新人
「トマス、出来上がったぞ。生野菜と果物の準備は大丈夫か? 醒めないうちに配膳を頼む。今日はロゼッタさんの分はいらないそうだから、フレデリカ様のだけだ」
「はい、ガラムさん」
トマスはあくびをかみ殺しながら答えた。昨日は珍しく客が来たのと、旦那様が屋敷に戻られたので、東棟担当の僕らも西棟に呼び出され、その手伝いにてんてこ舞いだった。夕飯後のデザートやらまであり、遅くまで片付とかもあったので、その疲れで眠くてしょうがない。
ロゼッタさん相手なら、生野菜と果物の用意は真面目に、それは丹精込めて行うが、あの能天気娘だけならそこまで気合を入れる必要はない。
生野菜は簡単に水洗いするだけで、歯ごたえをよくするために、井戸の冷水につけるなんて面倒は無しだ。大分気温が上がったせいもあって若干くたびれている感もあるが、まあいいだろう。あの能天気娘に違いが分かる訳はない。
最近は面倒な質問はしなくなってきたが、たまに意味不明な質問を皿の下にしてくるのは止めて欲しい。女性ものの下着の値段など僕が分かると思うのか? そもそも誰に尋ねればいいんだ? ガラムさんか?
トマスはガラムさんが作ったオムレツに、焼き立ての白パン、ソーセージにヨーグルト、それに自分が用意した野菜と果物を添えた。ガラムさんはいつになったらまともな料理を教えてくれるのだろう。せめて白パンの焼き方を教えてくれれば、こんなところはさっさと辞めて独立出来るのに。
独立出来たらかわいい女の子を雇って、その子と恋仲になり、逢瀬を重ねて最後は寝室でなんて妄想を頭の中で楽しみながら、トマスは盆を片手に階段を昇って二階へと向かった。
能天気娘の居室の前に侍従姿の女性が居る。トマスが料理を渡すべき相手だ。その姿を見てトマスは首を傾げた。前はお付の頭の回転は悪いが、顔立ちはかわいい侍従さんが居て、その子と二言三言、話をするのが毎朝の楽しみだったのだが、その子が辞めてしまってからは、毎朝コリンズ夫人と顔を合わせる。つまり必ず小言を言われるのだ。本当に勘弁して欲しい。これで一日が始まると言うのは、まさに地獄だ。
その人影はコリンズ夫人ではないようだ。遠目にも一発で分かる、コリンズ夫人の樽の様な体形とは明らかに違う。めったにないことだが、ジェシカ様も滞在しているので、東棟から誰か応援に来ているのだろうか?
トマスは盆を片手に、まだ寝起きそのものだった頭の髪をなでつけた。そうと分かっていたら、エプロンだってもう少しは染みが無い物を選んで、料理帽ぐらい被ってくるんだった。トマスは少し、いや、かなり心の中で後悔した。
「おはようございます。フレデリカお嬢様の朝食をお持ちしました」
トマスは朝の陽ざしが差し込まない薄暗い廊下の先で、誰も見ていないと言うのに、見事に背筋を伸ばして立つ女性に声を掛けた。
「ご苦労様です」
きれいな声だ。これは期待が持てるぞ。下げた頭をゆっくりと上げながらトマスは思った。だが、口調は違う様だが、この声は何処かで聞いたことがあるような気がする。何でだろう。声を聞いた自分の手が震えるような気がするのは……。
「トマスさん、お久しぶりですね」
「マ……マ……マリアンさん?」
トマスの手から思わず盆が落ちそうになった。いや、落ちた。だがそれは床の染みになること無く、盆の上の皿が一つも欠ける事も無くきれいに載ったまま、まるで彼女が持って来たかのようにマリアンの手の上にあった。
「この度、こちらでフレデリカ様付きの侍従として働かせて頂くことになりました。新人ですので、ご指導の程をよろしくお願い致します」
そう告げると、目の前の少女がトマスに向かって頭を下げた。その動きに合わせて、高い位置でまとめた髪が馬の尻尾のように軽やかに跳ねる。その立ち振舞や挨拶の仕方は、コリンズ夫人を除けば、ここにいるそれほど多くは無いが、どの侍従さんよりも侍従らしい動きだ。この人は本当に灰の街で合った人物と同一人物なんだろうか?
「は……はい。お……お願い……します」
どういうこと? 何でここに居るの?
初めて会った時の恐怖を思い出すと、体が震える。さっき震えを感じたのは、この声に僕の体が無意識に反応したんだな。あの唯者ではない男達はどうしたんだろう。そもそもこの家の人達は彼女が何者か分かっているんだろうか? あんな恐ろしい人達と一緒の仲間なんだぞ。いやそんな感じじゃない。あきらかに顎で使っていたような感じだった。女親分だ。
「で……では、ぼ……僕は、これで……」
「お待ちください」
振り返って逃げ出そうとした僕に向かって、マリアンさんが灰の街の時とは明らかに違う、丁寧な口調で僕を呼び止めた。もしかして灰の街で僕が見たのは双子の姉妹とかそういう話ではないですよね?
「な、なん、でしょうか?」
問いかける僕を無視して、マリアンさんが上着のポケットから何やら小さなスプーンと、ハンカチを取り出した。そして、ガラムさんが作ったオムレツの端を小さくそれの上に乗せると、僕の方へと差し出した。
「口を開けてください」
「あ……あの」
「料理が覚めますので、早くお願いします。それと、口は貴方がそれを飲み込んだのが分かるように大きく開けてください」
「えっ!」
だが僕が何か言う前に、マリアンさんが僕の口の中にオムレツと、続けていくつかの料理の切れ端を無造作に放り込んだ。
「げ、げほげほ」
思わずむせた僕に対して、お盆はいつの間にか彼女の背中の方へ移動していた。僕のツバが入らない様にする為ですね。
「もう一度口を開けてください」
マリアンさんが、僕が全部を飲み込んだのかどうかを素早く確認した。
「ちょっと、ひどいじゃないですか!」
マリアンさんは僕の問いかけを一切無視して、白いハンカチの上でその小さなスプーンの色合いを確かめている。これって……。
「ガラム料理長が飼っている犬はお元気でしたか?」
犬? あの僕が餌をやっているにも関わらず吠えてくる恩知らず?
「はあ? 今朝も僕に向かって吠えてましたよ」
普通の犬なら尻尾を振って寄ってくるはずですけどね。
「ならば、遅効性の毒も大丈夫という事ですね」
マリアンさんはそう独り言を言うと、納得したように頷いた。もしかして僕はあの恩知らずの犬と同じに扱われています? つまりは毒見係という事でしょうか?
「トマスさん、ご協力ありがとうございました。これからも毎食お願い致します。ですが、生野菜はちゃんと冷水にさらしてからお持ちください。今日は特別に見逃して差し上げますが、次回も同じでしたら許しません。魚の餌です。それに虫がついている等と言うのは論外です。あと、ガラム料理長にオムレツを焼くときの油が少し多すぎるとお伝えください。胃にもたれます」
マリアンさんは僕に向かってそう告げると小さく頭を下げた。ちょっと待ってください。もしかして僕はこれを毎食やらされるんですか!? それに、ガラムさんに僕から文句を言えって言っています? しかし僕が何か口を開く前に、マリアンさんはぴんと背筋を伸ばして、部屋の扉を小さく叩いていた。
「フレデリカお嬢様。朝食をお持ちしました」
「はーい!ご苦労様です」
「失礼いたします」
盆を持っているとは思えない動きで素早く扉を開けて、小さく礼をして中へと入っていく。灯をけちっていて薄暗い廊下には僕だけが残された。
「マリアンさん、お嬢様は止めてください!」
中から能天気娘の声が聞こえてくる。
あの子が……ここの侍従、それも東棟の能天気娘付きの侍従!? 僕の同僚?
トマスは先ほどのマリアンの姿を思い出して身震いした。だが今度の身震いは恐怖の身震いではない。なんだろう、あのきりっとした侍従姿で、あの冷ややかな目で見つめられた時に、心の底から上がってきた得体のしれない震え、生のレモンをかじってしまった時の様な震えだ。
ロゼッタさんに会って、初めて見つめられた時にも感じたものだ。だけどこれは、この震えはロゼッタさんに会った時と比較にならない。そのまま殺されてしまうんじゃないかと言うような緊張感も半端ない。偶然でも湯あみを覗こうものなら絶対に、間違いなく殺される。
「なんて、素敵な人なんだ」
トマスはうっとりとした気分でしばし扉を眺めた後、ぼんやりとした夢見心地の気分のまま、調理場へ向かって、転がり落ちるように階段を下りて行った。