黒鳥
「地震!?」
思わず口から悲鳴みたいな声が出た。この世界に来てから地震を経験したことはないが、前世では一度だけ、大きな地震に会った事がある。
ちょうど朝の配達が終わって、店先に野菜を並べた時だった。ズンと言う音が足元から響くと、いきなり地面が揺れ始めた。通りの先に見える時計塔がぐらぐらと揺れ、まるで大根から泥を落とすみたいに、レンガの破片が落ちていったのを覚えている。
ここには一の街の時計塔なんかより、はるかに高くそびえる塔がある。破片が落ちてきたら大変だ。頭を抱えて白亜の塔を見上げると、どう言う訳か、塔は全く揺れていない。辺りを伺うと、不気味な音は続いていたが、別に地面が揺れてはいなかった。
『もしかして、幻聴!?』
いや、そんな事はありません。その証拠に、馬車につながれた馬たちが、棒立ちになって暴れている。
『どう言う事?』
思わず首をひねりたくなった時だ。私の体がぐらりと揺れた。だけど、体が感じているのは揺れではなかった。背中が何かに引っ張られるみたいに、地面の方へ倒れていく。
『立ちくらみ?』
そうも思ったが、体から力が抜ける感じはしない。左足を思いっきり後ろに下げ、右足に重心をかけると、やっと体が安定した。でも、絶対に何かがおかしい。平らな地面の上で、まるで坂を登っている途中みたいな姿になっている。
「フレア!」
ロゼッタさんが私を呼ぶ声が聞こえた。ロゼッタさんも、杖を地面に差し、体を斜めにして立っている。気づけば、私だけでなく、全員が前傾姿勢になっていた。
「永遠の腐敗の息吹きか? すぐに反魂封印を!」
アルベールさんの声が響く。
「そんなチンケな奴じゃない。それよりも、誰が術を唱えた。何の気配も感じなかったぞ!」
それに答えるトカスさんの声にも焦りがある。二人は手にした杖を素早く動かしているが、その効果があるようには思えない。
「フ、フレアさん……」
不意に、かすれるような声が耳に入ってきた。声がした方へ必死に首を回すと、オリヴィアさんが、完全に地面に横たわっている。ドレスを着ているせいか、その体が少しずつ、競技場へ向かって滑り落ちていく。
それだけではない。オリヴィアさんの頭上では、一台の馬車が、オリヴィアさんに向かって動いていた。立派な体をした馬が、必死にあがらってはいるが、その動きは徐々に速くなっている。
「オリヴィアさん、そちらに行きます!」
私は地面に体を投げ出すと、オリヴィアさんの方へにじり寄った。彼女へ向って手を伸ばす。オリヴィアさんも、私の方へ手を伸ばしてきた。だけど、あとわずかが届かない。その間にも、彼女の体は下へ落ちていき、互いの手と手の距離が離れていく。
ヒヒーン!
ひときわ高く、そして切ない馬のいななきが響いた。顔を上げると、馬車に繋がれたまま、馬が棒立ちになっている。同時に、馬車がものすごい勢いで、オリヴィアさんへと迫ってきた。
『このままではだめだ!』
私は思いっきり体を回転させると、オリヴィアさんの体を両腕で抱きしめた。そのまま彼女の体を抱えて転がる。でも支えきれずに、私の体だけが、さらに奥へと転がった。
次の瞬間、黒塗りの馬車が、オリヴィアさんの横をものすごい勢いで、後ろ向きに通り過ぎていく。どうやら直撃は避けられたらしい。ほっと胸をなで下ろす。だけど、転がったせいで、他の人たちより、はるかに競技場へ近いところまで落ちてしまっている。
『いっそ。落ちるところまで落ちた方がいいのでは?』
そう思って足元を見ると、先ほど落ちていった馬車がどこにもない。その代わりに、まるで筆で塗りつぶしたみたいに、大きな黒い丸があった。同時に、首筋がチクチクする感じが全開になる。私の中の何かが、これには絶対触れてはいけないと告げていた。間違いなくやばい奴だ。
オリヴィアさんの手を引いて、みんなの所へ戻ろうとしたが、目で見ているのと、体が感じているものがちぐはぐすぎて、全く動く事が出来ない。
「フレア、使い魔を送ります。あと少しだけ耐えなさい」
「はい、ロゼッタさん!」
ロゼッタさんは杖で体を支えながら、指で地面に魔法陣を描いていた。トカスさんやアルベールさんも同じ事をしている。
ドミニクさんとマリは、それぞれ剣と短剣を地面に差して、ドミニクさんはミカエラさんの体を、マリはイエルチェさんの体を支えていた。この得体の知れない状況でも、みんな落ち着いて行動しているのは流石です。
「暁を告げし絶海の鳳よ。その赤き翼の羽ばたきはあらゆる魔を打ち払わん。その鋭き嘴は我が敵の心臓を撃ち抜き、その灼熱の炎は何者も遮ることは能わず――」
ロゼッタさんの呪文を唱える声が響いてくる。それを耳にしながら、私はオリヴィアさんの方へ手を伸ばした。でも、オリヴィアさんは私ではなく、別の何かを蒼白な顔で見つめている。
「ば、馬車が……」
オリヴィアさんの視線の先へ目を向けると、さらに一台の馬車が、今度は横に倒れようとしているのが見えた。背中を冷たい汗が流れる。これが転がってきたら、今度は絶対に避けられない。
「――来たれ暁の大鳳よ!」
ひときわ高く術を唱える男女の声が響いた。ロゼッタさんだけでなく、トカスさんも一緒に術を唱えていたらしい。次の瞬間、首の後ろがチリチリする感覚と共に、赤く輝く羽を持つ大鳳が目の前に現れた。この美しい姿には見覚えがある。旧宿舎に湧いて出た、目玉お化けを吹っ飛ばしてくれた鳥だ。
鳳が黄金色に輝く足で私の体を掴む。いや、掴むと言うより、ほんのり暖かい膜につつまれている感じだ。私の横では、ちょっとだけ羽の形の違う鳳が、オリヴィアさんの体を持ち上げていた。
「ふう……」
思わず安堵のため息と共に力が抜ける。腕や足だけでなく、体中の筋肉がパンパンです。
「おい、暁の大鳳だぞ!」
不意に、トカスさんの焦る声が聞こえた。そのセリフに、私の体が、大して地面から浮いていないのに気付く。正確には、まだ足が地面についたままだ。頭の上では、鳳が必死に羽を動かす音も聞こえてくる。だが、私の体は一向に浮こうとしない。隣にいるオリヴィアさんはと言うと、背の高さより高い所まで浮いていた。
『もしかして、重すぎですか!?』
「フレアさん!」
マリの悲鳴が耳に響く。これまでの食べ過ぎを後悔する間もなく、横倒しになった馬車が、回転しながらこちらへと迫ってくる。
『もうダメ!』
思わず目をつむった時だ。足が地面から離れるのを感じた。同時に、馬車の車輪が足先をかすめつつ、私の下を通り過ぎていく。馬車は競技場を囲む円柱に激突すると、ただの木片に姿を変え、黒い穴へと姿を消した。どんだけ固い石で出来ているのか、円柱には傷一つついていない。
『絶対に痩せよう……』
そう思いつつ、マリへ大丈夫と手を振った時だ。
バサ、バサ、バサ――。
沢山の羽音が辺りを包む。ロゼッタさんが、追加の鳥を送ってくれたのだろうか? そう思ったが違った。
『黒鳥!?』
どこから湧いて出たのか、私たちの周りを、たくさんの黒鳥たちが旋回している。驚いたことに、鳥たちはこの不思議な現象の影響を受けていないらしく、普通に飛び回っていた。
『なんなの?』
そう思って首をひねった時だ。
ギュェ――!
けたたましい鳴き声と共に、黒鳥たちが一斉に私たちへ向かってきた。