兆し
「オリ……オリヴィア……ヴィアさん」
自分を呼ぶ声が聞こえる。オリヴィアが目を開けると、青白い光に照らされた誰かが、上からこちらを眺めているのが見えた。
「ヘルベルト――さん?」
オリヴィアは、ヘルベルトの体をはねのけるように起き上がった。あれだけの勢いで穴に落ちたにも関わらず、自分の体がどこにも痛みを感じないことに驚く。
「フレアさんは!?」
声は洞窟の中にでもいるみたいに、大きく響き渡った。
「あ、あの――」
杖を手にしたヘルベルトが当惑した声を上げた。オリヴィアはもどかし気に辺りを見回す。もう夜なのか、ヘルベルトの杖の先に灯った青い光をのぞけば、辺りは暗闇に包まれている。
「赤毛のお嬢さんなら、残念ながら近くにはいないみたいだ」
オリヴィアは声がした方を振り返った。そこではマントを羽織った剣士が、青白い光に照らされて立っている。その横には、小柄な侍従服を着た少女もいた。
「ミカエラさん? それと……」
「ミカエラの知り合いのドミニクだ。私も南区の件で巻き込まれた口だよ。そう言えば、色々と邪魔が入ったせいで、お嬢さんとは話をする機会がなかったね」
「フレアさんやイアン王子の護衛をしていただいた剣士様ですね。南区の件では大変お世話になりました。今日はお二人ともフレアさんの付き人をされていましたけど?」
それを聞いたドミニクが、おもくろにマントの裾を持ち上げる。
「南区のとばっちりでね。今じゃ、私はソフィア王女の護衛役。ミカエラはその侍女ってわけさ。今日はそのわがまま王女からの指示で――」
「ドミニクさん!」
ミカエラがドミニクへほほを膨らませて見せる。
「ミカエラ、悪かったね。ちょっと口をすべらせただけだよ。ソフィア王女からの指示で、今日は王子様とお姫様の付き人を拝命したのさ」
「そうだったんですね。お二人にまたお会いできて、フレデリカさんもさぞよろこんだと思います。それにミカエラさんは、とってもお元気になられたみたいで、本当に良かったです」
「ありがとうございます!」
ミカエラがオリヴィアへ、元気よく頭を下げる。
「でもここはどこなんでしょうか?」
オリヴィアは恐る恐る辺りを見回した。最初は何もないと思っていたが、目が闇になれてくると、辺りが磨かれた石で囲まれているのが見える。見上げれば、天井も同じような石でできていた。
「穴のようなものに落ちたと思ったのですが……」
「見ての通り、穴らしきものはどこにもない。あるのは一方通行の通路だけさ」
ドミニクが左の方を指さす。その向こうには光が届かない、漆黒の闇が続いていた。その闇を赤く光るものが横切る。
『何だろう?』
そう思った時だ。
ドクン!
急に自分の心臓が高鳴るのを感じた。体が金縛りにでもあったみたいに動かなくなる。それに何かに引っ張られるみたいに、上へ上へと昇っていく。
『あれ?』
オリヴィアは自分が見ているものに当惑した。目の前にあるのは自分の体だ。まるで幽霊にでもなったみたいに、その姿を眺めている。その視線の先で、いくつかの赤い光がゆれていた。
一つは胸甲でも隠し切れないドミニクの胸の辺りで、もう一つはヘルベルトの胸元で、青い光に負けることなく揺らめいている。そして王家の印である百合の紋章が刺繍された侍従服が、まるで花火のように真っ赤な光を放ち続けていた。
自分の体を見下ろすと、そこには何の光もない。ドレスの少し開いた胸元から、日に焼けていない白い肌が覗いているだけだ。
『とっても、おいしそう――』
頭のなかで声が響いた。
『あなたもそう思うでしょう?』
再び声が響く。辺りを見回しても他に人はいない。それにこの声は――。
『自分の声だ!』
ドクン!
再び心臓の高鳴る音が聞こえた。視界の先では、ミカエラが心配そうにこちらを覗き込んでいるのも見える。その胸元には、先ほどまで見えていた赤い炎の輝きはなかった。
「ほ、炎は――」
ドミニクとミカエラが顔を見合わせる。誰も赤い炎に気付いた気配はない。
『目の錯覚だろうか?』
オリヴィアは目を閉じた。きっと闇の中で明るいものを急に目にしたため、錯覚をおこしただけだ。さっきの声も、緊張のあまり聞こえた幻聴に過ぎない。
「これは私が召喚した炎ですので、やけどの心配はありません」
ヘルベルトがオリヴィアへ答える。どうやら自分が召喚した炎に驚いたと思ったらしい。
「ご安心ください。何があろうと、私がオリヴィアさんを守ります!」
恐れおののくオリヴィアへ、ヘルベルトが王に忠誠を誓う騎士のごとく、胸に手を当てて見せる。
「淑女と騎士ごっこもいいけど、これからどうするんだい? おとなしくここで助けを――」
「フレデリカさんたちを探します」
ドミニクの言葉を遮って、オリヴィアは声を上げた。
「間違いなくこいつは罠だ。それは分かっているよね?」
「はい、ドミニクさん。相手は明確な意図をもって、こちらを襲ってきました。分断されたままでは、向こうの思うつぼだと思います」
オリヴィアのはっきりとした答えに、ドミニクが驚いた顔をする。
「ミカエラと同じ病にかかっていたと聞いていたから、てっきり深窓のお嬢様かと思っていたけど、中身はずいぶんと違うらしいね」
「その通りです。ベッドの上から、世界のすべてをねたんでいました。でも――」
「でも?」
「フレデリカさんと出会って分かったんです。何かを変えたかったら、まずは自分が動かないといけません。それに今の私の体は問題なく動きます」
オリヴィアの言葉にドミニクは頷いた。腰から短剣を抜くと、ヘルベルトに自分の横に付くように合図する。その後ろをミカエラと共に歩きながら、オリヴィアは考えた。
あの黒鳥たちは間違いなくフレデリカを狙っていた。自分も狙われたが、それはフレデリカの近くにいたからだろう。つまり、自分たちを襲った者たちの目的は、フレデリカの身柄ということになる。
「私以外の誰かが、彼女を手にするだなんて、絶対に許さない……」
オリヴィアは誰に語るでもなく小さくつぶやくと、闇の向こうへ足を進めた。
クレオンは見事な草花のレリーフに飾られた石の扉を見上げた。それはロストガルの地にあるものとはとても思えない。計算され尽くした美に満ちている。だが扉は見かけとは別のもの、ドス黒い何かを放っていた。
「やはり贄の門か?」
その中心に刻まれた幾何学模様を眺めながら、クレオンがつぶやく。
「あんたもスオメラ貴族の端くれでしょう? クリュオネル文字ぐらい理解しなさいよ」
フンと鼻を鳴らしたカサンドラへ、クレオンが肩をすくめて見せる。
「俺は魔法職じゃないからな。神聖文字までは学んでいない。そんな事より、こいつを開けるのは無理なのか?」
「誰かの魂を捧げない限りはね。空間的に閉じられているから、この扉以外から出るのも無理。雑音すら聞こえてこないのが、何よりの証拠よ」
「雑音?」
「誰かが術を使えば、波の様に伝わってくる。それが全く聞こえない。ここを寝所に出来れば、憧れの安眠というやつが出来そうね」
「安眠できても、出られなければ飢え死にだ」
「悪いことばかりじゃないわ。紛れなんかに気を使うことなく、思う存分術が使える」
「それがここを作った連中の目的だな。なら話は簡単だ。俺を使って、お前はここを出ろ」
クレオンのセリフに、カサンドラは首を横に振った。
「今さら何をかっこつけているの。それで済むなら、とっくにあんたの魂を使ってるわよ」
「どう言うことだ?」
「扉は一枚じゃない。最後の一人になるまで扉は続く。ロストガルの連中は、その現実を見るまでお仲間ごっこが出来るけど、私が使える駒はあんただけなの」
「ならどうする。ここでお前の魔力が続く限り耐えるのか?」
「別に耐える必要なんかない。扉が私たちの贄を連れてくる」
カサンドラが口の端を持ち上げた。
「ほら、もう連れてきた――」
クレオンの剣士として鍛えられた精神が、何者かの気配を捉える。背後を振り返ると、いつの間にか現れた通路の先から、青白い光がこちらへ向かって来るのが見えた。