事件
ロゼッタはカミラの寝室から居間を通り抜けて、廊下へと出た。彼女の意識はまだ戻ってはいない。背中の多少の打撲以外、傷らしい傷は無いので、いずれは意識を取り戻すだろう。医者を呼ぶまでの事もない。だが今後の事を考えると、決して安穏としている訳にはいかなかった。
誰かがあの子の事を狙って長い手を送り込んできたのだ。それも寝室で寝首を掻くとかいう手ではない。カミラを使って、この家の中のごたごたに見せかけようとした。この家の者ならば、誰もがカミラがフレアを疎ましく思っている事は知っている。
だとするならば、事実はその反対で、これは外からの長い手であることは間違いない。本来フレアは外から狙われるような立場の人間ではない。あるとすれば、この間のお披露目であの子が行った行為に関するものしか考えられない。
「グローヴズ伯爵」
野心家でカスティオールの後釜、つまり侯爵家の地位を狙っている男の一人。たかが子供の喧嘩だが、グローヴズ伯爵にしてみれば、他の家の手前、ここでフレアを亡き者にしなければ面子が立たないと考えたのだろう。
送られてきた者の手筋を見る限り、グローヴズ伯爵家に連なる者とは思えない。恐らくは暗殺ギルドの手の者だ。まだ年端もいかないあの子がこんな事に巻き込まれるなんて、やはりお披露目に行くのを何としても辞めさせるべきだったのだろうか?
いや、本人が行きたいと言ったのだ。そして明らかに彼女はそれを乗り越えてきた。行かせたこと自体に間違いはない。あの子が巻き込まれたあれやこれやは、私達大人が何とかしてやるべき話だ。
それよりも義理の母親とはいえ、母親に命を狙われたのだ。あの子の心はどれだけ深く傷ついた事だろう。だが、あの子はこれは絶対にカミラのせいでは無く、何者かに操られただけで、自分が介抱すると言い張った。
操られたこと自体は正しい。だけどカミラを操った者は「心の闇を操る者」、決して本人が望まぬ事をさせる者ではない。もちろんそれをフレアに告げるつもりは無いが、それは純然たる事実なのだ。
ロゼッタは溜息を一つつくと廊下の先へと進もうとした。だが、背後からこちらに向かって誰かが駆けてくる足音がして、ロゼッタはそちらの方をふり返った。
西棟の女侍従が一人、息を切らせてこちらに向かって走って来ている。
「あの、ロゼッタ様」
「はい、なんでしょうか?」
「王宮魔法職と名乗られた方々が門まで来ております。私どもでは判断が付きません。ロゼッタ様の方で要件をお聞きしていただけませんでしょうか?」
* * *
「アルベールさん、王宮魔法職と言うのはそれなりに権威がある物だと僕は思っていたんですが、間違いですかね?」
大きな鉄の門の前で憎たらしそうにその向こうを見ていたエドガーが、左肩から右のポケットの方に向かってつけられている銀の鎖を引っ張りながら、アルベールに向かって口を開いた。
「そうだな。『王宮』とついているんだ。それなりにはあるだろうな」
「それが門の外側で待たされているんですよ。まさに門前払いです」
「あはは、お前にしては良いことを言うじゃないか」
「笑い事じゃないです。これでもこの銀の鎖をもらうためには結構苦労したつもりなんですけどね。返事なんて待たないで、問答無用で押し入ればいいじゃないですか。これは重要な話ですよね?」
「侯爵家に押し入るのか? お前がその苦労とやらをふいにして、首になりたいと言うのなら止めないぞ」
「カスティオールですよ?」
エドガーが馬鹿にしたような表情で、手を大きく広げて見せた。
「それでも四大侯爵家の一つであることは確かだ」
「四大侯爵家!? 一体いつの時代の話です?」
「四大侯爵家は、四大侯爵家さ。それにも権威という物がある」
それにお前は知らないだろうが、この家にはあの人も居るのだ。
「『実態のない権威ほど滑稽なものはない』だそうですよ」
「誰の言葉だ?」
「教師をやっていた僕の父親の言葉です。ここがまさにそうです」
エドガーはそう告げると、門の向こうに見える屋敷を指さした。
「ははは。君の父親は中々の方のようだな」
「そうですね。そんなことを言っているから出世は全くしませんでしたけど」
「エドガー、後ろを見ろ。どうやら我々の交渉相手が来たみたいだぞ」
アルベールはさらに言葉を続けようとしたエドガーを制すると、門の向こう側を指さして見せた。アルベールの言葉にエドガーが門の方を振り向く。門の先には黒い制服のようなものを着た女性が一人、初夏だというのに真っ黒な手袋に真っ黒な日傘をさして、門の方へとゆっくりと歩いて来るのが見えた。
「もしかして我々を屋敷の中に入れないつもりですか?」
その姿を見たエドガーが驚いたような声を上げた。確かに門を開けるための誰かの様には見えない。その人物は門の向こう側まで来ると自分達に向かって頭を下げて見せた。
「あの夜以来ですね、アルベール主任執行官殿。そちらは?」
「エドガー執行官補です。私が預かっている新人です。私が……」
だが門の先に立つ人物は、アルベールの言葉が終わるのを待たずに口を開いた。
「アルベール主任執行官殿、本日はどのような件でこちらにいらっしゃったのでしょうか?」
この人は相変わらずだ。世間話なんてものには一切付き合う気などないらしい。
「昔話をする気はないという事ですね。単刀直入に言わせていただくと、そちらのお屋敷で昨晩何が起こったのかについて、調査の協力をお願いしたいのです」
「お断りします」
門の向こうの人物がこちらの提案に対して、間髪入れずに断りの言葉を入れた。それを見たエドガーは口を大きく開けたまま、その人物とこちらを交互に見ている。
「ちょ、ちょっと待て、あんた何を、」
そしてたまりかねたように門に飛びつくと、向こう側の人物に向かって文句を述べようとした。
「エドガー、お前は口を閉じていろ」
命が惜しかったら俺の言う通りにするんだ。
「昨晩、星見の担当の半数以上が気絶するような事件がありました。それが起きた場所を、いくつかの塔の観測結果から推察すると、どうもこのお屋敷以外には考えられないのです。調査だけではありません。こちらの耳が聞き及んだ話では、どうやらある筋の、それも一番やっかいな奴がこの屋敷のある方の命を狙ったという噂を聞き及んでいます。我々が長年追いかけている者です」
「要件はそれだけですか?」
「それだけって、あんた!」
エドガーが門に飛びついて、それを揺らして見せた。
「エドガー、誰が口を開いていいと言った」
アルベールの怒声とまでは行かなくても、叱責するような声に、エドガーはびっくりした表情で固まった。エドガーはアルベールの下についてこの方、このように声を荒げるのを聞いた事が無かった。尊大な態度が名刺代わりだと言われている、王宮魔法職の中でも珍しいと言うか、他に見たことが無いほど物腰が柔らかい人物のはずだった。
「最初にお話しさせていただいた通りです。全てお断りさせていただきます」
「いいのですか? カスティオール家の立場は色々と厄介なはずです。王宮側を敵に回すのは得策ではないと思いますが?」
「ロゼッタ様。コリンズ夫人がお呼びです」
「はい。いますぐ向かうと伝えてください」
「ではアルベール卿、失礼します」
「一つだけ」
「なんでしょう?」
「貴方の名前は、『ロゼッタ』なのでしょうか?」
「はい、私の名前はロゼッタです。それが何か?」
「何でもありません。お手数をおかけしました。行くぞエドガー」
「ちょ、ちょっと待ってください。戻るって、アルベールさん、本当にいいんですか!?」
アルベールの耳にはエドガーの声は聞こえてなかった。正しくは聞こえていたが、それに意識を向ける気は無かった。頭の中では彼女が告げた名前が、まるで術を展開する時の様に繰り返される。あの人は、例の件を忘れてはいない。忘れるつもりもないらしい。
あの人も、あの天才も、俺のような凡庸の人間と同様に苦しみ、もがいているのだ。
* * *
「気が付かれましたか?」
ロゼッタは目を覚ましたカミラに声を掛けた。コリンズ夫人からカミラが目を覚ましそうだと連絡を受けて、ロゼッタは彼女の寝台の横で目が覚めるのを待っていた。
「私は……。何で貴方がここに居るの?」
カミラは不審そうな目で自分の寝台の横に座るロゼッタを見つめた。
「何も覚えていませんか?」
ロゼッタはカミラに向かって問いかけた。
「覚えているって、何を?」
カミラの言葉にロゼッタが僅かに首を傾げて見せる。
「夜中に庭で倒れられていたのです」
「私が!?」
ロゼッタの言葉にカミラが声を上げた。そして寝台から飛び起きようとしたが、背中に走る痛みに顔をしかめる。
「はい。夜中に庭へと出ていかれるのをフレデリカ様が見つけて、私に知らせました。庭で倒れられていたので、こちらまで運んだのです」
「庭で? それにフレデリカが見つけた?」
カミラは依然として不審そうな顔でロゼッタを見つめている。
「本当に何も覚えていませんか?」
カミラは首を振るとロゼッタの方を睨みつけた。
「貴方達の見間違いか、それか私を担いでいるのではなくて?」
そうロゼッタに問い掛ける顔は猜疑心に満ち溢れている。
「本当の事です。その際に背中を何かで打たれたようです。痛み止めを塗っておきました。同じ軟膏を置いておきますので、痛みがひどいときにはお使いください」
ロゼッタは自分で配合した軟膏を寝台横のテーブルに置いた。そして立ち上がって寝室から退室する。寝室からカミラの部屋の居間を抜けて、東棟へ向かう渡り廊下の入り口のところで、垂れ幕の影から声が掛かった。
「ロゼッタ様」
「ハンス、何か手掛かりはあった?」
「壁を伝わって侵入したと思われます。その際に使ったらしい細縄と靴跡がありました」
垂れ幕の向こうに身を隠したままハンスが答えた。
「相手は一人という事?」
「はい。そのようです」
あれだけの術を一人でかけてきたという事? 命知らずな。いや、こちらに悟らせない為にも、一人で仕掛けてきたのね。相手が何者か分からないが、あれだけの術を並行でかけてくるなんてのは、只者では無いのは確かの様だ。そう言えばアルベール卿が長年追っている者だと言っていた。
「フレデリカはどうしています?」
「カミラ奥様の看病をすると言って、コリンズ夫人を困らせておいででしたが、薬が効いたようです。すぐに眠られて、今はぐっすりと休んでおられます」
戻ってからのフレデリカは、カミラの意識が戻らないことに大騒ぎをして、自分で看病すると言い張っていた。まさか殺そうとした相手の看病をさせる訳にはいかない。少しばかり強い薬を使って眠らせてある。
「カミラ奥様はいかがでしたか?」
「どうやら都合よく全部忘れているみたいね。それほど強く術が影響したという事よ。今はカミラ奥様をあの子に近づける訳にはいきません」
垂れ幕がかすかに動く。その事実にハンスもフレアの心情を慮っているらしい。
「念のためです。もう魔法職では仕掛けてくることは無いと思いますが、他にも長い手として使える手段は色々とあります。貴方の方で警護を密にお願いします」
「はい、ロゼッタ様」
ハンスの答えに、ロゼッタが少しばかり嫌そうな顔をする。
「様を付けるのはやめなさい。貴方が私をそう呼ぶ必要があったのは、もう遥か昔の事です。それと貴方の古巣にお礼に行きたいので、後で馬車の手配をよろしくお願いします」
「はい、ロゼッタさん。喜んで」
そう答えると垂れ幕の陰から気配が消えた。