鳥
「こちらにいらしたのですね?」
男性はそう告げると、私の方へ歩み寄ってきた。中肉中背で、これといって特徴のない体型だが、口元にはぴんと横をむいた立派な髭がある。この髭には見覚えがあった。
「ローナさんの付き人のバ……、バイ、いや、バレ……」
あれ、何でしたっけ?
「バレツです。覚えて頂いて大変光栄です」
バレツさんが私に、淑女に対する礼をして見せる。
「お怪我をされているようですね」
足元を見ると、二回もこけたせいか、擦りむいた膝からは血がにじんでいた。バレツさんは胸元から白いハンカチを取り出すと、慣れた手つきで私の膝に巻く。
「ありがとうございます」
「応急処置ですので、後できちんと手当をした方がいいと思います。それよりも、面倒な所へ迷い込まれたようで、お探しするのに少々手間取りました」
そう告げると、辺りを見回す。でも、ローナさんの付き人が、どうしてこんな所にいるのだろう。それに私を探していた?
「ローナさんが私を探しているのですか?」
「ローナお嬢様とは関係ありません。とある方から頼まれ物がありまして、それをお渡しに来ました」
首をひねる私に、バレツさんが百合の押印がある立派な封書を差し出した。それを見て、思わず目が点になる。百合の紋章はロストガル王家のものだ。どうして王家が、私なんかに封書を送ってくるの?
手に着いた土を払い、蜜蝋の封印をはがそうとしたが、しっかりと封印されていて、びくともしない。
「少し大きくはありますが、こちらをお使いください」
封書と格闘する私に、銀色に光る刃が差し出された。諸刃の刀身を持つ投擲用のナイフだ。それを使って封を切ると、中から一枚の紙が出てきた。そこには、「王立学園でのスオメラ使節の接待役を命じる」との一文が書いてある。
その内容に、どうしてこれが王家から出されたのか腑に落ちた。ソフィア王女が言っていた、嘘の罪への罰だ。でも、普通は内務省を通じて、教務課から渡されるか、ソフィア王女から直接渡される気がする。
「どうしてこれをバレツさんが?」
私の問いかけに、バレツさんは手にした杖で、白亜の塔を指さした。
「昔ここにいたことがありまして、その絡みで頼まれたものです」
なるほど。バレツさんは学園に努めていたことがあるのか。確かに、立派な髭は役所勤めの人らしく見える。それなら、この真っ白な舞台が何か、知っているかもしれない。
「バレツさん、これが何か分かりますか?」
「こちらですか?」
私が返したナイフを受け取りつつ、バレツさんは背後を振り返った。
「以前ここに来たときは、何も無い草地だったと思うのですが……」
「剣技披露会の会場ですよ」
「その為に、わざわざ作ったんですか?」
「もともと白亜の塔の一部だったものを、掘り起こしただけです。そのおかげで、いい狩場だったのに、うずらもキジも取れなくなりました。今では鳥もどきぐらいしかいません」
そう告げると、先ほど渡したナイフを構えて見せる。そして肩と腕を一直線にすると、手にしたナイフをおもむろに投げた。それは見事な直線を描いて、円柱の一つへ突き刺さる。でも、獲物らしきものは何処にも見えなかった。もしかして、柱の事を鳥もどきと言ったんですかね?
よく分からない時は愛想笑いが一番です。バレツさんは苦笑いを浮かべる私を一瞥すると、白亜の塔を見上げた。より紺色を増した空を背景に、塔には黄色い光が灯り始めている。
「そろそろ門限の時間になりますね。校舎の方へご案内しましょう」
バレツさんが、ツタの絡まったレンガ造りの壁の方へと歩いていく。その先には小さな木戸があった。それをくぐると、目の前には見慣れた噴水が見える。いつもお昼を食べている中庭だ。先ほどの試合会場と中庭は、単に壁を一つ挟んだだけの場所らしい。
バレツさんの言う通りです。どうして私はあんなめんどくさい所へ迷い込んだのだろう。思わずため息をつくと、噴水の陰から、バレツさんと同じく、真っ黒な服に杖を手にした人物が姿を現した。
「ロゼッタさん!」
ロゼッタさんは私の呼びかけに答えることなく、無言でこちらへ歩み寄ってくる。その顔は温和なものからは程遠い。変なところに迷い込んだ事を怒っているのだろうか?
そう思い恐れおののいたが、ロゼッタさんは私の横を通り過ぎると、背後に立つバレツさんに対して、紳士に対する淑女の礼をして見せた。
「フレデリカ様がお世話になりました。お礼を申し上げます」
「とんでもございません」
バレツさんがロゼッタさんへ、白い手袋をした手を横に振る。
「ここからは私が付き添います。正式なお礼については、後ほどカスティオール家からハーコート家へさせていただきます」
ロゼッタさんの言葉遣いは丁寧だが、前世で城塞の冒険者たちが身にまとっていた、圧力みたいな物を感じる。
「そのようなお気遣いは無用でお願いします」
バレツさんは頭にかぶった帽子を脱ぐと、ロゼッタさんと私へ、丁寧に頭を下げた。
「では、これにて失礼させて頂きます。フレデリカお嬢様、鳥にはお気を付けください。やつらは見かけ以上に凶暴ですよ。何せ人の食べ物を横取りします」
そう告げると、杖を手に噴水の向こうへ姿を消す。それを見送ったロゼッタさんが、私の方を振り向いた。その顔はいつものロゼッタさんに戻っている。
「フレアさん……」
「は、はい!」
「この中庭から向こうは立ち入り禁止区域です。たとえ何かに招かれたとしても、決して足を踏み入れないでください」
「了解しました!」
直立不動で答える。でも、「招かれたとしても」とはどう言う意味だろう? それに、ロゼッタさんはバレツさんの事を、どうしてあれほど警戒したんだ?
その理由をロゼッタさんに聞くことは出来なかった。それよりも、ロゼッタさんに会えたことで、今までの緊張が解けると同時に、その疲れに押しつぶされそうになる。
その時だ。ロゼッタさんが私の手をそっと握りしめた。そして私が幼い時と同様に、その手を引いてくれる。その温かさに安堵しながら、私はロゼッタさんと一緒に、宿舎へ向かって歩き始めた。
薄暗い部屋の中に、むせび泣く老人の声が響いている。時折部屋を横切る黄色い光が、長いあごひげを持つ老人と、それが手に抱く小鳥の影を壁に映し出した。
「おおお、私の愛しいしもべよ!」
老人の口から絶叫が漏れる。その手に何かを抱いているが、その姿はどこにも見えない。
「お前たちも、さぞかし悔しかろう」
老人は見えない何かを鳥かごへ戻すと、さもいとおしそうに、部屋につるされた空の鳥かごを一つ一つ抱きしめた。それに合わせて、部屋の中から鳥の激しい鳴き声が響き出す。
「だが今は自重の時だ。あれほど厳重に張った結界を、あっさりと破ってくれた。あやつらの力は侮れん。だがこちらとて昔の我らではない。やつらの足元をすくってやるのだ」
そう告げると、白亜の塔の主であると同時に、王立学園学園長シモンは、壁にかかる建国の英雄たちの肖像画に向かって、その老いた拳を振り上げた。