始動
「フレデリカ様」
聞きなれた声が部屋の扉の向こうから響いて来た。私はその声に収まりが悪い赤毛と櫛で格闘していた手を止めた。
「はい、なんでしょうか?」
「旦那様がお呼びです。客間までおいでください」
扉の外でコリンズ夫人が私に告げた。客間? 居間では無くて? 誰かお客さんでも来ていて、私やアンをその人に紹介するのだろうか? もしかしたら、アンに婚約の話が来たとか?
私のお披露目の時には全く梨のつぶてもいいところだったけど、アンジェリカさんは私と違ってとってもかわいいし、お披露目であれだけ見事に踊って見せたのだ。婚約話の一つや二つ、いや両手両足ぐらいは来てもおかしくはない。もしそうだとしたら、この髪でお客様の前に出るのはちょっと残念過ぎる。
「あの、ちょっとお待ちを……」
だが扉の外にはもうコリンズ夫人の気配は無かった。めずらしくこの家にお客様が来たので忙しいのだろう。しかたがない。お客様をお待たせする方がもっとまずい。
私は髪と格闘するのを諦めて、櫛を化粧台の上に戻すと、そこにまとわりついている、跳ねまくりの赤い髪の毛をげんなりした気分で眺めた。
変なものが混じる前のフレアは、あんなに素直に真っ直ぐ育ったというのに、この赤毛だけはどうして真っ直ぐ育ってはくれなかったんだろう。やっぱり髪と言うのは、育った環境だけでは何ともならない物なのだろうか?
だがそんな事を考えている暇はない。私は鏡の前でくるりと回ると、この前お披露目で着て行ったドレスが、問題なく着れているかどうかを確認した。私付きの侍従さんが居た時は着るのを手伝ってもらっていたが、今は誰も手伝ってくれる人はいない。やっぱり袖と裾が短い気がするが、夏だしいいか?
それより何で胸は普通に収まっているんだ? この二年間、私の胸は栄養を吸収することなく、惰眠をむさぼっていただけなのでは無いだろうか?
「まあ、こんなものかな?」
思わず独り言が口から出てしまった。誰かお付の人がいると鬱陶しいと思う癖に、誰もいないと寂しいと思うなんて、人間と言うのはなんて贅沢にできているのだろう。私は自分の居室の扉を開けると、西棟にある客間へと向かった。
西棟の客間の前に来ると、中からはお父様とお客様らしい方が楽し気に話している声が聞こえてきた。お父様は私達にはとてもお優しい方だけど、以前、お父様がまだこの屋敷にいらしたことが多かった時には、お客様が来た後は暗い顔をされている事が多かった。どうやらこれはきっといい話だ。やっぱりアンジェリカさんに婚約のお話が来たのだろうか?
「トントン」
私は客間の扉を叩くと、声が上ずらないように小さく咳ばらいをした。
「はい」
「フレデリカです。お呼びにより、お伺いさせていただきました」
私はそう告げると、客間の扉をそっと開けた。これも侍従さんが居れば侍従さんが開けてくれるんだけどな。こんなドレスを着ていると、それが扉に引っかからないか気をつけないといけないので、とても華麗に入って華麗に挨拶など出来ない。
私はドレスの裾に気を付けながら扉を閉めると、前に向き直って、右足を後ろに下げてドレスの裾を軽く、ちょっと短いですから、上げ過ぎると私の少しばかり成長し過ぎた足首が見えてしまいますので、本当に軽く上げて挨拶した。
「フレデリカでございます」
私の下げた頭の先で、誰かが立ち上がる気配がした。ゆっくりと頭を上げると、私よりははるかに年齢は上だが、まだ若々しさを失っていない黒髪の男性が立っていた。彼の秘書さん達でしょうか? 部屋の隅に彼のお付の人らしい方々の気配もある。
「長女のフレデリカだ。フレデリカ、ライサ商会の新しい代表の方だ」
「エイブラム・マクレーンです。フレデリカ様、本日はお会いできて、光栄の至りです」
そう言うと、胸に手を当てて丁寧にあいさつしてくれた。どうやら爵位はないので貴族ではないようだけど、とても紳士的な人らしい。
「こちらに来て座りなさい」
一年ぶりにお父様の声を聞いた。この方は、どこかの大店の息子さん? この方が、アンジェリカさんの婚約者だろうか。ちょっと年が離れすぎてはいませんか? 誠実そうには見えますが、姉としては正直なところ、この年齢差はどうかと思います。
あれ、そう言えばアンは居ませんね。まだ着替え中かな。私はお父様に手招きされるまま、隣の席へと座らせていただいた。目の前に立っていたエイブラムさんも着席する。
「フレデリカ、お前付きの侍従が半年以上前に辞めて空席だという話を聞いて、エイブラムさんが親戚筋の方を、行儀見習いを兼ねてお前の侍従として紹介したいそうだ」
私はその言葉に驚いた。それまでは婚約前の女性らしく、殿方の前でうつむき加減にしていた顔を上げる。目の前には小さく口髭を生やしたエイブラムさんの笑みがあった。だが私の目にはその顔は映ってはいない。私の視線は、彼の背後に立つ二人の女性の一人に吸い寄せられていた。そこには彼女が立っていた。その深い鳶色の目が私をじっと見つめてくれている。
思わず驚きのあまりに、手に口を当てたくなるのを、彼女に向かって手を振りたくなるのを、そして彼女に向かって立ち上がって駆けだしたくなるのをぐっと堪えた。喜びを我慢しなくてはいけないのが、こんなにも辛いなんて!
今まで私は全く知らなかった。
* * *
「ロゼッタ、元気そうね?」
ジェシカは庭に面したテラスの日陰で詩集を読むロゼッタに声を掛けた。
「貴方はずいぶんと大変だったみたいね」
ロゼッタは詩集から顔を上げると、それを閉じてジェシカに答えた。ジェシカはロゼッタが座っていた小さく白い丸テーブルの椅子を引くと、それに腰を掛けて、左手で頬杖を付きながらロゼッタを眺める。それを見たロゼッタは手を上げると、白い布でつられているジェシカの右腕を無言で指さした。
「これ? 折れただけだから大したことはない。もっとも傷がないのは顔ぐらいなものよ。私を嫁にもらいたいなんて殿方は誰もいないと思うから、今更骨の一本や二本が折れたぐらいで何も変わらないわ」
そう言うと、ジェシカは左手でギプスをした右手を軽く叩いて見せた。
「そうかしら?」
ロゼッタはジェシカの言葉に首を傾げて見せた。王立学園に居た時から、ジェシカに恋する男の子達は山ほどいた。それに誰もが顔や体だけを見て異性を求める訳でもない。
「でも右手が使えないと役立たずだから、旦那様と一緒にこっちに戻ってきたという訳。貴方が手伝ってくれれば助かるのだけど」
ジェシカはそう告げると、今度は少しばかり上目遣いにロゼッタの顔を眺めた。
「私はフレアの事以外で、この家の何かを手伝う気はないわ」
表情一つ変えないで答えるロゼッタを見て、ジェシカは左肩を少し上げて見せた。
「そう言うに決まっているよね。そんな事よりロゼッタ、フレアの件はどうなっているの? コリンズ夫人から連絡を受けた時には、心臓が止まるかと思ったわ。それにあの子、寝ながら泣いていたわよ」
ジェシカの台詞に、先ほどと違って、ロゼッタが顔をしかめて見せた。
「私の油断よ。あの子には本当に悪いことをした」
「本人は?」
「カミラは何もかも覚えていないみたいね。もっともフレアの事を考えれば、その方がいいのかもしれない」
「覚えていない? 自分でやったのに?」
ジェシカの問いかけにロゼッタが頷いて見せた。
「カミラがそれだけ深くそう思い詰めていたと言う事よ。それにも関わらず、フレアがカミラの事を看病すると言い張ったから、悪いとは思ったけど少し強い薬を使わせてもらったわ」
「看病? 一体どういう事?」
「あの子は、カミラは操られただけで決して悪くない。だから自分が看病すると言って聞かなかったの」
ロゼッタの言葉に、ジェシカが考え込むような表情になった。
「ロゼッタ、私がこの件をあの子に直接聞いた時に、あの子がどうしたか分かる? あの子は私ににっこりとほほ笑んで、『大丈夫』と告げたのよ」
「例えそれが演技だとしても、精神的に成長したわね」
「成長? 何を言っているの」
「どういう意味?」
その顔色を見たロゼッタが、ジェシカに問い掛けた。今や彼女は何かを恐れているような表情すらしている。
「あの子は本当にフレアなの?」
* * *
『これで一つ肩の荷が降りた』
商会への戻りの馬車の中で書類に目を落としながら、エイブラムは心の中でそう独り言をついた。これであの子が「信義」と呼んでいたものの一つを返すことが出来た。だがあの子が、あの赤毛の子が、マリアンが言っていた「あの方」なのか?
マリアンは「私はその方の剣です」と言っていた。深窓のご令嬢か、女騎士みたいな少女を想像していたが、全く違う。俺から見る限り、普通の世間知らずの貴族のご令嬢そのものだ。何か違いがあるとすれば、ご令嬢と呼ぶには少しばかり愛想が良すぎて、落ち着きが無い所だろうか?
むしろ普通の町娘と言った方が似合ってそうな少女だ。一体マリアンとあの子との間にどんな関係があるのだろうか? コリーが調べた限りでは、やはり灰の街で襲われそうになったあの子を助けたという一点以外、全く接点がない。
まだ何かあるはずだとしつこく食い下がった俺は、コリーにあきれ顔をされたぐらいだから、本当にもう何も出てこないのだろう。実際のところ、カスティオールの屋敷を離れる前に、マリアンは俺に向かって、他人行儀ではないかと思うぐらいに丁寧に挨拶した上に、
「心から感謝します」
と告げて来た。やはりあの二人には何かあるのだろう。あの娘も俺と言葉を交わしている間もマリアンの方ばかりを見ていた。
「何か気になる点でもありますでしょうか?」
その言葉に書類から目を上げて、話しかけて来た相手を見た。前に座る丸顔の娘が不安そうな顔でこちらを見つめている。
「いや、モニカ君。特に疑念はない。ただし、うまく行かなかった場合の代替手段や、他の商会に対する参入障壁などの検討、その評価はどうなっている」
「ご指摘の通り、そちらについてはまだ評価が出来ていません。代替手段については事業が事業ですので、それの検討は難しいかと思います。利益目標を明確に定めて、それに達しなかった場合の撤退の準備、最低限の債権の回収手段の確保と言う事になります。それよりは想定される事態に対する明確な方針について、あらかじめ検討を十分に行う事の方が先だと思います」
コリーが言う通りにこれは博打のようなものだ。だからこそ掛け率を少しでも良くするための努力をしろという事だな。この娘も見かけによらず、この若さでずいぶんと大胆だ。俺がもっと若い時でも、頭に浮かびはしても、やる気になったかどうかは怪しいところだ。いや、間違いなく出来なかっただろう。
失敗した時に失うものとしては、信用やら色々なものも含めて、俺やコリーの方がこの子より大きいのだが、何だろうな、この腹の底から湧き上がってくる、全身が痺れるような期待感という奴は。
「参入障壁を考えるよりも、他からの投資を呼び込む為の下準備及び先行者利益を考える方が、我々の資金力を考えれば現実的です」
「モニカ君。この件については前向きに検討する。それと君の……」
「本店にはご迷惑はお掛けしません。それよりも、カスティオール家の中にもこちらに協力してもらえそうな人物を見つける必要があります。マリアンさんは簿記については大分理解が進んでいます。それに契約管理や棚卸など実務を学んでいただければ十分に一緒にやっていけると思います。そちらも合わせて私が担当させていただきます。ですが、それでもまだ手が足りません」
この子がカスティオールに常駐するという事は、うちがカスティオールの屋敷の中に支店を持つようなものだ。俺がたまにカスティオールに顔を出す口実としても好都合だな。
ちょっと待て、俺は何に対して好都合だなんて考えているんだ? 心の中のもやもやとしたものが、自分に対して答えを告げる。つまり俺はあの子が自分の近くに居なくなることを寂しいと思っているのだな。何てことだ、俺は少女趣味の男じゃない。寝台で褥を共にするのなら、普通の大人の女性がいいに決まっている。
だがその答えが何かも分かっている。俺があの子に対して寂しいと思う気持ちは、そんな下世話な話ではない。マリアンがあの子に捧げているひたむきさが、とてもまぶしく、そして羨ましくてしょうがないのだ。少しでもいい。あの子の手伝いをしてやりたいのだな。
商売には常に相手がある。決して一人では出来ないものだ。イーゴリの中で歯車の一つのような日々を過ごすうちに、自分はそんな当たり前の事すら忘れていたらしい。それを思い出させてくれたあの子は、自分にとってはとても大切な恩人だ。
だから誰かの為に頑張るというのも、人生の目標としては決して悪いものではない。そしてどうやら俺の目の前に座る丸顔の少女にとっても、それは同じ事らしい。
「君の提案については了解した。可及速やかに先を進めて欲しい」
「はい、エイブラム代表。了解しました」
目の前の少女が満面の笑みで俺に答えた。