魔石
普段めったに使われることのない東棟の客間には、日の光が燦々と注いでいた。その光を避けるように、幼い私は母のスカートの影に隠れている。
「フレア、これからあなたの授業をしてくださる先生よ」
目の前には、真っ黒な詰襟のワンピースを着た女性が立っていた。母は私をその人物の前へ出そうとしたが、母の裾を掴んでそれを拒む。
「ごめんなさい。少し人見知りする子なの」
「では、私の方からご挨拶させて頂きます」
女性は一歩前へ進むと、私の前へかがみ込んだ。
「ロゼッタ・レイモンドです。今日からフレデリカ様の家庭教師を務めさせていただきます」
そう告げる漆黒の瞳は、お母さまやジェシカ姉さまみたいに優しい瞳ではない。コリンズ夫人の威厳と厳しさを持つ瞳とも違う。全てを見通してしまうような鋭い眼差しだ。私は初めて見るその瞳を恐れた。
どこかから聞こえてくるすすり泣く声と共に、いつしか場面は薄暗い部屋の中へと変わる。少し大きくなった私は、黒い詰襟を着たロゼッタさんのスカートの影から、寝台の上に横たわる母を見つめていた。
「フレア、アンナに別れの言葉を告げて」
私は意味が分からず、途方に暮れた思いでロゼッタさんを見上げた。
「あなたのお母さま、アンナはもうすぐ遠い所へ旅立ちます」
ロゼッタさんは私の手をそっと握ると、お母さまの前へ導いた。やせ細った母が私の顔を見つめる。何かを告げようとするが、何も言葉が出てこない。それは私も同じだった。母に何を言っていいのか分からず、ただ立ち尽くしている。やがて意を決したように、母が口を開いた。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
どうして謝るのだろう。その意味が分からず、私はさらに途方に暮れた。
「ロゼッタ、いえ、フレデリカ……」
母が傍らに立つロゼッタさんへ声をかける。
「フレアをお願い……兄たちから守って……」
「はい」
ロゼッタさんが静かに頷く。母は再び私の方を向くと、震える手で私の手を握った。
「あなたは……私の、宝物……」
息を吐くように告げると、母の手から力が抜ける。同時に、私を見つめる茶色の瞳からも、光が失われていく。
「お母さま!」
私は自分が母に、何も告げていないことに気づいた。
「お母さま、フレアを、フレアを置いていかないで……!」
涙を流しながら悲鳴を上げる私を、ロゼッタさんが両手で抱きしめた。
「フレア、アンナは遠くへ旅立ちました。ですが、決してどこかへ行ってしまったのではありません。そこからあなたを見守り続けます」
そう告げるロゼッタさんの瞳に、私は泣きながら頷いた。誰かがすすり泣く声がさらに大きくなり、再び辺りが闇に包まれていく……。
目を開けると、うっすらと誰かが私をのぞき込んでいるのが見えた。そいつは私を抱きかかえた上に、あろうことか、服に手をかけている。こいつは人が気を失っている間に、何をしてくれているんでしょうね?
「曲者!」
その顔に向かって、握りこぶしを叩きこんでやる。しかし相手は首をわずかに傾けると、私の一撃をあっさりと避けた。
「いきなり殴りかかってくるとは、どういうつもりだ!」
曲者が私へ怒鳴り返してくる。その声には聞き覚えがあった。
「イアン王子!?」
気を失っている間に襲ってくるだなんて、やっぱりこいつの頭は、いやらしい菌で一杯らしい。再び拳を振り上げようとしたが、イアン王子に腕を掴まれる。それどころか、私の体を引き上げると、顔を前へ突き出してきた。
「離してください!」
声を上げた私に、イアン王子が口元へ指を立てて見せる。
「静かにしたまえ」
そう告げると、イアン王子は辺りを見るように促した。そう言えば、こいつと一緒に剣技場の穴に落ちたはず……。慌てて辺りをうかがうと、青白い光に照らされた石の壁が見えた。顔を上げると、天井も重厚な石で組み上げられており、どこにも穴らしきものは見えない。
「ここは?」
「正直に言えば、全くもって不明だ。穴へ落ちた後、気づいたらここにいた。どこかの地下室らしいが、それにしては規模が大きすぎる。むしろ地下迷宮とでも言うべき場所だ」
「地下迷宮?」
その言葉に、もう一度辺りを見回す。目の前は壁で行き止まりだが、背後には壁がなく、漆黒の闇が続いていた。それに地下室にしては天井が妙に高い。そのせいか、とても肌寒く感じられた。
「先ほどの動きを見る限り、どこにも怪我はなさそうだな……」
イアン王子が、いつもの嫌味ったらしい顔でつぶやく。でも寒さのせいだろうか? どこか疲れた感じもした。
「いきなり抱き着いてきたら、どんな女性だって、同じことをすると思いますけど?」
そう嫌味を返しつつ、自分の体を眺める。そこでドレスの上に、男物の上着を着ているのに気付いた。
「あれ?」
「ドレスは少しばかり残念なことになっている。ここを出るまではそれで我慢して欲しい」
「もしかして――」
さっきは、私に上着を着せようとしていた?
「君も一応は女性だし、冷たい床に放り出しておく訳にもいかなくてね」
イアン王子が私に肩をすくめて見せる。
「一応!?」
それをお前は覗きに来たんだろうと、文句の百も言いたくなったが、今はそんなことをしている場合ではない。
「オリヴィアさんや他の人たちは?」
「残念ながら、声の届く範囲にはいないらしい」
「すぐに探しにいかないと!」
イアン王子が、なぜか困った顔をする。
「明かりがなければ、ここから動くのは難しい」
「なんで? ここにある灯りを持っていけばいいじゃない」
私は足元にある青白い光を指さした。でもなんか不自然だ。ランプではなく、炎が床の上をゆらゆらと漂っている。
「この灯りは……」
「前にヘルベルトから習った初級の術だ。その時はすぐに消したので、大したことはないと思っていたが、『大雨の中で、火打石を使う方がはるかにましだ』と言っていたのがよく分かった。維持するだけでもかなり辛い。動かすのはとても無理だ」
そう言うと、私に向かって思いっきり顔をしかめて見せる。それで疲れた顔をしていたのか……。今さらながら、ロゼッタさんたち魔法職が、とんでもない人たちなのに気づく。
「だが心配は無用だ。おとなしくしていれば、ヘルベルトがこちらを見つけてくれる」
「どうやって見つけるんです?」
「俺とヘルベルトの間には、魔法職が『紐』と呼ぶものが結ばれているらしい。それを使えば、俺がどこにいるか探せる」
もしかして、「赤い糸」ですか? 男同士で結ばれているなんて、前世の肉屋の娘が大好きだったお話の世界ですけど……。
「ともかく、今はここでおとなしく待つほかない」
「だめです!」
私の宣言に、イアン王子が驚いた顔をしてこちらを見る。
「私たちは大丈夫ですが、他の人たちは分かりません。動ける私たちが助けに行くべきです。それにここには大したほこりもなければ、ごみもないんです」
私は明かりが届く範囲を指さした。そのどこにもごみはもちろん、ネズミの糞すらも見当たらない。つまり、定期的にだれかがここを訪れている。私たちが穴へ吸い込まれた経緯を考えれば、それが友好的な人たちとはとても思えない。
「敵が私たちを見つける前に動くべきです」
前世では自分が信頼していた人によって、あっさりと遠い所へ送られた。こうあって欲しいという油断で、再び同じ間違いを犯すわけにはいかない。
「明かりはどうする?」
確かに、明かりが無ければどこへもいけない。でも待ってください。謎の回廊で見つけたアレがあります。しまっておく場所がなかったので、そのまま持ってきたはず……。私はドレスの胸元へ手を入れた。
「何をするつもりだ?」
当惑するイアン王子を無視して、かなり頼りない胸を盛るべく、ドレスに差し込んであるパッドの裏側を探った。指先が固いものに触れる。
「これですよ、これ!」
「石ころ?」
「ただの石なんかじゃありません。魔石です」
イアン王子が、馬鹿にした顔で私を眺める。
『もしかして、質の悪い冗談だと思っています?』
私は自分のみぞおちに向かって、「明かるくなれ、明かるくなれ」と念じた。とらえどころのない靄のようなもの――マナが私の指先へ集まる。次の瞬間、魔石の黄色い光が、イアン王子の顔を照らし出した。驚きと戸惑い――その両方が、顔にありありと浮かんでいる。
「あ、ありえない!」
「あります。これでみんなを探しに行くんです!」