お礼
マリアンは警備員に目配せだけして、学園の警備室の横を抜けると、馬車だまりの奥へと足を向けた。午後の遅い時間、馬車だまりに馬車の姿はほとんどない。だが、奥の木立の陰に、目立たぬよう、無紋の馬車が止まっている。マリアンは手にした袋を体の前へ抱くと、足早にその馬車へと向かった。
マリアンが馬車の扉に手をかける前に、いずこかから現れた、黒ずくめの御者が扉を開ける。マリアンが馬車に乗ると、御者の掛け声とともに、馬車が動き始めた。鎧戸を落とした馬車の中は真っ暗だ。
シュ――。
マッチが擦られる音と共に、油灯の黄色い光が灯った。その光が、マリアンの反対側に座る男性の姿を映し出す。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
「ロイス、あなたこそどうなの?」
「俺か? 前と同じと言いたいところだが、やっと外に出歩くには不自由は感じなくなった」
そう告げると、手にした細身の杖をマリアンの前で振って見せる。
「それよりも、お前には謝らないといけない。例の件だが、色々あってあまり進んでいない。一番の問題は人手の確保だ」
「スオメラとの交易の影響?」
「お前の耳にも入っていたか。有力な家が競って船の手当てをしている。ライサ商会の連中は、寝る暇もないぐらい忙しいらしい」
「エイブラム代表や、コリー会計長はご愁傷様ね」
「二人ともお前に会いたがっていたぞ。たまには手伝いにいってやったらどうだ?」
「できればそうしたいところだけど、こっちもかなり忙しいの。それで、例の件はどこまで?」
「遅れてはいるが進んではいる。クリュオネルが開けた大穴を隠している霧は、ここ半年でさらに後退しているらしい。スオメラが開発した新しい術式と言うのが無ければ、カスティオール領への近海航路ですら、維持できたかどうか怪しい所だな」
「それで魔法職の奪い合いになっていると聞いたけど?」
「その通りだが、やっとそのめどがついた」
「あの新人?」
マリアンはロイスの背後にある、御者台の方へ視線を向けた。
「ランセルの後釜だ」
「出所は洗ってあるの?」
それを聞いたロイスが、苦笑いを浮かべて見せる。
「真っ黒だよ。どこで何をしてきたのかも含めて、一切不明だ。そもそも、由緒正しい魔法職など、うちの組にくると思うか?」
「それはそうだけど、いきなり護衛役なんてやらせても大丈夫なの?」
「お前はうちの組の唯一にして最大の秘密だ。もしどこかでつながっているのなら、これではっきりする」
「出たとこ勝負そのものじゃない。でもきらいじゃないわよ」
そう告げると、マリアンは椅子から腰を上げて、ロイスの方へにじり寄った。
「少し目をつむっていてもらえる」
マリアンの言葉にロイスは戸惑ったが、素直に目をつむった。次の瞬間、ロイスの唇に柔らかい何かが押し付けられる。同時に、生暖かい舌が口の中へと差し入れられた。
「おい!」
ロイスが押し返そうとした手を跳ねのけて、マリアンが口づけを続ける。ロイスの肺が息を求めて喘ぎだしたころに、マリアンはやっと唇を離した。
「いきなり何をするんだ!」
「私なりのお礼よ。学園に戻るから、エイブラムさんや、コリーさんによろしく。それにモニカさんには、無理をしないように伝えておいて」
そう告げると、マリアンは天井を軽く叩いた。御者が馬を制する声と共に馬車が止まると、マリアンは素早く馬車を降りた。林の中の小道を去っていく馬車へ目を向ける。
「ロイス、あなただけが頼りよ」
マリアンはそう言葉を漏らすと、学園に戻る道を歩き始めた。しかし、背後から感じる違和感に足を止める。誰かが自分の後をつけてくる気配がした。
荷物を持ち直すふりをしながら、スカートの下に隠した短剣に手を伸ばして、背後を振り返る。だが見えるのはまばらに生える木々と、夕刻の光に伸びた自分の影だけだ。
「気のせい?」
マリアンはそうつぶやくと、再び学園に戻る道を歩き始めた。
手にした細身の杖を座席に立てかけると、ロイスは耳を澄ました。
ハイホー!
御者が馬を追う声が、御者台から聞こえてくる。特に何かをする気配はない。何かするとしても、自分の目の前ではしないだろう。戻ってからは注意深く見張る必要がある。
そう思いつつ、ロイスは皮の手袋を外すと、マリアンのぬくもりが残っている唇へ手をやった。口の中から小さな布を取り出す。マリアンが口づけをしながら、自分の口の中に押し込めてきたものだ。
ロイスはそれを手の中に隠し持つと、油灯りの調整をするふりをしつつ、明かりにかざした。薄い絹の布には唾液でかすれぬよう、針の先に血をつけて書いたと思われる文字が記されている。
『あの人をここから脱出させる。逃げる先は、ロストガルもスオメラの目も届かない先を考えて』
布にはそう記されていた。ロイスはそれを油灯りの火にくべると、馬車の鎧戸を開けて、外の景色を眺めた。木立の上に見える空には、灰色の雲が現れ、それが春の強風に、西から東へとものすごい速さで流れていく。
「どうやら、また厄介ごとに巻き込まれているな」
そうつぶやくと、ロイスは杖を手に、馬車の天井を軽く叩いた。