その時だった、ロイスの前に立つモーガンの口から短い叫びが上がった。ロイスは誰かが動く気配など、何も感じてはいない。なのにいきなりモーガンの口から悲鳴が上がっている。
気がつくと、ハコに座っていた人影は消えていた。そしてモーガンの口からも、もう何も漏れては来ない。その体は丸太が倒れるように、大きな音と共に床へと転がった。
いつの間にか死体の横に現れた黒い影が、モーガンが手にしていたハンカチで、その手についた血糊を拭っている。
「何者だ!」
そう叫ぶと、ロイスは腰に差したナイフに手を掛けた。だがナイフを抜き終わる前に、ロイスの右目の先に銀色に光る何かが突き付けられる。
「ロイス、大きな声を出さないで――」
ロイスはゆっくりとナイフから手を離した。殺し屋か? うかつだった。待ち伏せするつもりなら、ここは間違いなくうってつけの場所だ。
ロイスの目に、うつぶせに倒れたモーガンの先で、さらに二人の男が床に倒れているのが見えた。一人はミルコ、ロイスと同じ護衛役だ。もう一人は痩せ気味の男、例の屑男が、喉から血を流して倒れている。
ロイスはその死体を注意深く眺めた。ミルコの大きく開かれた目。その体には抵抗したような痕は全く見えない。弱い者いじめが大好きなクズ野郎だったが、腕は決して悪くなかった。それを一瞬のうちに殺っている。自分に刃を向けている奴は、間違いなく手練れの暗殺者だ。
それが娘に化けてここに潜んでいた。うかつだった。自分はここで死ぬのだ。ロイスはそう悟った。だがそれこそが、今日の報いとでも言うべきものだろう。
「ロイス、貴方とはちょっと話がしたいの。貴方はこのクズどもよりは、少しはまともな男だと思っているのだけど、違うのかしら?」
意外なことに、相手から声が掛かった。それもどこかで聞いた声だ。ロイスは刃の先、それを掲げている人物へと視線を移した。そこにはロイスから見れば子供にしか見えない少女が立っている。
だがある人物の面影、いや、面影なんてもんじゃない。ロイスが知っている人物によく似ていた。それに声は間違いなく瓜二つだ。
「ロイス、貴方にこのクズに代わって、ここを仕切ってもらいたいのだけど……」
ロイスは首を横に振った。
「無理だな。この男は十分に恨みを買っていた。死んだと分かれば俺達はお終いだ。こいつのシマを奪いに、色んな奴が乗り込んで来る。俺ぐらいじゃ相手にもならない」
ロイスの言葉に、少女が少しだけ首を傾げて見せた。
「そうかしら? 貴方だって、それなりに人望はあるんじゃないの?」
そう訊ねてきた表情に、ロイスは息を飲んだ。
「ミランダ姐さん――」
ロイスの中の何かが呼び起される。だがすぐに頭を振った。この娘はまだ14~15ぐらいのはずだ。見かけもその通りまだまだ小娘だ。でもまるでミランダ姐さんが乗り移ったみたいな口ぶりじゃないか?
「それに身内で邪魔になりそうな奴や、乗り込んできそうな奴がいるなら、どこにいるか教えてくれない。私が先にそいつを始末する。それが貴方の長い手だと分かれば、誰も貴方に逆らうものはいない。そうでしょう?」
「どれだけ護衛が居ると思っているんだ? それに俺なんかじゃ――」
「貴方の都合は聞いていない。私が知りたいのは、貴方がここを仕切ってくれるかどうかだけ。仕切ってくれないのなら、貴方に用はない。手伝いをしてくれそうな、他の誰かを探すだけよ」
娘が放つ殺気に、何度も死線を潜り抜けたはずのロイスの足が震えそうになる。こいつは間違いなく本物だ。この子はミランダ姐さんの娘なんだ。
『俺は何をとち狂っていたんだ!』
ロイスは心の中で叫んだ。この子以外に俺がついていく人がいるか? 年なんて関係ない。ミランダ姐さんだって、ここを仕切った時はまだ20歳そこそこだったはずだ。
「分かった。あんたの手伝いをする。だが、あんたの目的は何なんだ?」
「私にはやることがあるの。誰かにその邪魔をして欲しくないだけ。貴方にここを仕切ってもらえば、少なくともこの近所で、私の邪魔をする者はいなくなるはずでしょう?」
「もちろんだ。年なんか関係ない。あんたは俺のボスだ。俺がそんな奴はゆるさない」
「そうね。そう願っているわ。先ずは、ここを狙いそうな奴が誰で、どこにいるか教えて。それとカスティオールに伝手があるものが居ないか、探して欲しいの」
「カスティオール? 侯爵家か?」
娘が俺に頷いて見せた。
「これは最優先事項よ。その間、私は貴方の為に少し掃除をしておいてあげる。だけど、ここの掃除は貴方にお願いするわ」
そう告げると、少女はナイフを下ろして、ロイスに向かって肩をすくめて見せた。