証拠
トン、トン、トン……。
流し場の方から、マリが野菜を切る音が聞こえてきた。今日はロゼッタさんが宿直の日なので、補講はない。マリはいつもよりゆっくり目に、夕飯の準備をしている。
授業から戻ってき後の、いつもの情景だ。だけど、あんなとんでもない目にあった後だと、こちらの方が、夢ではないかとさえ思えてくる。
「マリ……」
私は里イモを洗い始めたマリに声をかけた。
「今日はとっても疲れた一日だった」
「戻られた時から、疲れた顔をしていましたし、そうじゃないかと思ってました」
「やっぱり?」
「図書館での調べ物が、大変だったのですか?」
マリの問いかけに、私は首を横に振った。マリには三人で、放課後に図書館で調べ物をするとだけ言ってある。いくら相手がマリでも、男性の体の研究に行きますとは、口が裂けても言えません。
「ここだけの話だけど、今日はとんでもないものを見たの。閉架図書で、イアン王子が、カサンドラさんといちゃついていたんだけど……」
マリが包丁を手にしたまま、私の方へ詰め寄ってくる。
「いちゃついていたとは、どう言うことです!」
思い返せば、二人がしていたのは、「いちゃつく」なんて言葉では表せない。あれはどう見ても、子作りの一歩手前です。
「風呂をのぞきに来ただけでなく、留学生にまで手を出したんですか!?」
もしかして、心の声が漏れてました?
「そ、そう言うことになりますね……」
「ごみです。ごみくずです。権力者の男たちなんて、みんなごみくず以下です!」
マリの手がわなわなと震える。もし嫌味男がこの場にいたら、間違いなく遠い所へ送られています。その前に、私が包丁で刺されそうな気がする。
「マリ、落ち着いて」
私の視線に気づいたマリが、慌てて包丁を引っ込めた。
「とんでもないのは、そこじゃなくて……」
「もっとすごいことをしていたんですか!?」
「男女関係じゃなくて、私たちの前世に関することよ」
私のセリフに、マリがあっけにとられた顔をする。
「いやらしい菌がうつると思って、図書館を飛び出したんだけど、間違って、校舎とは反対側の建物に迷い込んじゃったのよね。それが部屋の無い、廊下だけが続く変な建物で、そこに飾ってあった絵が、前世の人たちだった」
この世界へ来たのは私やマリだけではないのだ。もっと多くの人がここへ転生してきたに違いない。しかもそれは秘密にされている。
「人で分かるものでしょうか?」
首をかしげるマリへ、私は自分の制服のすそを持ち上げた。
「衣装よ。ここの上着って、前世に比べて丈が短いじゃない。その絵に描いてあったのは、前世と同じく上着の裾が長くて、襟元がゆったりしていた」
「どこかの地方の服が、偶然似ていると言うことはありませんか?」
「私も最初はそう思った。でも動物の絵もあって、そこに描いてあったのが、黒犬や鳥もどきよ」
「黒犬や鳥もどきも、犬や雄鶏と似ていると言えば……」
マリはまだ首をかしげている。
「絵以外も変だったの。突き当たりで、廊下が左右に分かれているのだけど、いくら角を回っても、出口にたどり着かない。それだけじゃなくて、気づくと同じ場所に戻っていた」
「まさか、同じ方向に回っていた、と言うことはないですよね?」
いくら私でも、流石にその程度で迷ったりはしません。
「マリ、これでも元冒険者よ。歩数と曲がった角ぐらいは数えます」
「前世で旧街道を通った時も、同じ様なことがあって、それと似た感じがした」
「旧街道って、あの旧街道ですよね?」
「その時は私や白蓮、百夜だけじゃなく、旋風卿や世恋さんに、歌月さんもいた。本物の冒険者たちがいたのに、なぜか同じ場所にしかたどり着かない。それで、神もどきが支配していた島に、行っちゃったのよね」
「そこで、神もどきを倒されたんですよね」
「倒したと言うか、燃やしてやったわ。そしたら、あっけなく出られた。南区では神もどきのあかちゃんがいたから、この世界でも同じ事が起きるのかもしれない」
マリはまだ信じられないと言う顔をする。私だって、これがなかったら、悪夢を見ていただけだと思う。
「証拠があるの。その廊下にあったものよ」
私は制服のポケットから小さな石片を取り出すと、頭の中で明るくなれと命じた。それに応えて、石片が黄色い光を放ち始める。
「魔石!」
マリの口から、悲鳴のような声が上がった。
「信じる気になった?」
「どうやって、そこから出たのですか?」
「途中で人影を見た気がして、その後を追いかけたら、外へ出られた。でも前は原っぱだったところが、神殿と競技場が一緒になった感じの場所になっていて、そこにローナさんの付き人のバルツさんがいたの」
「バルツ……さんですか!」
マリが魔石を見たときよりも、さらに驚いた顔をする。
「ソフィア王女からの封書を渡したくて、私を探していたらしいの」
「どうして彼が、ソフィア王女からの封書を持っているんです?」
「よく分からないけど、以前、学園にいた縁で頼まれたそうよ。バルツさんの案内で、いつもお昼を食べている中庭に出られた」
もし、会っていなかったら、まだ白亜の塔の周りをうろうろしていたはずだ。ロゼッタさんにも、会えなかったことだろう。
「いずれにせよ、これがあると言うことは、この世界にもマ者がいるということよ」
マリが私の手の中で輝く魔石を、じっと見つめる。
「ですが、ここは前世の世界とは別です」
顔を上げたマリが、窓の方へ視線を向けた。その先には黄色い光を放ち始めた大きな月と、血の色を思わせる赤く小さな月が見える。マリの言う通りだ。私たちの世界には赤い月は存在しない。でも、ちょっと待って……!
「マリ、赤い月は前世にはなかった。黄色い月はどう?」
私の問いかけに、マリが首をひねって見せる。
「特に思いつくことはありませんが……」
「そう。何も変わっていない」
表面の模様も全て同じ。月だけじゃない。マ者も黒き森もないけど、それ以外は全部同じ。そんな偶然って、あるんだろうか?
「ここと前世の違いは、赤い月を足して、黒き森を引いただけ。ほとんど同じなのよ」
「言われてみれば、確かにそうです」
「私たちが元いたところへ戻る方法だって、ありそうじゃない?」
それを聞いたマリが、少し心配そうな顔をした。私だって、前世の自分に戻れるとは思っていない。でも白蓮と百夜が、この世界のどこかで生きている可能性はある。二人とも、限界線の先へ行ったぐらいで、くたばったりはしない。
「皆さんに会いたいんですね」
マリの言葉に素直にうなずく。たとえおじいさんやおばあさんになっていて、孫たちに囲まれていたとしても、一目会いたいと思う。
「この世界もとっても好きよ。マリにも会えたし、イサベルさんやオリヴィアさんともお友達になれた。それでも、前世のみんながどうしているか気になるの……」
そう告げた私の手を、マリがそっと握りしめる。その手の温かみを感じながら、この世界と前世には、まだ違いがあるのに気付いた。
前世の世界に魔法職はいない。