愛情
「またずいぶんと、ボロボロになったものね――」
耳に響く皮肉めいた声に、トカスは薄目を開けた。息が満足に吸えず、頭がぼーっとしている。そのせいか、胸の痛みはほとんど感じられない。その死にゆく姿を、侍従服を着た女が、ランタンを手にのぞき込んでいる。
『あの少女が戻ってきたのか……』
一瞬そう思ったが、女の手には何もない。それにこの侍従服は――。
「イエルチェ……か……。今まで……どこに隠れていたんだ……」
トカスは言葉を続けようとしたが、溢れる血がそれを妨げる。それより、あの『見えざる者』たちはどうなったのだろう。気づけば、聖母の子宮の姿はなく、ガラスに姿を変えた天井だけが見えている。死にかけのこちらではなく、ロゼッタたちを追ったのかもしれない。
「や、やつら……は……」
「お邪魔虫たちのこと?」
イエルチェはそう告げると、手にしたランタンを通路の先へ掲げた。トカスのぼやける視界の先で、何故か陽炎がゆれている。そこにいきなり血のように赤い目が現われた。さらに長く赤い舌が、虚空からこちらへ伸びてくる。それは目に見えない何かによって弾かれた。
『な、なんだ、こいつは?』
「白血ね。穴の向こうの世界の生き物。姿は巨大なトカゲみたいなやつだけど、背後の景色を体に写すから、透明に見える」
『これが……あの子がいったトカゲもどき……。み、見えている――」
「私が特別に見せてあげているの」
イエルチェがトカスに片目を瞑って見せる。この侍女が只者でないこと、おそらく人でないことも分かっていたが、その実態を見た気がした。まるで、屠殺場へ引き出される家畜を眺めるかのような、冷たい目をしている。
「お前は……なん……なんだ?」
「私? あなたたちが魔族と呼ぶ者かしら。穴の向こうから呼び出したものを、こちらへ定着させようとした者の成れ果てね。ただ一つ違うのは――」
イエルチェの目に怪しい光が灯る。
「どこかの誰かが、それに人の魂と同じものを持たせようとした。人の代わりを作ろうとしたわけ。その結果が私たちよ」
トカスの頭に、いつも黒づくめの服を着た、これと言って特徴のない男の姿が浮かぶ。
「あ……あの……男の仕業……か?」
「どうかしら? 私たちみたいなのを作ろうとしているけど、作れていないところを見ると、違う気がするわね」
「自分で……分からないとはな……」
「あなただって同じでしょう。自分の命をかけて女を救うだなんて、想像できた?」
イエルチェの問いかけに、トカスはわずかに口元を上げた。その間にも、闇に浮かぶ赤い目と、時折現れては消える赤く長い舌は、徐々にこちらへ近づきつつある。
「ふ、二人はどうした?」
「気になる? ここは抜けたみたいだけど、こいつらが追っていったから、どうかしら?」
「こ、こいつらを――」
必死に言葉を絞り出したトカスへ、イエルチェが肩をすくめて見せる。
「残念だけど、こうして少しの間、押さえつけるのがせいぜいよ」
「お、俺と、同じぐらい……役立たずだな……」
「死にかけのくせに、軽口だけはまだ叩けるのね」
イエルチェはそばかすが目立つ顔に呆れた表情を浮かべた。
「本来ならこんな奴、どうってことないわ。いけすかない知り合いは、おやつ代わりに食べるぐらいですもの。でも今の私の大部分はあの子なの。それにしばらく人の魂を食べていないから、大した力もだせないわね」
「な、なら、話は早い。死にかけでも……役にたつなら……俺の魂を……くれてやる。そ、そいつらを……ぶっ飛ばせ……」
「私に助けは求めないの?」
イエルチェはこれまでの軽薄な表情を捨てると、真剣な顔をした。
「私たちは人ではないけど、怒りもするし、嫉妬だってする。でも『愛情』だけは理解できない。それって何? ある知り合いは、それを知りたいらしく、いつも恋愛小説を読んでいた」
「さあな……ある男の言葉を借りれば、心から殺したいのと……心から愛しているのは同じものらしい……」
トカスはそこで言葉を切ると、イエルチェをじっと見つめた。
「あの女を……殺したいぐらい愛していたんだろうな……」
「殺したいのなら分かるわ。もしかしたら、私もいつかそれを理解出来るのかしら?」
そう告げると、下ろしていた髪を後ろにまとめ上げる。そしてトカスの前へかがみこんだ。その顔はいつの間にか、イエルチェのものではなく、別の誰かに変わっている。
「あなたの愛情を私に見せて……」
「ロゼッタ……」
トカスの口からつぶやきが漏れた。しかし何も告げるべき言葉を持っていないのに気付く。それを見つける時間も、トカスには既になかった。
暗紫色に変わるトカスの唇へ、イエルチェはそっと口づけをした。表情を失いつつあるその顔を眺める。今のイエルチェの一部は、本物のイエルチェでもある。人が肉の快楽を得たがるのは理解できた。だがこの行為には、一体何の意味があるというのだろう?
「やっぱり、よく分からないわね……」
イエルチェは死にゆく男を見つめながら、小さく首をひねった。その横を赤い舌がチロチロとうごめく。
「うっとうしいわね」
それを手で振り払うと、イエルチェは立ち上がった。そして侍従服のポケットから、ガラスの小瓶を取り出す。その中では黒い靄が、とぐろを巻きながらうごめいていた。
「どういう訳か、あっちにはサンドラが張り付いているみたいだし、人のおもちゃだけど、こっちを使わせてもらうことにしましょう」
そう独り言を漏らしつつ、イエルチェは瓶の中身を、喉を鳴らしながら飲み込んだ。
「だって――こっちの魂の方が、ずっと〝面白そう〟じゃない?」
イエルチェは再び伸びてきた赤い舌を片手で掴むと、それをおもむろに引き抜いた。