口づけ
トカスは声が響いてきた方、穴の先へ視線を向けた。そこでは杖を手にした老人が、いかにも困った顔をして立っている。
「ロゼッタ先生、あなたも教育者なら、世の中にはルールというのが存在するのは、よくお分かりだと思いますが?」
そう告げると、黒曜石の瓦礫の山を杖で指し示した。
「このような逸脱は困りますね。ここでは、どなたかの魂を捧げていただく必要があるのです」
「シモン学園長、それはそちらが決めたルールであって、私が認めたルールではありません」
ロゼッタの答えに、シモンは白く長い顎髭をしごいて見せた。
「はて……? それに一度は従っているはずですが?」
「荒ぶる影をまといし刃の亡霊よ!」
トカスはシモンの不意をついて、簡易陣での速攻呪文を唱えた。地面を走る黒い影がシモンを追う。シモンは影を避けると、背後へと飛びのいた。その動きは、見かけからは想像もできないほど素早い。
だが影の刃の追跡からは、逃れられなかった。影がシモンの体を捉える。その瞬間、シモンの体を金色のきらめきが覆った。トカスの放った影の刃は、その淡い光に弾き飛ばされる。
「――その灼熱の炎は何者も遮ることは能わず、来たれ暁の大鳳よ!」
その間に術の準備を終えたロゼッタが、極大呪文を唱えた。それに応えて、真っ赤に輝く羽を持つ大鳳が虛空に現れる。大鳳は赤く燃える羽を広げると、シモンへ向かった。
トカスは焦った。狭い通路が、大鳳の放つ灼熱の炎で満たされていく。トカスの張った最後の水霊の守り手が、その炎と交わり、火花を散らした。だがあまりの高熱に耐え切れず、蒸発するように消えていく。
『このままだと、丸焼けだ!』
そう思った時だ。目の前に新しいベールが現れた。ロゼッタが並行思考で召喚した水霊の守り手だ。暁の大鳳は周囲の壁や天井をガラスに変えながら、シモンに襲い掛かった。
再び金色の輝きがシモンの体を覆う。それは目に見えぬ壁となって、暁の大鳳をも弾き飛ばした。炎の羽をまき散らして、大鳳の姿が消える。闇の中、大鳳の名残の高熱を跳ね返しつつ、シモンの体は淡い金色に輝き続けた。
「一体何の術だ?」
次の術の準備をしながら、トカスはうめいた。シモンからは術の波動は感じられない。しかし暁の大鳳のみならず、それが振りまいた熱までもはじき返している。
「まさか……」
トカスはロゼッタの隣に立つ、侍従服姿の少女へ視線を向けた。考えられる理由は一つしかない。この少女と同じく、シモンも『無詠唱』が使える。
「お二人とも、術を向けるべき相手を間違えていますよ」
そのつぶやきと共に、青白い光が灯った。その光が、顎髭をしごいて見せるシモンの姿を映し出す。
「仕方がありませんね。お二人の魂は、私のかわいいペットたちに回収してもらうことにしましょう」
その言葉と共に、青白い光が消えた。
「――気高き魂の光よ。我を導き給え」
トカスとロゼッタの声が同時に響き、二人の持つ杖の先に青白い光が灯った。かつて扉があった場所に、ぽっかり開いた黒い穴があるだけで、シモンの姿はどこにもない。
「逃げたのか?」
トカスの問いかけに、ロゼッタは何も答えなかった。穴の向こうをじっと見据えている。トカスはそちらへ杖の光を向けたが、やはり何も見えない。しかしトカスの本能は、そこに何かが潜んでいるのを感じていた。いや、今すぐここから逃げ出せと叫んでいる。
「ロ、ロゼッタさん――」
不意にマリアンの声が響いた。マリアンの掲げる短剣の剣先が、小刻みに震えている。
「マリアンさん、あなたには見えるの?」
ロゼッタの言葉に、マリアンは小さく頷いた。
「鳥もどきというマ者です。前に南区でフレアさんを襲った『神もどき』と同じ類ですが、これは鶏みたいな姿をしています。それが三羽、こちらに向かってきます。それに私が知らない奴もいます。体が透明で、よく分かりませんが……」
マリアンがはっとした顔をする。
「トカゲもどきです!」
「鳥もどきに、トカゲもどき? 一体何の冗談だ?」
トカスのセリフに、マリアンは殺気を込めた目でトカスを見つめ返した。
「片腕でも喰われれば、すぐに分かりますよ!」
「向こうの動きは?」
ロゼッタがマリアンへ、冷静に問いかけを続けた。
「穴からこちらに出てきました。既に私たちに気づいています」
「おい、さっきから何の話をしているんだ?」
「水霊の守り手は効いている?」
ロゼッタはトカスを無視して、マリアンへ質問を続ける。
「全く気にしていません。瓦礫の山も通り抜けています」
「それなら相手は幽霊の類だ。放っておけ!」
そう言い放った瞬間、トカスの体は何者かの一撃にはじけ飛んだ。そのまま通路の壁へ激突する。
「トカゲもどきです。下がってください!」
マリアンが短剣を手に、見えぬ何かの相手をする。それを眺めながら、トカスは激しく胸が痛むのを感じた。あばらを何本かやられたらしい。
『あばらぐらい持っていかれても……』
ビチャ!
トカスの口から血が流れ落ちた。肺が空気を求めて喘えぎ、まともに息を吸うことが出来ない。折れただけでなく、それが肺に突き刺さっている。息が吸えないのは、肺が自分の血に溺れているからだ。
もだえ苦しみながらも、トカスは並行思考の一つを使って、術を唱え始めた。
『「慈愛に満ちし瞳を持ちし御方よ、我らはあなたの腹わたにつながりし者なり、そしていずれはあなたの元へ戻りし者なり――』
「聖母の子宮だ……」
トカスの声に、ロゼッタはトカスの方へ視線を向けた。
「こ、これから『聖母の子宮を唱える』。それに……合わせて、もう一つ『聖母の子宮』を唱えろ……」
それを聞いたロゼッタが、トカスへ首を横に振った。
「二重にかけても、相手はそれを抜けてくる。こちらが動けなくなるだけで、無意味よ」
「囲うんじゃない。術を同期させて、一部を重ねろ。その部分だけ、無効化され……その回廊を使って……穴の……向こうへ……抜けられる」
トカスの言葉に、ロゼッタは驚いた顔をした。だがすぐにトカスへ頷き返す。
「――あなたの内に我の魂を収め給え」
トカスの詠唱に合わせて、ロゼッタも術を展開した。次の瞬間、辺りの風景がまるで溶けだしたみたいに歪み始める。その真ん中に真っ黒な空洞が現われた。同期した二つの『聖母の子宮』の緩衝地帯だ。
「マリアンさん、やつらは?」
「分かりません。少なくとも姿は――」
そこでマリアンは言葉を飲み込んだ。歪む景色の先をじっと見つめる。
「ゆっくりですが、抜けてきています」
ロゼッタが杖を手に、何かを考える表情をした。
「私たちとは違う次元に存在している。だから空間のゆがみの影響は受けても、阻害されたりはしない。贄を捧げた『名もなき者』でも、穴の向こうへ送れないわけね……」
『見えざる者――』
姿なき化け物。クリュオネルが滅んだ時も、300年前に王都が消えかけた時も、そいつは現れたと言う。師匠の受け売りでは、魔法職の持つ力は一切通じないと聞いていたが、本当だった。
シモンが使っていた力も、間違いなく無詠唱だ。無詠唱といい、見えざる者といい、師匠が追い求めていたもの全てを、一度に目にするとは思わなかった。しかも、それで命を落とそうとしている。
「ど、どっちも、ま、魔法職……泣かせだ……な……」
そうつぶやきつつ、トカスは心の中で苦笑した。
「出血が酷い。術の維持は私がします。もう口を閉じて」
気づけば、ロゼッタがトカスの顔を覗き込んでいる。
「ロゼッタ……」
一晩だけ体を重ねた女の顔を、自分が一番殺したいと思っていた女の顔を、トカスは見上げた。
『君がその女性と命のやり取りをしたいのか、愛を語り合いたいのか、いずれでも好きにすればいい――』
学園に来る前、仲介役の男が告げた言葉が頭に浮かんだ。結局のところ、自分はこの女と、どっちがしたかったのだろう。
残念なことに、自分の手で殺すことは出来なかった。そして今は、こんな奴らに殺されて欲しくはないと思っている。それを愛と呼べるだろうか?
「マリアンさん、彼に肩を貸してあげてください」
手を差し出したマリアンに、トカスは力なく片手を上げた。口から洩れた血で、全身が真っ赤に染まっている。どう考えても、助かる傷ではない。
「一人は、この中で術を唱え続けなければ……ならない。さっさと行け! やつらが、完全に抜けてくる前に……俺が、持たない……!」
トカスのセリフに、ロゼッタは頷いた。そしてトカスの血だらけの頬に手を添えると、その唇にそっと口づけをした。