傍観者
アルベールは水滴が一滴、また一滴と、乾いた地面へ流れ落ちるのを眺めていた。これが夢だと言う事はよく分かっている。どれほど見たくないと願い続けても、数えきれないほど見てきた夢だ。
夢の中での自分は、まだエドガーと同じぐらいの駆け出しで、杖を手に、自分が担当する封印柱の前に立っている。複雑な文様が施された柱の先には、のどかな田園風景が広がっていた。
年季を感じさせる木造の家々、その横を流れる小川のせせらぎ。アルベールが育った郊外の村に、うり二つの村だ。
しかし一つだけ、その場にそぐわないものが存在する。空のただ中にある黒い染み。染みと言うより、風景画についた傷みたいに見える。その下に黒いワンピースを着た少女が一人、杖を手に立っていた。
家の中に避難した村民たちが、杖で地面に文様を描く少女を、村を取り囲む執行官たちを、固唾を飲んで見守っている。
「名もなき者にして、全ての力の根源たる者よ――」
少女の口から呪文の一節が響く。
「慈愛に満ちし瞳を持ちし御方よ――」
それに合わせて、アルベールも呪文を唱え始める。封印柱毎に配された、他の執行官たちからも、同じ呪文の声が上がった。同時に、村の景色がゆらぎはじめる。やがて絵の具を水に溶かし込んだごとく、全ての色と光が混じり合った。
最上級の紛れ、「聖母の子宮」だ。それがこの中で今から行われる事を、大海の向こうにあったクリュオネルを滅亡させたのと、同じ類いの術が執行されることを隠す。
ザワザワザワ……。
アルベールの耳に、数えきれないほどの、言葉にならないつぶやきが聞こえてきた。それは物理的な力をすべて遮断する、「聖母の子宮」さえも越えて響き続ける。
『やめてくれ!』
杖を投げ出し、両手で耳を抑えたくなるのを必死に耐える。もっとも、穴の向こうへ落ちていく魂の叫びだ。耳を塞いだぐらいで消えたりはしない。
「アルベール、終わったぞ。杖を上げろ!」
特別執行官主任の声に、アルベールは慌てて杖を上げた。視線の先にある村の家々からは、人の気配はしない。穴を閉じるのと引き換えに、全員がその向こうへ送り込まれている。その事実が、アルベールの心を激しく揺さぶった。手にした杖が、乾いた音を立てて地面の上を転がる。
「大丈夫?」
アルベールの前へ、落とした杖が差し出された。顔をあげると、同期のダリアが、心配そうな表情でアルベールを眺めている。その顔色は普段と変わらない。アルベールは驚嘆した思いでダリアへ頷いた。
『流石は鉄の女と言われるだけのことはある……』
だが差し出された杖を手に取ると、杖は小刻みに震えていた。ダリアでも、自分たちがしていることへの怖れを、隠しきれないでいる。その横を、日傘を手にした黒髪のワンピース姿の少女が横切った。
「お、お疲れさま……」
そう声をかけてから、アルベールはなんて馬鹿なことを言っているのだろうと、心の底から後悔した。しかし少女は足を止めると、漆黒の瞳でアルベールを見上げる。その表情からは何の変化も感じられない。
「アルベール特別執行官補佐殿、お疲れさまでした」
少女がいつもの感情を感じさせぬ声で答える。
『この子に何を言ってやれるのだろう……』
「フレデリカ!」
アルベールが戸惑っていると、主任が少女を呼ぶ声が聞こえた。少女はアルベールから視線を外して、背後を振り返る。
「昼夜兼行であれば、学園の入学式に間に合うはずだ。替えの馬は用意してある」
少女は主任に頷き返すと、日傘を手に、村の入り口に止めてある黒塗りの馬車へと歩き出す。
「学園に入るのか――、あの子が?」
アルベールの口から、思わず言葉が漏れた。
「カスティオール侯爵夫人の肝いりらしいわよ。それで執行長官も無碍には出来なかったらしいけど、落ち目のカスティオールに、そんな力があるとは驚き」
ダリアがアルベールへ、肩をすくめて見せる。
「そう言えば、あなたも学園出身だったよね」
「ああ……」
ダリアの問いかけに、アルベールは言葉を濁した。学園への入学と、それに関わる経緯は、自分の人生から消し去りたい記憶の一部だ。それに学園へ入学することで、貴族たちが、自分たち平民をどう思っているかもよく分かった。
「お前たち、無駄話をしている暇はないぞ!」
主任の怒鳴り声が響く。
「後始末にかかる。総員、『南溟の隠者』の準備だ!」
主任の指示に、アルベールは慌てて前を向いた。村人たち全員の魂と引き換えに、穴を塞いだ証拠を消すべく、地面へ新たな紋様を描き始める。
ポタン――ポタン――。
乾いた大地へ再び汗が落ちていく。それを眺めながら、アルベールは考えた。どうして自分は魔法職になどなったのだろう。決して善良な人々の魂を、穴の奥へ送り込むためではなかったはずだ。しかも自分の手を汚すことなく、傍観者としてそれを続けている……。
『どうして……自分は魔法職に……』
アルベールの目に、黒光りする天井が映った。どうやら気を失っていたらしい。アルベールは自分が寝ていた長椅子から身を起こすと、辺りをうかがった。
部屋の中は広く、片隅にポツンと置かれたランプが、淡い光を放っているだけで薄暗い。目を凝らすと、まるで大貴族の邸宅みたいに、意匠をこらした家具が置かれている。ここが学園内だとすれば、アルベールの知らない部屋だ。
子供たちを含め、先ずは他の者たちが無事なのかを、確かめる必要がある。アルベールは椅子から立ち上がると、部屋の出口を探した。
ポタン――ポタン――。
アルベールの耳が水音を捉える。
『まだ夢の続きなのだろうか?』
アルベールは自分の顎を撫でた。汗ばんではいるが、滴り落ちるほどではない。それに水音は部屋の隅から聞こえてくる。そちらへ顔を向けると、天蓋付きのベッドが置かれていて、誰かが横たわっているのが見えた。その姿にアルベールは驚く。
神殿の女神像を思わせる少女の腕には、細い管が着けられており、ガラス製の器具へとつながっている。その受け皿へ、血が一滴、一滴と滴り落ちていた。
「イザベル嬢!」
アルベールはイザベルの元へ駆け寄った。だがベッドの手前で、目に見えぬ何かに拒まれる。
「『穢れなき水霊の守り手』か!?」
そうも思ったが、どこにも術の気配は感じられない。アルベールが無理やり進もうとする度に、淡い金色の光によって押し戻される。アルベールが知るどの術にも当てはまらない。
アルベールは懐から細かい砂が入った袋を取り出すと、中身をオーク材の床へ広げた。その上に杖を置く。
「四界の守護者にて、東に座します日輪の担い手よ……」
「彼女ごと、ここを吹き飛ばすつもりかね?」
不意に聞き覚えのある声が聞こえた。その呼びかけに、アルベールは呪文の詠唱を止める。
「それに君の腕では、単に穴を開けて終わりになる可能性が高い」
「いつからそこにおられたのですか?」
「少なくとも、君が目を覚ます前からだ」
椅子に座った人物、シモン学園長が、白く長いあごひげをしごきつつ答える。
「女性は演繹的な思考に頼らなくても、真理に到達できるらしくてね。どうして違いが分かったのか、君を観察させてもらった」
「正直なところ、何をおっしゃっているのかさっぱりです。それよりも、イザベル嬢は大丈夫ですか?」
アルベールはベッドに横たわるイサベルを指さした。浅い呼吸を繰り返すのを見る限り、命に別状はなさそうだが、なぜ血を採取するのか分からない。
「特に問題はない。彼女が為すべき役割を果たしてもらっているだけだ」
「役割?」
「エイルマー殿から聞いていないのかね? 彼女には白亜の塔を率いたパトリシア・コーンウェルの器として、この世界を再生してもらう」
「私がコーンウェル卿から拝命したのは、イザベル嬢の身の安全で、現状それが確保出来ているとは思えません。それに私の他にも、生徒を含む何人かが、正体不明の術に巻き込まれています。彼らの身の安全の確認も必要です」
「君は見かけと違って、実に生真面目な男らしいな。余計な事など気にせず、紐は紐らしく、ここで彼女を眺めていなさい」
そう告げると、シモンは杖を手に椅子から立ち上がった。背後の壁にシモンの影が映る。影にはシモンにはない、羽根のようなものがあった。影は壁から床へ動くと、そのままシモンの体を覆いつくす。
「それに余計な事をすれば、私のかわいいペットの餌ですよ……」
その言葉を置き土産に、シモンの姿が消えた。だが不気味な影の気配は、部屋の中に残ったままだ。
ザワザワザワ……。
言葉ではなく、精神に直接響いてくるざわめきを感じながら、アルベールは大きくため息をついた。何と言われようが、もう傍観者になどなるつもりはない。
「以前、同僚からよく言われたセリフがある。私は人に遠慮しすぎらしい。だがお前たちは人ではない。何の遠慮もせずにやれる」
アルベールはそうつぶやくと、後ろ手に持った杖で、術式に必要な最後の文様を描き上げた。