表裏
真夜中の月が空高く昇っている。女子生徒宿舎の物干し場に人影はなかった。取り込み忘れたシーツが何枚か、風に吹かれて舞っているだけ。どこかからか、繁殖期を迎えたフクロウの鳴き声も聞こえてくる。
そのシーツを取りに来たのだろうか? 侍従服を着た少女が、物干し場へと駆けよってきた。しかし、シーツに手をかけることなく、その前で足を止める。
「お嬢様、この様な場所までご足労いただきまして、ありがとうございます」
シーツの背後から声が響いた。同時に、月の光が頭を下げる男性の影を映し出す。
「バレツ、そのお嬢様と言うのは、やめてもらえないかしら。それに、こちらから呼び出したのだから、頭を下げる必要もない」
「マリアン様、承知しました」
マリアンの言葉に、シーツの向こうにいる影が再び頭を下げた。
「そんな事より、どうしてあなたがあの人へ、へソフィア王女からの封書を渡しに来るわけ?」
「以前、この学園にいた縁で頼まれました」
「それはあの人から聞いたわ。でも、どうしてあなたと、ソフィア王女がつながっているかが分からない」
「フレデリカお嬢様は、封書の差出人を勘違いされているようですね。あの封書の差出人は、ソフィア王女ではありません」
「では、セシリー王妃?」
「セシリー王妃でもありません」
「一体誰なの?」
「差出人は国王エドモンド13世、その人です」
「国王陛下からの直接の指示と言うこと!?」
「形式的にはそうですが、内容としては、セシリー王妃の意向によって書かれたものだと思います」
「どうしてそれを、あなたが持ってくるの?」
「侍従のいない王家や、貴族の家はございません。その筋から頼まれたものです」
バルツの言葉に、マリアンは息を飲んだ。
「ヴォルテの二つ名は執事よね。もしかして、ヴォルテは裏で、世の侍従たちを操っていると言うこと?」
「操っているかはさておき、ヴォルテさんが侍従に知り合いが多いのは確かです」
「そう言うからくりなのね……」
侍従は誰よりも主の秘密に触れる。それは絶対に主人を裏切らないと言う信頼があってこそだ。でもその信頼が幻想に過ぎず、裏で侍従たちがつながっていたとしたら?
彼らは黒曜の塔にいる魔法職なんかより、よほどに世の秘密に通じた存在になる。
「それだけの力があるのに、私なんか必要なの?」
「ヴォルテさんから聞いているとは思いますが、マリアン様はこの世界を救う鍵の一つ。私たちにとっては特別な存在です」
「単なる小娘よ。世界を救いたいのなら、あの人の手伝いをすればいいじゃない」
「救うと言うのは、口で言うほど簡単な事ではありません」
その時だ。林の向こうから、風のざわめきが聞こえてきた。次の瞬間、春を告げる強風が、シーツをどこかへと吹き飛ばす。マリアンの目に、バルツが手に何かを持っているのが見えた。それは月の光を浴びて、黄金色に輝いている。
「この金貨の表と裏のようなものです」
そう告げると、バルツは天高くコインをは弾いた。同時に抜く手も見せず、投擲用のナイフをどこかへと放つ。マリアンはスカートの下に隠した短剣に手を伸ばした。だが、バルツから殺気の様なものは感じられないし、周りに誰かがいる気配もない。
マリアンは短剣から手を離すと、バルツが放ったナイフの先を見つめた。そこでは茶色い羽を持つ一匹のフクロウが、木の幹にナイフで縫い付けられている。フクロウからは、一匹分とは思えない血潮が、幹を伝わり、地面へと流れ落ちていた。その下で何かが逃げていく気配がする。
「私のナイフは、一匹の木ネズミの命を救うと同時に、一匹のフクロウの命を奪いました。これは一匹を救って、一匹を滅ぼしただけでしょうか?」
「どう言う意味?」
「この時期のフクロウは繁殖期に入っています。おそらく近くの巣には、卵からかえったばかりの雛がいることでしょう。私のナイフは一匹のフクロウを殺しただけでなく、その雛の命も奪い去ったことになります」
「それが運命という物じゃないの?」
「運命ではありません。間違いなく、私の意志による操作です。それに私のナイフはフクロウにとって、自分たちが日々戦っている相手を、はるかに超えた存在だったと思います」
「つまり物事は相対的で、人知を超えた力は、使い方次第で、世の破滅につながりかねないと言いたいわけね」
「流石はマリアン様。その通りです」
「でもそれって、この世界で、魔法職が日々振るっている力そのものじゃないの?」
「魔法職の振るう力は強力ですが、それを邪魔するのが容易であると言う点において、極めて脆弱な存在でもあります」
そう告げると、バルツは手にした細身の杖で、白亜の塔を指し示した。
「ですが、そこに力がある以上、それを使ってしまうのが、人の性なのでしょうね。その自然の摂理を超えた力によって、己の魂が失われてしまうとしてもです。もっとも、それを成すのは魔法職だけとは限りませんが……」
「結局のところ、私の質問の答えにはなっていないのだけど?」
「いえ、質問の答えそのものです。己が扱えない力を制御することはできません。せいぜい、それを持つものに訴えかけるだけ。神への祈りと同じですな」
「あなたたちが私に期待しているのは、あの人に対して、誰を救ってほしいかを告げること?」
「いえ。あなた自身が、世界を救いたいと思っていただくために、必要な存在なのです」
「それなら、あの人に直接お願いすればいいことよ。それにあの人は、誰かがお願いなんかしなくても、自分の意志で世界をすくってくれる」
「そうでしょうか?」
バルツが首をかしげて見せる。そして手にした金貨を、マリアンの前に差し出した。
「表と裏、どちらかしか救えないとすれば、その時はどちらを選びます?」
「そ、それは……」
バルツの質問に、マリアンは言いよどんだ。前世の森で、私と白蓮さんのどちらかしか救えないとしたら、あの人はどちらを選ぶだろう? 白蓮さんを選ぶに決まっている。それが、白蓮さんと百夜さんだったら?
「かつて、力をこちらで制御する試みをしたこともありました。それを続けている者もいます。ですが、私たちは悟ったのです。それを選べるのは、その力を持つものだけだと……」
バルツはマリアンの手を取ると、金貨をそっと置いた。
「私たちに出来るのは、その選択の鍵を用意するしかない。それがマリアン様、あなたなのです」
ザワザワザワ――。
再び木立が揺れる音が響く。それはつむじ風となり、物干し場に残っていた、すべてのシーツを夜空へ舞い上げた。風がそれをどこかへと運び去ると、バルツの姿は消えている。木立のはるか上まで登った二つの月が、何もない物干し場を照らしているだけだ。
「ばかじゃないの。私はあんたたちの人質になるつもりはないわよ」
マリアンはそうつぶやくと、バルツから渡された金貨を、林の奥へと放り投げた。
月明かりの下、林の奥に男女の姿があった。一人は学生服を身にまとっており、もう一人は侍従服を着ている。もし誰かが二人を見つけたとしたら、どこかの男子学生が、侍女と逢引きしていると思うだろう。だが、男子学生の服は大きく裂け、そこからは血がとめどなく流れ出ていた。
「リコ、だいじょうぶかい?」
「お嬢様がお気になさるようなものではございません」
その答えに、侍女の姿をしたアルマは首を横に振った。
「強がりはよしな。いくら仮の器に憑依しているだけとはいえ、あんたにこれだけの傷を負わせるとは、流石はバルツだ」
「それよりも、こちらの存在がばれています。これ以上、ここに留まるのは危険です」
「ここからがお楽しみだと言いたいところだけど、あんたの言う通りだ。これ以上はやばすぎる」
ヘクターの顔をしたリコがうなずく。
「あちらこちらの紐をやって、その裏の裏を泳いでいたつもりだったけど、私たちが本当は誰と組んでいたのか、気づかれたかもしれない」
そう告げると、アルマは足元にひざまずくリコの顔を上げさせた。その唇に己の唇を重ねる。
「リコ……」
「はい、お嬢様」
「今からでも遅くはないさ。私を乗っ取りな。そうすればあんたは本物のあんただ。誰にも止められはしない」
それを聞いたリコが、アルマの靴に口づけをする。
「私はお嬢様のために、この世界にいるのです」
「創造主に似たのかね。人でもないくせに、本当に意固地なやつだよ。だけど、あんたに力を取り戻してもらわない事には、私たちに未来はない。その為にも、あの妹の魂は絶対に必要だ」
「はい、お嬢様。仰せの通りに」
リコがアルマに深々と頭を下げる。その体には、もう何の傷跡も見えなかった。
317話「表裏」と318話「丸投げ」の順番が逆になっていました。ご迷惑をかけして申し訳ありませんでした。