表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/347

会計係

「マリアンさん、受取が手形の場合は、現金と同じなので入ってくる場合は借方、つまり左に、出ていく場合は貸方、右です。手形が入金された場合は、借方に現金で、貸方に手形になります」


 モニカは経理の部屋でマリアンに対して簿記の基礎を教えていた。昼休みに入ったこの時間、この経理部屋にはモニカとマリアン以外は誰もいない。モニカがここで働き始めた時点で、机より人の方が遥かに少なかった。


 この部屋の主人、自分達の上司のコリーさんがさらに何人もの人を首にしたので、現時点では、ここで働いている人はコリーさんを含めて、片手を僅かに超える程度しかいない。


 父のウズベクも最初はここで働いていたが、今はメナド川の岸辺にある、港湾事務所の方で働いている。そちらの方が忙しいらしい。コリーさんは、一時間ほど前に何かの用事で呼び出されてからこの方、この部屋には戻って来ない。他の人達はお昼を食べに外へ行ってしまった。


 簿記の基礎を教えることは、人手が足りないことで経理部に臨時に配属になったマリアンの方から頼まれた。もちろんモニカには断る理由など全くない。むしろこの少し年下の少女と話が出来る機会が出来たことを心の底から喜んだ。


 そしてこの部屋には誰もいない。二人っきりだ。窓を空けて風を入れていても、モニカは耳の後ろが熱くてたまらなかった。


「なるほど、科目によって増えた時に右に来るのか左に来るのかが決まるのですね」


「はい、借方は資産、貸方は負債ですが、あまりその意味については気にしないで、科目によって増えたら右に来るのか、左に来るのかを覚えてから意味を考えたほうが混乱しなくていいと思います」


 モニカの説明にマリアンが頷いて見せた。立ち上がって背後から座って帳簿を眺めているマリアンを見ているので、頭の後ろの高いところでまとめたまっすぐな鳶色の髪と、その微かに日焼けしたうなじがマリアンの目と鼻の先にある。


 それを見ていると、耳の後ろの熱さだけでは無く、心臓の鼓動が耳まで直接響いてきて、椅子の背もたれを握っている手までもが汗ばんで来るのが分かった。


 自分より年下だけど、切れ長の冷ややかな目や、キリっとした立ち振る舞い。動いた時に頭の後ろで跳ねる長い髪。その全てが似合っている。なんてかっこいい人なんだろう。


「分かりました。商品を売った場合の動きが二種類あってよく分からないのですが?」


 いつの間にかマリアンさんが、首を傾けてこちらを見ていた。その鳶色の目で見つめられると、今度は心臓が止まりそうになる。


「はっ、はい、商品を売った場合ですが、現金で売った場合と掛けで売った場合で、相手方勘定が売上なのか売掛なのか変わります。基本的な違いはそれだけです」


「なるほど。分かりました。売掛に対する入金があれば、入金された現金が左に、それで消し込んだ売掛が右に来る。つまり間に掛けが入る分だけ、最終的に現金になるのにもう一段階あるということですね」


 この人はすごい。あの副所長を投げ飛ばせるだけじゃない。簿記の基本的な枠組みについても短時間で理解している。頭もすごくいい。きっと一年も経理の仕事をすれば、債権債務はもちろん、原価管理や棚卸、在庫の評価なども全部できてしまう事だろう。


「はい、その通りです。売掛の場合は同じ取引先の買掛との間で、相殺する場合もあります。そちらの方が普通ですね。短期間で簿記の基礎を理解出来ていますから、マリアンさんには経理の才能がありますよ」


「そうでしょうか?」


「もちろんです。基本的には何か取引をした時にはそれによって右左に対応する勘定が発生するという事です。取引によって何かが増えたら何かが減る。それだけの事です。マリアンさんはその本質が理解できています。意外と個別の取引について、仕訳の切り方だけを覚えていて、その本質を分かっていない人は多いんです。そもそも科目は単なる名前にすぎないですから、科目だけを覚えていても意味は無いんです」


「そういうものなんですね」


「はい。そうです。出資者に対して、他と比べ易くするために、一定の科目名を共通にしているだけです」


 マリアンさんが経理に興味を持ってくれて、一緒に働けるとしたらどんなに幸せな事だろう。モニカはそれを願って言葉を続けた。


「簿記の中では数字は単に増減するだけではありません。かならず元と先が記録されます。つまりどこかに消え去る訳ではなく、基本的にはそれが蓄積していくことになります。取引が続く限りはこの小さな帳簿の中に、永遠というものが存在するんです」


 マリアンは自分で口にしながら、大げさ過ぎただろうかと少し後悔した。ちょっと前までの自分は、こんなことを他人に言うような存在では無かった。


「だからこの帳簿の中の数字には命のようなものを感じられないのですね」


「命ですか?」


 マリアンの簿記に対する意外な感想に、モニカは驚いて聞き直した?


「ええ、消え去ることが無いものは命とは呼べません」


「考えたこともありませんでした。でも取引が無くなってしまえば、その数字は動かなくなります。つまり商会の死です」


 この商会がかつてやっていたと噂される循環取引は、同じものをぐるぐると回すことで、見かけだけ世界の終わりを先送りしていたと言えるのかもしれない。モニカはそう思った。


「死と呼べるかもしれませんが、それは全てが凍りつく様なものですから、世界の終わりですね。生命の終わりとは違うような気がします。帳簿の上では個々の取引こそが生命のような物なのですね。生まれて、すでにあるものの上に重なっていく」


 マリアンが帳簿の上の数字を指でなぞりながらそう告げた。


「マリアンさんて、詩人なんですね」


「詩人? 私がですか?」


「はい。とっても素敵です」


 この人は見かけや腕だけじゃない。中身も本当に素晴らしい人だ。この人のおかげで、引っ込み思案でとても地味だった自分が、変れるきっかけをもらえたような気がする。例え年下でもお姉さまと呼びたいくらいだ。


「あの、今度のお休みの時に良かったら、一緒にお買い物に行きませんか? まだ服とか色々なものが足りなくて……」


 マリアンさんと一緒にお買い物をして、お茶なんかできたら、なんて素晴らしい事だろう!


「マリアン、居るか?」


 突然、部屋の扉が開けられたと思ったら、男性がこちらに声を掛けてきた。その鼻の下にはあまり大きくない口髭が見える。


「はい、エイブラム代表」


「どうやら侯爵が領地から戻って来たらしい。出かけるぞ。カスティオール家の邸宅だ」


「はい、エイブラム代表。了解しました」


「モニカさん、すいません。出かける事になりました。帳簿のつけ方について色々と教えてもらってありがとうございました」


「マリアンさん?」


 モニカはマリアンに声を掛けた。マリアンの言葉がまるで別れの言葉の様に感じられたからだ。


「しばらくはこちらに来ることは出来ないと思います」


 その言葉に、モニカは周りが急に暗くなったかのように感じるほどの衝撃を受けた。


「ど……どちらに行かれるんですか?」


「カスティオール家です」


「カスティオールですか?」


「はい。ここに居る間、モニカさんには大変お世話になりました。ありがとうございます」


 マリアンはモニカにそう告げて頭を下げると、エイブラム代表と共に部屋から去って行った。部屋にはモニカ一人だけが残されている。


「カスティオール……」


 モニカは魔法職が呪文を唱える様に、その名前を口の中で繰り返していた。以前の自分だったら、ここで諦めていただろう。そして短い間だけでも一緒に居られたことで自分を満足させようとしたかもしれない。だけど、マリアンさんに会ってから自分は変わった。マリアンさんと一緒に居たいと叫んでいる自分が居る。


「カスティオール」


 モニカは、最後にもう一度その名を告げて頷くと、自分の机に戻って一枚の紙を取り出した。


* * *


「カスティオールの会計係として君を推薦しろだって?」


 コリーは、エイブラムとカスティオールに関する相談が終わって、自分の机に戻るや否や、その机の上に書類を差し出してきたモニカを見て声を上げた。


 書類の最初に、推薦状の依頼をという一文を見た時には、きっと他の商会のどこかから引き抜きでもあって、それを伝えに来たのかと思った。鉱山からこちらに移って働いてもらっているが、この子とこの子の父親は、エイブラムが言う通りに間違いなく優秀だった。


 父親は豊富な経験があったので、それはそれで納得のいくところだったが、この子については正直驚いた。掘り出し物どころではない。昔の自分を見ているようだとすら思っていた。いや同じ年の自分以上かもしれない。


 いくらライサが落ちぶれているとはいえ、続いている取引もあるし、経費も日々発生する。それに在庫の評価やら、色々と垢を落とさないといけない所も残っている。掃除の結果、とても少ない人数になってしまったここが回っているのは、正直な所、この子のお陰と言っても過言では無かった。


 この世界は広い様で狭い。うちが色々と掃除をした後でも業務が回っている事について、他がその理由を調べたくなってもおかしくはない。優秀だがライサには金がないので、それに見合うだけの給金が払えている訳ではないから、他がこの子を引き抜こうとしてもおかしくはない話だ。それなら納得できるし、いずれは起きる事だと思っていた。


 だが、この子の持って来た書類にはカスティオールの会計担当として推薦して欲しいと書いてある。どう言う事だ。この子が優秀な分だけ言っている事が分からない。


「はい。コリーさん。よろしくお願いします」


「うちも君の能力に見合った給金が払えていないという自覚はあるが、カスティオールに君を雇う金があるとは思えないがね」


「コリーさん、コリーさんらしくありません。どうか最後まで依頼内容及び、提案内容の確認をお願いします」


 そう言うと、モニカはコリーに向かってよく読めとばかりに書類の上を指さした。


ここ(ライサ)との間で兼業?」


「はい。そうです。さらにカスティオール領を復興させるための共同事業の提案係も兼任します。こちらでの事務作業も継続して行います。カスティオールのお屋敷の経理処理自体は、ほとんど負荷にはならないと思いますので、十分に可能だと思っています」


「モニカ君、君はいつ寝るつもりだい? 君が倒れてしまっては元も子もないのだが?」


「それも有りますので、カスティオール家に住み込みにさせていただいて、こちらに通う形にしたいと思っています。いずれにせよ、ライサ自体も新規に事業を行わない事にはこの先はありません。それはカスティオールの復興にすべきだというのがこちらの提案書です。現時点では概算の数字しか出せていませんが、少々お時間を頂ければ、計画案を含めて費用および、粗利益の計算書も合わせて出します」


「概算って? モニカ君、この数字はもしかして僕が席を離れていた間に作った物かい?」


「い……いえ、そんなことはありません。以前から用意していたものです」


 コリーは書類を眺めながらため息をついた。なるほど、色々な商会が持っているカスティオールの債権を譲り受けておいて、カスティオールが復活したら一気にそれを取り戻すという作戦か。新規事業と言うよりはばくちだな。


 だがカスティオールからの難民を中心に、それを組織化して行うという辺りには、少しだけ合理性がある。エイブラムが言う通りに、事業の成功不成功は最後は人と運で決まる。金で決まる物ではない。


「これをやったら、各商会から集めた資金をほとんど使う事になるぞ」


「その資金は出資先の商会と競合する分野に使っても、意味がないのではないですか? 同じ事を同じようにしても、得られる利益は同じものです。資金力がないうち(ライサ)では、先行者には勝てません。それにこれは大事な投資です。投資先でそれを間違った使い方に回す者が居ないかどうか、監視する役は必要だと思います。ですので、給金はライサに払って頂きたいのです」


「分かった。この件については君の意見を尊重することとする。丁度エイブラムが、侯爵に挨拶をする為にカスティオールの屋敷に向かうところだ。私が一筆書くから、それをもってエイブラム代表に同行し給え」


「はい、コリーさん。ありがとうございます」


 カスティオールは故郷を愛す。あの地の民謡そのものだな。だが待て、別にカスティオール家に住み込みになる必要などない。こちらから通えばいいだけだ。


 コリーは午前中まで、ある娘が座っていた席を見た。何てことだ。この娘も()の好みは、エイブラムと同類という事か?


 商人としてもこっちじゃない、エイブラムに似ているんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ