別人
トン、トン、トン――。
流し場の方から聞こえてくるリズミカルな音に目が覚めた。カーテンの向こうにから、夜明け前の赤い光も見えている。出来ることなら永遠に来てほしくなかった朝に、剣技披露会の朝になってしまったらしい。居間に足を踏み入れると、マリが流し場から部屋へと入ってきた。
「おはようマリ」
「フレアさん、おはようございます。今日は着替えがありますので、朝ご飯を早めに食べていただけると助かります」
マリが入り口の横を指さす。いつもは制服がかかっているはずの場所に、赤いドレスが掛けられていた。深紅の生地が、昇り始めた朝日に、まるで炎の精が舞い降りてきたみたいに輝いている。
「モニカさんがお茶会用に手配してくれたドレスです」
「きれい……」
思わず口から言葉が漏れた。いや、”きれい”なんて言葉ではとても表せない。
「本当にそう思います」
マリもうっとりした表情で私に同意する。だけど、家で試着したときは、こんなにきれいな生地だと気づかなかったのは何故だろう?
「モニカさんの方で生地が納得できなかったらしく、色々と手を尽くして探した生地で仕立てたそうです」
「そうなんだ」
やっぱり生地が変わったんですね。でも、これはかなりお高いやつですよ。
「ちゃんと仕立て代を払えたのかしら?」
そうつぶやいた私に、マリが苦笑いをして見せる。
「ライサ商会から、利払いが遅れた事へのお詫びだそうです」
「今日は主役じゃないし、私なんかにはもったいない」
これは二年後に入学するアンにこそ、着させてあげたいドレスです。
「フレアさんは生徒の代表ですから、主役のおひとりです。もう一着のドレスは入学式で破けましたので、これしかありません」
「そ、そうでした」
あれは不可抗力ですよ。いたいけな乙女を、新人戦の出場者と勘違いする方が間違っています。
「髪を整える時間もありますから、さっさと朝食を食べてください」
マリが湯気を立てるパンと目玉焼きをテーブルに置く。その香ばしい匂いに、私の胃は健康的な音をたてたが、同時にある疑念も浮かんできた。
「マリ、今朝は朝食抜きにしてもいいかな?」
「ドレスの事を気にされています?」
「は、はい……」
ドレスの採寸をしたのは半年以上も前だ。団体戦の時に少しは絞れた気もするが、この半年であまり成長して欲しくない部分に限って、よく成長している気がする。そもそも、マリの用意してくれるご飯が美味しすぎなんです!
「ご心配は無用です。モニカさんの方で仕立て直したいと言う話があった時に、私の方で寸法の調整をお願いしました」
「えっ、そうなの!?」
流石はマリです。私の事をよく分かっています。でも、いつの間に採寸をしたんだろう? まあ、細かい事を気にしても仕方がありません。一の街で八百屋をやっていた頃の勢いで朝食を平らげ、化粧台の前へ腰を下ろす。
「しばらく動かないようお願いします」
そこからは、まるで戦に出かける準備でもするみたいにてんやわんやだった。先ずは私の体に合わせたはずなのに、拷問としか思えないきつさでコルセットを絞められる。そして、どんなに髪が引っ張られようとも、じっと息を潜めて耐え続けた。このまま出来の悪い彫像になるんじゃないかと思った頃に、やっとマリの手が止まる。
「フレアさん、確認をお願いします」
相当な重労働だったらしく、肩で息をしつつマリが私へ手鏡を渡してきた。赤毛といい、くせ毛といい、同じになって欲しくないものに限って、どうして前世と同じなんですかね? そう思いつつ、渡された手鏡を覗き込む。
『うん?』
なんでしょう? 手鏡の向こうで、どこかの貴族のお嬢さんが私を見ています。片目をつむると、そのお嬢さんも私へ片目をつむって見せた。
「ええぇぇぇ――!」
どこの誰ですか!? 確かに赤毛だけど、まるで絹糸を垂らしたみたいに、まっすぐ下へ向かっています。それに目も違います。いつもの倍ぐらいになっていませんか?
「もしかして、ロゼッタさんに弟子入りしていました?」
「何のことです?」
「これは間違いなく魔法ですよ。魔法以外の何物でもありません!」
それを聞いたマリが、口に手を当てて笑って見せる。そう言えば、前にも同じことがあった気がします。前世で柚安さんに城塞の町へ連れてかれた時に、化粧をしてもらったのと同じだ。その時も自分が全くの別人に見えました。化粧おそるべし。
「姿見でドレスを見てもらってもいいですか?」
マリにうながされて姿見の前に立つと、燃えるような赤いドレスに身を包んだ見知らぬ女が立っている。そう言えば、前世で仕立ててもらったドレスも、同じように燃えるような赤でした。ドレスを見ていると、柚安さんのお母さんの柚月や、お姉さんの柚衣と、夢のように楽しい時間を過ごしたのを思い出す。
同時に胸の奥で何かが疼いた。白蓮企画のご苦労さん会でドレスを着ることはできたけど、柚月さんや柚衣さんには見せられなかった。すべては私の油断のせいだ。
「ご苦労さん会の時の事を思い出されましたか?」
マリは私が何を考えているのか察したらしい。
「うん。色々あったけど、とっても楽しかったね」
思わず涙が流れそうになるが、必死にこらえる。マリの努力が水の泡になってしまいます。
「あの時も今日と同じく、とってもお似合いです」
「本当?」
「もちろんです!」
私の問いかけに、マリは大きくうなずいた。だが急に焦った顔をする。
「フレアさん、時間がありません!」
マリの慌てた声に、テーブルの上にある砂時計へ目を向けた。だけど砂はまだ十分に残っている。
「まだ時間はあると思うけど?」
「今日の会場は中庭の先です。それにドレスでの移動ですよ」
『そうでした。ドレスでした!』
いつもの歩幅の半分以下でしか歩けないうえに、すそをマリにもってもらわないといけない。そう考えると、入学式の時と同じで全く余裕がなかった。あの時は焦りまくった挙句に、ドレスの腰回りを破いている。今日はセシリー王妃やスオメラ大使が来るというのに、破けたドレスで出るわけにはいきません。
「さっさと行きましょう!」
そう言って立ち上がった瞬間、足の先に痛みが走った。会場に着くまでは、いつもの革靴に履き替えたほうがいいかもしれない。そう思ってマリに声をかけようとした時だ。
トン、トン、トン……。
遠慮がちに部屋の扉をたたく音が聞こえた。